『松浦潟』に歌いこまれた浮岳

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#1 御挨拶


#26 平成14年5月

    

『松浦潟』 ふたたび




みなさま、こんにちは。今月は『松浦潟』がよみがえった話を書かせていただきます。
長くなりますが、よろしければおつきあいください。

探索パート1


『松浦潟』。 民謡の題名です。まつらがた、と読み、唐津湾を中心とした唐津市、東松浦郡一帯をさす地名です。
最初にこの歌を聞いたのは、ある粋人のお客様からで、20年ほど前のことです。そのころは唐津にもまだ検番があって、芸者衆が何人もいました。そのお客様が三味線にあわせて歌われた中の一曲に「松浦潟、誰を待つ身か しのぶ身か 何にひれ振る佐用姫か・・・・」というのがあり、私はその歌が忘れられなかったのです。何年か後に、それが「唐津小唄」とともに北原白秋が作詞、町田嘉章が作曲した『松浦潟』だと分かりました。

北原白秋の『地方民謡集』には、唐津の項目にこの歌が先に書かれ、次に「唐津小唄」が42章まで書かれています。その両方が昭和5年にコロンビアからレコード番号26179として出され、振附花柳寿徳氏ということも記載されています。私はこのレコードのことが気になりはじめました。白秋、嘉章のゴールデンコンビ、忘れ去られていいものではないでしょう。もったいない。

ところが、これが見つかりません。その歌は知っているよ、というかたは高齢のかたに何人かありましたが、はっきりとは覚えておられませんでした。あきらめたり、また思い出したりしているうちに、20年の月日が経ってしまいました。

一昨年(2000年)の4月にホームページを立ち上げてから、毎月この「御挨拶」のページにいろいろ書くようになり、同じ年の6月に横尾文子(よこおあやこ)さん(佐賀女子短大教授、北原白秋研究者)に唐津と白秋のことを書いていただきました。その附記に、私が『松浦潟』を探したい、と書いたことから、その気持ちが強まって今回の探索は始まります。
カクエさん

私は脚が悪いのでときどきマッサージを受けます。マッサージ師の池田カクエさんとは友人つきあいで、治療を受けながらおしゃべりしますが、カクエさんが民謡を習っていて上手なので、「『松浦潟』を歌ってよ」というと、「知らん」という。「知らんてね、こんな大事な民謡は、ちゃんと歌い継がにゃあいかんのにね」、ということから、私がこのレコード、または歌える人をさがしていることを話しました。「探してなんすると?」とカクエさん。「なんするかわからんけど、消えてしまうのはもったいなかよね、よか歌じゃけん」

さて、それからしばらく経った時、カクエさんが一本のテープを持ってきました。「ちょっと、これ聞いて」。それはおばあさんの声で『松浦潟』の一番だけを無伴奏でうたったものでした。「あらっ、これが『松浦潟』よ、これ、どうしたと?」
その歌は老人ホーム栄荘にカクエさんがボランテイア・マッサージで行ったとき、80代の女性がいろんな歌を知っておられるので『松浦潟』を知らないかとたずねると、一番だけは覚えている、ということで、テープレコーダーを持って行って歌ってもらったのだということでした。

そのテープをカクエさんは自分の民謡の先生、渕 英詔(ふちえいしょう)さん(日本民謡協会平成会代表、ビクターレコード専属民謡歌手、伊万里市在住)に聞いてもらいました。この歌をなんとか保存できないか、という私の希望を説明して。渕さんはじっと聞いておられましたが、「いい歌だ」とつぶやかれたそうです。
その後、カクエさんが私と渕さんを引き合わせてくれました。渕さんは日本著作権協会に問い合わせて、この歌が登録されて実存していた曲であり、けれども、レコードや楽譜の存在はわからないということでした。次に渕さんは日本民謡協会に協力を依頼されました。私のほうはコロンビアレコードに問い合わせたり、唐津の民謡の先生に尋ねたりしましたが、やはりレコードはみつかりませんでした。

約一年後、渕さんがお見えになり、東京の民謡協会の資料室からこの歌の楽譜が見つかったとおっしゃいました。私達はこれを復元するにはどうしたらいいか話し合いました。この歌を保存し、普及させるには、この五線譜を基に、三味線、尺八、鼓の楽譜を専門家に依頼し渕さんが歌って、レコード会社から民謡テープとして出したらよかろう、ということになりました。(白秋の著作権はすでに消滅、嘉章のはあります。)
出来あがったテープ



その半年後の今年2月、福岡のスタジオで吹き込みがあり、4月初め、ビクター伝統文化振興財団からの民謡テープとして、『松浦潟』は蘇ったのです。裏面はやはり渕さんの発掘民謡「よいやな」です。

