#30
 平成14年 9月

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津の歴史や文化をお伝えするページです。
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#1 御挨拶


昭和初期の箱島の料亭「鴎夢亭」
 


松浦潟は大騒動

―民謡『松浦潟』から見えてきたこと―



 残暑お見舞い申し上げます。
 寄る年波には勝てず、この酷暑に息も絶え絶えの私でございますが、あちこちから応援メールをいただき、頑張らねばと、こめかみに梅干を貼って9月号のページにたち向かっております。ご迷惑ではございましょうが、がまん大会のつもりでおつきあいくださいませ。

  この「女将御挨拶」というヘンな名前のページ(最初はほんとに御挨拶だったのですが、だんだん中味が変わってきたのであります)の本年5月号に「『松浦潟』ふたたび」というのを書きました。北原白秋の民謡『松浦潟』に魅せられた私が、消えかかっていたこの歌を復元した話でございました。今月はその後日談と申しますか、『松浦潟』で大騒動した私が、だんだん調べて行く内に松浦潟が大騒動だった時代に行き当たったことを書かせていただきます。

 4月末更新の「『松浦潟』ふたたび」を書き上げて、もうこれで『松浦潟』を卒業して本業の女将にもどらなければクビになると思い、「これでおしまい!」と自分に宣言したのですが、私の心の中に、もうひとつわだかまっていたものがありました。本当は以前から感じていたけれど、復元することが第一の課題であったために押し殺していたいくつかの疑問です。それは、『松浦潟』、および同時期に白秋が書いた『唐津小唄』の二つの歌そのものに感じる謎でした。
  *二つの歌の歌詞はこちら。

 まず、私が感じた謎から書きます。

 『唐津小唄』は42章からなり、現在の唐津市及び東松浦郡のかなり広範囲の名所をうたってあります。方角に統一性はなく、ここと思えばまたあちら、という具合です。なぜ、こんなにこの歌は長いのですか?覚えらりゃしませんがね、白秋先生。
 次に、長いのはまあ、ありがたいとしても、これだけの数の名所を昭和5年5月の、たった3日の滞在中に全部訪問なさったのでしょうか?
 それに『唐津小唄』の第1章はプロローグとして〈今から松浦潟の歌を歌うよ〜〉という感じですからいいのですが、2章から5章までが福岡県の歌であります。6章になってやっと玉島川(現在東松浦郡浜玉町)に入ってきます。

 私は欲張りでケチですので、『唐津小唄』が唐津だけじゃないのが、なんで〜?と少々不満なのです。
 もっと不服なのが、私の大切な歌、『松浦潟』の3番、〈玄海の島の烏帽子に沖の島、鯨潮ふく小川島、わたしやチラリと一と目でも、せめて姫島、小呂の島、エエコノ、夜あけの霧ぢゃえ〉という、玄界灘の島尽くしに、佐賀県は小川島ひとつで、あとの四つが福岡県の島だということです。烏帽子と姫島は唐津から見えますが、沖の島と小呂の島は、はるかに遠いのです。エート、あのですね、たとえばですね、〈玄海の島は加部島、加唐島、鯨潮ふく小川島、・・・せめて片島、神集島・・・〉と、この辺の島ばっかり、の音でそろえたりはできんかったもんじゃろか・・・と、ブツブツ文句を言って見たりしたのですが、入れ歯がカタカタ言うようだと、誰も賛成してくれません。

 これらの謎を解かないと枕を高くして眠れない、そう思った私は、探偵になってこの解明をやってみよう、と決心しました。さて、どこから糸口をほぐすか?
 
 まず、白秋がこれらの名所旧跡を、みな訪ねたのか、それとも行かないでも書けるか、ということから考えてみました。
 そりゃ、白秋先生ですもの、全部は行かなくても行ったように書けるでしょう、ある程度の情報があれば・・・。
どんな情報?そうねえ、たとえばその名所の名前、由来、どんな景色か・・・なんてものがわかれば・・・。
う〜ん、・・・・、う〜ん・・・・。
『松浦潟』
 そうだ、ガイドブックだ! 観光案内書があって、説明が詳しく書いてあれば、行かなくても書ける・・・。
条件としては、その案内書は昭和5年の白秋の来唐前に出版されていること、内容が歌の内容と矛盾しないこと、出来れば、その本と白秋とに接点があれば完璧・・・。
 とまあ、こんなことを考え考え刀町を歩いておりました。突然雨が降ってきて、私は木下古書店に飛び込みました。そこでわが目を疑ったことには、『松浦潟』と題する和綴じに近い古い書物を見付けたのです。
 まさか、ガイドブックじゃなかろうね、と一人言をいいつつめくってみたらば、なんと、ガイドブックでありました。それも、内容が『唐津小唄』に出てくる名所のほぼ8割をカバーしています。玄海の島ときたら、ふぇ〜、沖の島、姫島、烏帽子、小呂の島、『松浦潟』(歌)に出てくる島はせいぞろいで、福岡県だとのことわりもなしに、まるで唐津湾の中、すぐ近くに浮かんでいるような感じで案内してあるのです。これを読めば、白秋がこれらの島を、名前の持つイメージの美しさや、母音のやさしい響きなどから、選んだとしても納得がいきます。

