#69
平成17年
12


このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


    #1 御挨拶


謎解き中のワタシ

募集! 名探偵さん!
謎解き 「白秋はと来たか」


 ウーン、ウーン・・・
 これは私の何の声でしょ?
実はおくんち過ぎにオニノカクランをやりまして、高熱にあえいでいる声です。
時々、「ホームページ、12ガツゴウ・・・、ヘルプミー・・・」なんて、うわごとも混じりましたですよ。(多分)
熱の中でも仕事熱心な私は、ホームページ更新のことを考えていたらしい。感心じゃ。
12月号には、前々から暖めていたテーマをきちんと調べて、「論文」を書くつもりでいたのですが、熱からさめると、時間が足りないことに気がつきました。困ったのう。ただ、天啓もあって、風邪の神様のお告げを受けたのです。
「お前が一人で謎解きをしてえらそうに書くよりもナ、ひと様のお知恵を拝借したほうがよっぽどエエゾ」
というお告げなり〜。

 そこで、私の保持する秘密データを開示して、皆様に謎解きに参加していただき、メールで「論文」を送っていただいて、それをしかるべき審査員に審査していただき、最優秀者一名様になんなりと賞品をお贈りしようというものであります。なんと、アカデミック!
 審査員は、まだご本人の了解は取っていませんが、白秋研究の第一人者、佐賀女子短大の横尾文子教授におしつけるつもりです。アラマア、と引き受けてくださるはず。論文は、メールで、1行以上、上限なし。その後の著作権は、無視しま〜す。勝手に引用、乱用させていただくかも。

 今回挑戦したい謎は、「昭和5年に白秋が唐津を再訪したときに、誰と来たのか」というものです。
ちなみに、一回目は、明治40年、『五足の靴』で与謝野鉄幹、平野万里、木下杢太郎、吉井勇と一緒で、白秋がまだ早大生であった23歳のときです。
 二回目が昭和5年、すでに国民的詩人である45歳の時ですが、その時誰と来たんだろう、という、重大な・・でもないかも知れないけど、もしかして、唐津にとっては重大な・・謎に突き当たったわけです。
 まず、謎だと思ったいきさつから聞いてください。





 ここに一冊の画帳あります。屏風みたいに開いていく仕立で、なんというのでしょうか?昔のアルバムなんかに
横18cm 縦24cm
ありますよね。タイトルは『青海小葉録』。持ち主?は『帆照』。現在の持ち主は唐津市在住の引地昌仁氏で、私の古い友人です。氏によると、この冊子は、氏のお母様(故人)が友人(故人)から譲り受けられたもので、その友人とは、昔唐津にあった『掬水(きくすい)』という料亭の女将であられたそうな。(『掬水』のことはいずれちゃんと調べて書きたいのですが、まだ手が回りません。)
 引地氏はそのノートを私に見せてくださって、その中の1ページを示されました。それを見て、「わー!白秋!」と私が叫んで、「貸して貸して」とお借りしたのです。

 白秋の書いたものは、「薄野に白くかぼそく立つ煙あはれなれども消すよしもなし」(『雀の卵』掲載歌)です。つくずく眺めて、さてその前後のページも見たときに、疑問がわたしのこころにわきあがってきたのです、薄野に立つ煙のように・・・。
 ほかのいくつかの揮毫には、号の書いてあるものもあればないものもあり、一見
拡大
関係なさそうに見えるのだけど、もしかしてこのいくつかは同時期に書かれたものではないか、仲間同士じゃないか、と思えてきたのです。
 そこで、ひょっとして、昭和5年の来唐は、一緒に錚錚たるメンバーが来てたのに、唐津市民はもう忘れているのではなかろうかと、胸に薄煙が立ち始めた、と、こういうわけです。(これが書かれたのを昭和5年にしぼるわけは、明治40年には『雀の卵』はまだ書かれていないからですし、他のページの年号の書いてあるところを見ても、確かに昭和5年らしいのです。)

 そこで、画像でいくつかのページを呈示し、そのページへの私の推理を書きますので、それに対して賛成なり、反対なり、またその根拠なりをお示しいただきたいわけです。 私のずるい魂胆がおわかりいただけたでしょうか?