渕さんと私は4月3日に唐津市長を訪問し、この歌の復元の報告と、市での普及、保存をお願いしました。この歌の存在をご存じなかった市長は大変よろこばれて、ぜひこれを活用したい、とおっしゃいました。
そのことが各新聞に大きく報道されたお蔭で、私の探索パート2が始まったのです。





探索パート2
探索パート2は、新聞の反響でいろいろな情報が寄って来て、結局一枚のレコードが発見されることになったいきさつです。



まず、その集まった情報、証言から。

*85歳 男性(唐津市) この歌は若い頃仲間と酔っ払うと一緒に歌っていた。なつかしい。

*79歳 女性(北波多村) 子供のころ聞き覚えで歌っていました。酒屋さんの広告チラシに歌詞が書かれていますので、差し上げます。(戦前のものらしいチラシをいただきました。貴重な資料です。)

*92歳 男性(唐津市) 聞き覚えがある。私は酒が飲めないのでこの歌をしっかりとは覚えていないが、酒飲みの連中は座敷でにぎやかに歌っておった。

*60代 女性(唐津市) 昭和31年に昭和バスの観光ガイドに採用され、新人教育でこの歌を習った。好きだったので、沿線をガイド中によく歌いました。

*藤間静寿衛さん 69歳 女性(唐津市) 戦前、6〜10歳くらいにこの踊りを覚えさせられ、観光客のために踊っていた。レコードもあった。馬糞紙のようなレコードで、長く持っていたが、ボロボロに摺り切れて、捨ててしまった。復活したのならぜひ振りつけてお弟子さん達に土曜夜市で踊ってもらおう。

*ひばり姐さん ?歳 女性(唐津市) 昭和33年に熊本検番(熊本つた子さんという名妓がやっておられた検番で、唐津にはもう一つ唐津検番があり、両方で24〜5名の芸者さんがいた)から出ました。先輩からの聞き覚えでこの曲は習いました。お座敷で時々踊りました。振りつけはよく覚えていませんが、ところどころ、からだが覚えていて自然に動きます。先輩の京子姐さんのほうが覚えているかもしれません。

*京子姐さん 70代半ば 女性(唐津市) 『松浦潟』、ありましたねえ。大昔の話しですね。あまり覚えていませんよ。そう誰でも知っているという曲でもなかったでしょう。ずっと先輩の芸者さんたちから伝わってきたようですね、由緒もなにも私は知りません。古い歌です。ひばりちゃんのほうが若いから踊りを覚えているかも。

*花柳三祐さん 60代 女性(唐津市) この曲は花柳金五郎お師匠さんが教えておられましたよ。私も若い頃踊っていましたが、もう振りを忘れました。曲を聞きながら思い出してみましょう。
藤間千勢さん

*藤間千勢さん 79歳 女性(唐津市)
 夫の杵屋佐多二(21年前に没)が会長で、金五郎さんが副会長で、唐津の花柳と藤間の師匠たちで「めづら会」というのを作って、そこで婦人会に盆踊りの指導や唐津城祭(昭和42年から22年間開催された)の出し物をやっていました。「唐津小唄」はよく踊っていましたが、『松浦潟』の方はどちらかというと盆踊り向きでなく、振りがむつかしく歌も専門的になりますので、金五郎さんや私が指導して、踊りを習っている人や芸者衆が踊っていましたね。郷土のものを踊り継ぐことは大切ですので、めづら会に相談して、振りをやさしく考えてまたみんなで踊れるようにできればいいですが。レコードですか?そりゃありましたよ。78回転のSP盤で、摺り切れたから捨てたのじゃないでしょうか。金五郎さんが持ってやしませんかね。「唐津小唄」の方は30年くらい前に佐多二の三味線で、金五郎さんとつた子さんが歌って新しく吹き込んで、踊りは私が振り付けましたけれど。
花柳金五郎さん


*諸井京子さん 60代 女性(唐津市)  夫(故諸井道実観光協会専務理事)は小川島の「鯨の骨切り唄」など、郷土の民謡の掘り起こしに心を砕いていました。『松浦潟』の存在のことも聞いていました。生きていれば復元に努力したでしょうに。喜んでいると思います。

*花柳金五郎さん(=杵屋勝錦造) 79歳 女性(唐津市) 『松浦潟』? さあね。私がこの唄を教えたって?そうだったですか、どんな唄かねえ。 あら、思い出した。フリも、’チラリと’なんて、首を振ってたような。ひばりちゃんや京子ちゃんが覚えているかもしれない。レコードねえ。私達は”す”では教えないから、あったはずですね。ま、押入れのなかを探して見ときましょ。


