#228
令和元年8月1日

清水寺参道入り口
仁王門
このページは女将が毎月更新して
唐津のお土産話やとりとめもない
おしゃべりをさせていただくページです。
他の方の参加も歓迎です。
バックナンバーもごらんください。



またもご無沙汰をいたしました。
8月はこれまでずっと戦争や、亡き人のことを書いてきました。
大切なページでしたので、今回も8月号だけはがんばろうと思っています。

ではどうぞ。

 

佐賀県小城市・清水へ
ホーレス・ナターへの追記
このページの181号に「ホーレス・ナター」というイギリス人の話を日英両文で書きました。
そのページはこちらから。(いったんお読みいただいてからここへお戻りになると内容が分かりやすいかと思います。)
そのページを見たあるフランス人から突然驚くようなメールが飛び込んできたのです。
まずそのメールからお読みください。英文です。

 

Dear Harumi,

 

I read the story you wrote about  HoraceNutter's life.

Do you know that this man was in detention in a hotel at Kiyomizu from 26/07/1945 until 6/09/1945.

My mother was prisoner too, with her mother, brothers and sisters.

My grandmother, Yvonne Lepicard, (or YaïLepicard) was japanese and she gettedmaried with a french man. So she had got french nationality. It's the reason why she was ordered to a foreigner detention camp by the japanese police.

 

Please, let read this declassified document ! You will find precious informations.aboutKiyomizu prisoners.

http://mansell.com/pow_resources/camplists/fukuoka/fuk_01_fukuoka/Internees_Kiyomizu_Saga_5th_Marines_Occup_of_Japan.pdf

 

If you are interrested in, you could read the book my mother had written few years ago, about her family et her life in Japan during the war.

 

 

 

With this mail, you will find a photo of Mr Horace NUTTER during his stay at Kiyomizu in 1945.

 

 

 

My mother and me, are living in Toulouse, France. She is 91 years old in few days !

Please, contat us if you want,

 

Best regards,

 

Paule Kraemer

 

 

 

 

簡単に内容を書くと
ホーレス・ナター氏が1945年の7月26日から同年9月6日まで、
佐賀県小城町の清水の旅館に強制収容されていた、というものです。
このメールを送ってくださったPaule Kraemerという人のお母様・ルイズ(正子)・ルピカールさんが、
日本人である母と兄弟とで同時期に同じ場所に収容されていて、
そのことを調べていてナター氏の名前に行きあたったようなのです。
ルイズさんは現在91歳でフランスにお住まいです。数年前に日本で
『ルイズが正子であった頃』という本を出版されて有名だったようです。
その続編も出版されたそうです。
ポールさんの送ってくださったホーレス・ナター氏の収容されていた時期の写真がこれです。
 
上のポールさんのメールの中に言及してある清水収容所に関する貴重な資料は、ぜひ、クリックしてお読みください。英文です。その中に、ホーレス・ナターほか24家族の家長の名前と国名、生年月日など、収容者のリストがあり、このリストは解放された後にアメリカ海兵隊にホーレス・ナター氏が提供したもののようです。
米軍は終戦後日本に上陸し、占領したのちに強制収容所を探して、清水のキャンプも発見していますが、そこにはZilligという名の元・米海兵隊員が一人残っていて、この地に残りたいと希望したそうです。Zillig氏によると、清水の収容所では、けっして厳しい扱いはなく、親切であったこと、食料は十分でなかったけれど、それは土地の人たちも同じくわずかな配給でくらしていたこと、拷問、取り調べはいっさいなく、友好的であったとのこと。
とくに小城警察所長?のカイバラヨシノという人や清水収容所の監督にあたっていたノモウラハジメという人の名前があげられ、二人が囚人に親切であったことが特記されています。この二人は収容所閉鎖のあとは佐賀市の官吏になったように書いてあります。
 私は、前に調べが不十分のままに、ナター氏夫妻は監視されていただけで、強制収容所には入らなくて済んだと書きましたが、それは間違いでした。ナター氏は1941年12月9日より唐津の自宅において警察の監視を受け、1945年7月26日に清水の収容所に入っています。