 では、この書物は何時出版されたか? 昭和2年6月25日です。白秋が来た時よりも前です。結構ですね。

 では、接点はあるのだろうか?
 『松浦潟』(本)を繰ってみますと、まず目につくのが、ふつう序文があるべき最初のところに、〈審査員各位に〉とあり、〈序に代へて〉と付け加えてあります。これがまた、え〜っと思う面白さなのです。
 要約すると、昭和2年に大阪毎日、東京日々両新聞社主催、鉄道省後援で『日本新八景』選定が発表され、唐津松浦潟がその海岸の部の予選を高位で通過したので、急遽審査員各位の参考のために松浦潟の案内書を作成した、とあるのです。著者は吉村茂三郎、廣重美木の二人、発行者は古賀丈一、発行所は唐津名勝宣伝会(町役場内)となっています。

 吉村茂三郎氏は唐津の先覚者の一人で、唐津中学で教鞭をとったかたですが、松浦史談会を設立した考古学者です。廣重美木は芸術家で、唐津の文化的な指導者だった方です。
 二人は熱烈な調子で松浦潟の風光と歴史を自慢し、愛郷の士たちの日夜の努力で予選に4位となったことを報告し、自分たちの筆では松浦潟の美しさは表現できないので、ぜひ審査員各位に現地までおでましいただきたいと乞い願っています。

 これは、オモシロイ。白秋全集の年譜によれば、白秋は昭和2年に「日本新八景」に関わっています。だからこの書物が白秋の手元に届いた可能性は無きにしもあらず?
 けれども、いったんそれは置いといて、予選に入った松浦潟が決勝戦でどうなったか、ちょっとわき道にそれましょう。

 唐津市の図書館と毎日新聞社をわずらわせて、昭和2年4月から7月の関係記事のコピーを取り寄せました。
東京日々新聞コピー

 それによると、4月9日東京日々新聞朝刊で「日本新八景」選定が社告されています。山岳、渓谷、瀑布、温泉、湖沼、河川、海岸、平原の8つの部門で第一勝を選ぶ。方法はハガキで一般からの推薦を受け、各部門の投票数10位までを予選通過とし、本選は一流名士による審査会で決定。選ばれた八景は鉄道省の公認とし、あらゆる形で紹介、応援する。一等になったものに投票した人には抽選で記念品贈呈。選ばれた場所には後日知名文士と画家を派遣し、紀行文を紙上に掲載する。ざっとまあ、こんなふうです。
 
 なるほど、そこで海岸の部の予選に唐津松浦潟が4位で入った、と、こういうわけですね。さぞみんなしてハガキをたくさん出したことでしょう。それで、結果はどうなったでしょうね?・・・悪い予感がする・・・。今まで唐津が「日本新八景」に入ったと聞いたことがない・・・。

 次の新聞コピーは、東京日々の昭和2年7月8日。「日本八景決定」の大見出しで、海岸は室戸岬、湖沼は十和田湖、山岳は温泉岳(雲仙のこと)、河川は木曽川、渓谷は上高地、瀑布は華厳滝、温泉は別府温泉、平原は狩勝峠となっています。併せて二十五勝と百景が推薦され、松浦潟は百景に留まっています。ちなみに審査会は四十数名の知名士(画家、文学者、俳人、役人、博士、政治家、など)が口角泡を飛ばして13時間の激論だったそうで。翌日の記事では、八景に入ったところでは大喜びでちょうちん行列や花火大会、別府温泉などは飛行機をチャーターして新聞社の上まで飛んで行って旋回するという当時としては度肝をぬくような演出をしたようです。

 ふ〜ん、ちょっと、シャク・・・。
 日本百景に入って、唐津人は満足したんだろうか?それとも・・・・?ここでも私に悪い予感が走ります。
 どうやって調べたらいいのか?そのころの事(75年前)をはっきり覚えている人はどなただろうか?