そして、3日後、金五郎お師匠さんからお電話をいただきました。「レコード、ありましたよ」
早速とんで行って、お借りしてきました。
幻のレコードが見つかった!と私は感激でいっぱいでした。SP盤もかけられる蓄音機でかけてみますと、華やかな三味線、鉦や太鼓、小太鼓、笛などを伴奏に、かなり速いテンポで芸者さんらしい歌いかたです。民謡、というイメージと少し離れて、お座敷歌の感じです。この曲が主に芸者さんたちに伝わってきた所以がわかるような気がします。
見つかったレコード

ところがつくづくこのレコードを眺めているうちに不思議なことに気がつきました。白秋の本に出ているレコード番号とちがうのです。このレコードは、同じくコロンビアからですが、番号が233932となっています。よくみると、ラベルの隅のほうに’57.7という文字が見えます。1957年というと昭和32年。今から44年前のことです。歌 章子・銀子 三味線 蝶子・節子 伴奏 伶明音楽会員となっています。裏面は同じメンバーで「唐津小唄」。こちらはむしろゆったりとしたテンポです。

その一年後の昭和33年には、やはりコロンビアから唐津出身の歌謡曲歌手青木光一が「唐津小唄」をリリースし、B面は赤坂小梅の「博多子守唄」になっています。こちらのレコードは私が『松浦潟』を探していた期間に3枚も手に入りましたから、たくさん唐津で買われたものだと思われます。
「唐津小唄」が残って、『松浦潟』が消えかかったのは、青木光一が人気歌手だったのに比べて、お座敷の唄はあまり庶民に届かなかったからかもしれません。

何にしても、今、『松浦潟』は蘇りました。渕先生は民謡として広く知られるように、いたるところでこれを披露したいとおっしゃっていますし、5月末頃NHKラジオで全国に流れる可能性も出てきました。

最後に、横尾文子先生からの『松浦潟』再生に際してのメッセージをお読みください。



松浦潟 新曲         佐賀女子短大 教授 横尾文子

琵琶湖南部の美しい景観を「近江八景」と定め、昔の人々が名勝を愛でてきたように、昭和初期にも新しい目で「日本新八景」を定めようとする新聞社の動きなどがありました。北原白秋はその選者になるほど風景の見方に優れていましたから、各地の風物に新しい息吹を入れて人心に活力を注ぐ民謡創作を大切な仕事だと考えていました。
1930(昭和5)年、45歳の初夏、白秋は唐津や呼子の方々にお招きをうけてやってきました。「唐津松浦潟は風光明らかに、その秀麗は北九州の緑の虹である」と目を細め、名所旧跡を巧みに歌いこんだ「松浦潟 新曲」「唐津小唄」の2編を制作します。
松浦地方は、万葉の昔から、大伴旅人や山上憶良などの文人墨客が大勢訪れています。この地では、神功皇后伝説、松浦佐用姫と大友狭手彦のロマンス、藤原広嗣の乱などの故事をも今日の出来事のように語り継ぎ、遠来のお客様をもてなしてきました。その気風は<唐津おくんち>の風習に残っているとおりです。すぐれた文人を惹きつけたのは、風光明媚な景観ばかりではなく、この土地の人々の郷土愛と客をもてなす心だったといえます。さらに、豊臣秀吉の名護屋城築城と朝鮮半島侵攻、そうして小川島の勇壮な鯨捕獲。
古代より綿々と続いている風光に、白秋も、昔に詠まれた『万葉集』がすらすらと口をついて出てきました。
「松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹が 裳の裾濡れぬ」(855)
「遠つ人 松浦の川に 若鮎釣る 妹が手本を 我れこそまかめ」(857)
「松浦川 七瀬の淀は 淀むとも 我れは淀まず 君をし待たむ」(860)
「松浦潟 佐用姫の子が 領布振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ」(868)
「万代に 語り継げとし この岳に 領布振りけらし 松浦佐用姫」(873)
また、呼子での歓待に応え、自らも歌を7首詠みました。
「麦黄ばむ名護屋の城の跡どころ松蝉が啼きて油蝉はまだ」
「韓の空の見はらしどころここにして太閤はありき海山の上に」
「蒼海の鯨の蕪骨醸み酒のしぼりの粕に浸でし嘉しとす」
 
そうして、古来、文明のクロスロードとしての役割を果たしてきたこの地に敬意を払い、今後のさらなる殷賑を祈り、民謡2編を草し、松浦の人々に捧げたのです。



渕先生、カクエさん、各お師匠さまがた、情報をお寄せくださったみなさま、ありがとうございました。おりしも白秋没後60年の今年、『松浦潟』が復活したことを文子先生とともにうれしく思います。
今後、唐津で、またよその地でも、この歌が歌いつがれ、踊り継がれることを願います。
わたくしばかりは、芸なしで、歌えも踊れもしませんが。


  横尾文子 北原白秋と唐津小唄
  この中に『松浦潟』歌詞があります。
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洋々閣 女将
  大河内はるみ


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