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募集! 名探偵さん! 謎解き 「白秋は誰と来たか」 |
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ウーン、ウーン・・・ これは私の何の声でしょ? 実はおくんち過ぎにオニノカクランをやりまして、高熱にあえいでいる声です。 時々、「ホームページ、12ガツゴウ・・・、ヘルプミー・・・」なんて、うわごとも混じりましたですよ。(多分) 熱の中でも仕事熱心な私は、ホームページ更新のことを考えていたらしい。感心じゃ。 12月号には、前々から暖めていたテーマをきちんと調べて、「論文」を書くつもりでいたのですが、熱からさめると、時間が足りないことに気がつきました。困ったのう。ただ、天啓もあって、風邪の神様のお告げを受けたのです。 「お前が一人で謎解きをしてえらそうに書くよりもナ、ひと様のお知恵を拝借したほうがよっぽどエエゾ」 というお告げなり〜。 そこで、私の保持する秘密データを開示して、皆様に謎解きに参加していただき、メールで「論文」を送っていただいて、それをしかるべき審査員に審査していただき、最優秀者一名様になんなりと賞品をお贈りしようというものであります。なんと、アカデミック! 審査員は、まだご本人の了解は取っていませんが、白秋研究の第一人者、佐賀女子短大の横尾文子教授におしつけるつもりです。アラマア、と引き受けてくださるはず。論文は、メールで、1行以上、上限なし。その後の著作権は、無視しま〜す。勝手に引用、乱用させていただくかも。 |
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今回挑戦したい謎は、「昭和5年に白秋が唐津を再訪したときに、誰と来たのか」というものです。 ちなみに、一回目は、明治40年、『五足の靴』で与謝野鉄幹、平野万里、木下杢太郎、吉井勇と一緒で、白秋がまだ早大生であった23歳のときです。 二回目が昭和5年、すでに国民的詩人である45歳の時ですが、その時誰と来たんだろう、という、重大な・・でもないかも知れないけど、もしかして、唐津にとっては重大な・・謎に突き当たったわけです。 まず、謎だと思ったいきさつから聞いてください。 ここに一冊の画帳あります。屏風みたいに開いていく仕立で、なんというのでしょうか?昔のアルバムなんかに
引地氏はそのノートを私に見せてくださって、その中の1ページを示されました。それを見て、「わー!白秋!」と私が叫んで、「貸して貸して」とお借りしたのです。 白秋の書いたものは、「薄野に白くかぼそく立つ煙あはれなれども消すよしもなし」(『雀の卵』掲載歌)です。つくずく眺めて、さてその前後のページも見たときに、疑問がわたしのこころにわきあがってきたのです、薄野に立つ煙のように・・・。 ほかのいくつかの揮毫には、号の書いてあるものもあればないものもあり、一見
そこで、ひょっとして、昭和5年の来唐は、一緒に錚錚たるメンバーが来てたのに、唐津市民はもう忘れているのではなかろうかと、胸に薄煙が立ち始めた、と、こういうわけです。(これが書かれたのを昭和5年にしぼるわけは、明治40年には『雀の卵』はまだ書かれていないからですし、他のページの年号の書いてあるところを見ても、確かに昭和5年らしいのです。) そこで、画像でいくつかのページを呈示し、そのページへの私の推理を書きますので、それに対して賛成なり、反対なり、またその根拠なりをお示しいただきたいわけです。 私のずるい魂胆がおわかりいただけたでしょうか? ま、とりあえず、初めてみましょう。よっぽどお暇なかた、お付き合いでお読みください。そして、いよいよお暇なかたは色々調べてください。また、死ぬほど暇なかたは、論文を書いて送ってください。締め切りは、来年2月末日といたします。 |
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以上が、私のモヤモヤと気にかかって、解きたい謎でございます。どうでもいいけど、知れば見えてくるものもあろうと言うもので、皆様のお考えをお聞かせください。だれだれが一緒に『掬水』で宴会をしたのかがわかるとうれしいと、所蔵者の引地氏は心待ちにしています。みなさんによろしくとのこと。 では、まじめにがんばってね。良いお年をお迎えください。さようなら。 女将御挨拶バックナンバー 白秋関係 # 3 北原白秋と唐津 #26 『松浦潟』再び #30 松浦潟は大騒動 |
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