『詩と史の松浦潟』
 ここでまた例の古書店から以前にある人が買っていた本が役にたちます。
 今度出てきた本は、『詩と史の松浦潟』。吉村茂三郎、廣重慶樹(美木)の著で、発行所は松浦史談会。発行日時は昭和2年6月25日と昭和4年10月13日が併記してあるヘンな書き方。アレレ・・・。

 序文が二つ。再版の序と、前に書いた〈審査員各位に〉と。
 つまり、今度の本は、昭和2年の「日本新八景」選定の時にあわてて書いた『松浦潟』(本)が遺漏が多かったので時間をかけて追加した、ということと、八景どころか二十五勝にも入らず、ようやく百景の末席を汚したことを憤り、「(前略)我が全松浦の士民は之を以って大自然を冒涜し松浦潟を侮辱するの甚だしきものとして主催者に対し潔く百景推薦を辞退し(後略)」、誰がなんと言おうと、山は富士、海の名所は松浦潟と昔から決まっているのだから、今後はひとの世話にならずに観光唐津を自力で推進する、と宣言しているのです。その鼻息の荒いことったら。

うわ〜、オモシロイ。唐津の人たちって気概があったのですねえ。辞退する、なんて。ヘ〜。

 さて、日本新八景に入らなかったということはわかったのだけれど、その頃の行政はいったいちゃんと運動をしたのかしら?と気になりだしました。スズキムネオさんに頼んだり・・・?なぜなら、審査会の記事をよむと、政治家さんやら何さんやら、自分のひいきのところを入選させようと激論をかわしているようなのです。
 当時の唐津町長(市制は昭和7年に施行)はどうしていたのだ?とちょっと調べて見ました。
 これも白秋の『松浦潟』からそれますが、ごめんなさいね。でも、オモシロイのですよ。

 昭和2年の最初は唐津町長は2月17日まで豊田稔氏でした。このかた、なんだか紛糾して責任をとっての辞任です。昭和3年5月21日に選挙によってようやく萩谷勇之介氏が当選するまで、1年3ヶ月の間に4人もの代理町長が県から派遣されています。3ヶ月か4ヶ月で交代、交代ですね。『松浦潟』(本)発行のとき、すなわち、ちょうど日本中が「新八景」で浮かれている時に、唐津の町長代理、古賀丈一氏は、おおかた四苦八苦して、その4ヶ月の在職中に唐津町と唐津村(ややこしいですが、同じ名前の町と村が隣接していたわけです)の合併の覚書交換にこぎつけています。(昭和2年5月16日)
 アレ、こんな事情なら町長代理さん、百景どころではないですわね。おそらく長いこと町政がもめかえした原因の一つであったろう合併問題をなんとか覚書交換まで持ちこむための県からの密使であったかも?「なに?八景?そんなものわしゃ知らん」と怒鳴ったかも・・・。

 その頃、というか、明治末、大正、昭和初期と、唐津は「政争の町」としても有名だったそうです。唐津銀行と西海商業銀行とがことあるごとに対立し、それぞれに基盤を置く実業家たちがよるとさわるとけんかをする。発電所をどこにつくるかでもめ(火力と水力の対立)、衆議院議員の擁立で血を見んばかり(天野為之派と川原茂輔派)。合併にしてからが、話がでてから実際に昭和7年に合併するまで、何度も何度も暗礁に乗り上げる・・・・。無事に任期を了える町長はほとんどなかったとか・・・。

 わたくしねえ、思うんですが、これって、別に恥ずかしいことではなく、いかに唐津が勢いがあって栄えていたか、男の人たちが元気があったか、ちゃんと主張をしたかの証拠ではないでしょうか?今の唐津は・・・・・。ア、ナマイキ言わんとこ。またキラワレル。

 さて、ながらくお待たせしました。白秋の『松浦潟』と『唐津小唄』はどうなったか、でしょ?
 結論を言えば、この昭和4年の『詩と史の松浦潟』が白秋の作詞のタネ本と確信します。細かい描写まで一致するところが多く、先の『松浦潟』(本)より内容が増えている分、歌の地名の9割以上がカバーされているのです。おまけにこの本と白秋との接点の可能性もあります。昭和4年秋に出たこの本には、あとがきに、地域の
松浦漬の広告『詩と史の松浦潟』
優良企業の援助を受けて出版にこぎ付けたむねを記載してあり、本の後のほうにたくさん広告が出てくるのですが、一番最後の広告は呼子の松浦漬です。白秋が昭和5年5月に唐津、呼子を訪れたとき滞在したのは、その松浦漬本舗の山下家です。この本が白秋に渡る事はおおいにありえますでしょ?
 バンザ〜イ。これでおしまい、といいたいところだけど、謎は残っています。白秋の歌には福岡県の地名が出てくると先に書きましたね。それが依然として気に食わない私であります。