ポールさんの母、ルイズ(日本名正子)さんの本によると、収容される際には、逮捕されて連行されるという風ではなく、通知が来て、いついつまでに清水の収容所に入れということだったそうで、正子さん一家は長崎の疎開先(母・里ヤイさんの実家)からできるだけの荷物と食料を抱えて、母と兄弟姉妹7人が行ったそうです。おそらくナター氏もそうではなかったのでしょうか。正子さんたちは、清水屋という鯉料理屋の1階の二間を割り当てられ、2階には別の5人家族が入ったそうです。
正子さんの記憶の中にはナター氏はないものの、ナター氏作成のリストには家長としてのヤイ・ルピカールという名前が明記してあります。
 
 清水屋

正子さんの記憶にも、日本の警察から怖い目に会ったことはなく、清水地区の一番下のネックのところに検門所があるだけで、何の拘束も受けず、のんびりと暮したそうです。もし逃げ出しても、食料切符がなければ飢え死にするだけですし、顔が外人ですからすぐつかまる、だから誰も逃げることは考えず、戦況のニュースも聞かせてもらえないので、日本が負けつつあることも知らなかったそうです。
2階の家族のご主人が食べ物ついて「私たちは豚ではない」と不満を言ったときにも、警察官は怒りもせずに、静かに「こんなものでも日本人の口には入いらないんだよ」と言ったそうです。

心痛のナター氏夫人トメさんは、解放されて1ヶ月後には亡くなっていますので、清水でもずい分具合がわるかったのではないでしょうか。どういう思いで40日余りの収容生活を送ったのでしょうか。心が痛みます。

ナター夫妻が収容されていた旅館(または鯉料理屋)はどこだったのか、今の私には調査する体力が有りません。ただ、正子さんの描写を借りれば、右側一番下の清水屋がルピカール家のいたところで、そこから道の両側に上流に向かって何軒かの宿屋があって、それらが接収されて収容所となっていたそうですので、ともかくもこの地にいたことは確かです。
どなたか74年前の情報をお持ちのかたがありましたらお知らせください。
 この土地が収容所に使われたことは、日本の警察にとっても新らしく建設する必要もなく、また座敷、厨房、風呂、トイレ、ふとん、食器などがそろっているわけですから、収容された人にとっても最悪の住環境ではなかったのではないでしょうか。
 夏は涼しい清水の滝の流れる渓谷の道にそって今も鯉料理で栄える観音様の門前町です。この収容所にナター氏がいた40日間は真夏ですが、ほかの土地にくらべるとうんと涼しい空気なのです。せめてそれだけでもよかったと思います。

 令和元年7月14日、私は友人の車に乗せてもらって、清水へ行きました。調査は無理でも、せめて土地の雰囲気だけでも見たかったからです。ルピカールさんの家族がいた「清水屋」という鯉料理屋は、今も盛況でがんばっておられました。ルピカール一家のいたころより建て増しされて倍以上に大きくなっていました。わたしたちは予約もせずに行ったのですが早めだったからか、幸い二階の小座敷がとれて、鯉の洗い、鯉コクのセットを満喫しました。帰るときには数十人の団体がゾロゾロと奥の座敷に入っていきました。ご繁盛で何よりです。
 
 清水屋入口

帰りしなに忙しそうな仲居さんに、持参したルピカールさんの本を見せて、「この本を見て訪ねてくる客が多いでしょう?」と聞くと、「さあ、それはどうか分からないけど、フランスから高齢女性が毎年のように見えてたけど、この数年おいでにならない。御元気なのでしょうかねえ?」とおっしゃいました。
私は感動しました。「正子」さんは、しょっちゅうここへ来ておられたのですね。そして、この店のおばさんは、この頃来られない正子さんを案じている。
強制収容所で劣悪な環境のために病死したり、拷問や取り調べでひどい目にあった外国人収容者の話は全国にたくさんあるとおもいますが、ここ、清水収容所ではひとはやさしく、深い緑に包まれて滝の水の音が聞こえて、霧が深いのがかえって人の心の傷をいやしたのではないでしょうか。観音様の足元のここ、清水に佇んでわたくしは心の中で観音経を唱えました。清水寺の参道を杖をつきつつ石段を登りはじめましたが、雨も降っていて石段がすべるので同行者がやめたがいいと言うので、今回はあきらめました。段の下からおがんで、ここを去りました。いつか、駕籠にでも乗せてもらってお参りを果たしたいものです。
戦後74年の私の夏はこうして終わりました。
ご読了感謝します。
そのうち、体調と相談してまた書きたいものです。御元気で。
 

今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                              洋々閣 女将 大河内はるみ
   
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