 ま、とりあえず、初めてみましょう。よっぽどお暇なかた、お付き合いでお読みください。そして、いよいよお暇なかたは色々調べてください。また、死ぬほど暇なかたは、論文を書いて送ってください。締め切りは、来年2月末日といたします。


謎1
「松浦潟ペパアミントの色あらずシャンペンのごと寄する白浪」 柊? 格?

この『柊』は、誰か?
もしかして、宮柊二?
それはヘンですよね、宮柊二が白秋と出会うのは、昭和8年くらいでしょ?
この、ペパアミントだの、シャンペンだのと歌うヒト、だあれ?もし、『格』だったら、新居 格(にい いたる)?
時代的には無理はないけど、接点は?
    

   
謎2
「わが武雄馬より落ちる憂あり 馬 曳きて行く虹の松原」 号なし

画と賛が別人の手によるものとして、賛の字体が白秋に似てません?
「わが武雄」と、親しみを込めて、からかってる感じって、その頃『コドモノクニ』などで一緒に仕事をしていた画家、武井武雄? 写真を拡大
       

謎3
「太陽はもと女性なりしと人のいふに 日の本の女の などかく暗き」
雨雀(?)


唐津の女は明るいはずなのに、このかた、なんでこんなヘンな歌を書き残したのでしょうか?
「雨雀」と読めるような気がする号ですが、どう思われますか?秋田雨雀のような気がするんですがねえ。童話などを通じて同時期に盛んに活動していたと思うのですが。教えてくださ〜い。
        

謎4
「くじら追ひ 八重の潮路のあら浪を 越え行く船に我もあらばや」 雄?


この、雄に似たような号、なんと読むのでしょうか?この歌がひっかかるのは、くじらが出てくるからです。白秋は昭和5年来唐の時には、呼子の山下家に逗留しています。山下家は「鯨の蕪骨の粕漬け=松浦漬」を作っていて、白秋も鯨関係の場所を案内されています。もし一緒に行っていれば、このかたがくじらを詠んでもおかしくないでしょ。
字の実物を見るとけっこう手がふるえていて、白秋よりも年配のかたではないか?


謎5
「焔よ燃えろ赤い鉄 たたきゃひびくぞかんかんと 胸じゃ嘆いてゐようとも泣くな心は火に煙る」 「焔の歌」正夫


ここに「焔の歌」とカッコつきで書いてあるのは、引用を意味するとおもうのですが、どなたか元歌をご存知ないでしょうか?私がひっかかるのは、白秋はこのとき「八幡製鉄所社歌」を作成依頼されて八幡に行ったあとなのです。もし一緒に行ったひとなら、唐津に来て唐突に「焔の歌」とか書いてもおかしくないかな、と・・・。この正夫さんて、だれでしょう?もしかして、福田正夫?
       

謎6
「飛れふりの 山の話のあはれさに また書きおくる旅の玉章」 **介?真之介?


この**介さんって?
「ひれふりの山」というのは、万葉集に出る松浦佐用姫の話で、船出する夫を慕って佐用姫がヒレを振ったという伝説のことで、この山は鏡山です。
白秋は、この山を訪れていますし、『唐津小唄』や『新曲 松浦潟』にも佐用姫を取りいれています。で、私は、この**介さんというかたも一緒に居たのではないかと・・・。


謎7
「葉山茂山 名護屋の城址 左美多るゝ」 庚午 夏 紅草


この「庚午」をしらべたら、まさしく昭和5年なのですね。白秋が来たのは、「夏」です。名護屋城址もまた、白秋が訪れ、歌詞に入れている場所です。
このあとのページからは年号が数年とびますので、この「紅草」さんまでが、白秋を取り巻いて賑やかにやってきた一団だったのではないか、というのが、私の知りたいところなのです。




 以上が、私のモヤモヤと気にかかって、解きたい謎でございます。どうでもいいけど、知れば見えてくるものもあろうと言うもので、皆様のお考えをお聞かせください。だれだれが一緒に『掬水』で宴会をしたのかがわかるとうれしいと、所蔵者の引地氏は心待ちにしています。みなさんによろしくとのこと。
 では、まじめにがんばってね。良いお年をお迎えください。さようなら。

女将御挨拶バックナンバー 白秋関係
# 3 北原白秋と唐津
#26 『松浦潟』再び
#30 松浦潟は大騒動


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ありがとうございました。
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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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