 夜も眠れず悶々とする私に、天は味方をしました。ハッと閃いて取り出したる一枚の紙切れ。
この紙切れは、古い、おそらく戦前の、酒屋さんのチラシで、『唐津小唄』42章と『松浦潟』5番までを小さい字で印刷し、左5分の1くらいのスペースに酒屋の宣伝が載っているものです。これは、北波多村の80歳くらいの女性が、『松浦潟』復元のテープをもとめに私のところへ来られた時に、私が『唐津小唄』が42章まであることを知らないだうと心配してくださって、このチラ
いただいたチラシ
シを上げると置いていかれたものでした。私はそのチラシをチラと見ただけで大事にファイルしていたのです。 ここに、謎を解く鍵はありました。トロイ私がその時にピンと来なかったので遠回りをしたのでした。
 ここには、歌詞の後に小さく「北九州鉄道版権所有」とありました。

 えっ、北九州鉄道のコマーシャルソングだったのですか? だとすると、「博多出てから、小富士も晴れて・・」というふうに、沿線の観光地、しかも北九州鉄道が経営していたところを点々と結んで歌いこみ、唐津に入ってからもあちこちの名所旧跡をサービス満点に入れた理由はあきらかです。
 
 北九州鉄道を今の唐津の人たちは私も含めて知りません。北九州って、北九州市?とか思う人が多いのです。でも北九州という名前は北九州市が出来てからあちらだけのものになってしまいましたが、その前は唐津のことは「北九州随一の遊覧都市」というふうにどこにも書かれていたのです。
 
 私鉄の北九州鉄道は大正8年3月に会社設立。唐津町に本社を置き、唐津の草場猪之吉氏が社長で資本金500
北九州鉄道絵ハガキ
トンネルを出る列車
萬円。路線はだんだんに伸びて博多から唐津経由伊万里までになったが昭和12年10月に国鉄に買収され、筑肥線となっています。設立の時の唐津日々新聞を見ると、「付録」というページを少なくとも5ページは付け足して大々的に報道していますし、その後もなにかと北鉄の営業を応援する記事(海水浴場、レストラン、ホテルなど)をのせています。
 その頃が’遊覧都市’唐津のゴールデン・エイジだったようですね。
 『明治・大正の唐津』(石井忠夫著、昭和52年 唐津商工会議所発行)を見ると、北九州鉄道は華々しい宣伝活動を展開したようです。けれども不況や国の鉄道行政の波をくらってあえなく短命に終りました。
 同じく白秋・嘉章コンビの『ちゃっきり節』が、静岡鉄道のコマーシャルソングだったことを思い合わせると、北鉄が続いていたら、『唐津小唄』と『松浦潟』はもっと広まったかもしれないと、少し寂しく思います。

 ともかくも、女将探偵の探索は終了しました。わたくしなりに納得のいく歌の成り立ちでした。
 昭和5年5月に白秋は八幡製鉄所の社歌を依頼されて北九州に来て、その足で唐津・呼子に遊んでいます。乗ってきたのは、北九州鉄道。いつ依頼されたかはわかりませんが、出来た二つの歌は北九州鉄道版権所有ということになりました。

 私は『松浦潟』の歌で大騒動をしたあげくに、松浦潟が大騒動だった時代にタイムトラベルしました。乗ったのは北九州鉄道。沿線に見たものは、今はあまりぱっとしない観光唐津が意気軒昂だったころのにぎわいです。そして、肩で風
『松浦潟』歌詞入り絵ハガキ
(昭和10年ごろ)
を切って歩き、何事にも一歩も引かず論争する殿方たち。

 唐津は観光の時代の幕開きの頃に挫折し、観光立国の意欲をそがれたかも知れません。観光行政もおざなりになったかも知れません。もし八景に入っていれば、大いに努力し、もっとどうにかなっていたかも知れません。ヨカッタカ、ワルカッタカ・・・。わたしにはわかりません。

 この8月4日、ある集会のアトラクションに『松浦潟』と『唐津小唄』が演奏されま
杵屋勝錦造一門による、『松浦潟』
した。古き良き時代の音色でした。復活した『松浦潟』を聞いて、私には感慨深いものがありました。


 いろいろとつまらないことを並べました。お許しください。また、来月、よかったら、唐津松浦潟へ、遊びにいらしてください。北九州鉄道に乗って。
   ガタゴト、ガタゴト、ポッ、ポ〜ッ。

今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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