緑の丘の赤い屋根
―てんてん山の異人屋敷―
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長崎市に「グラバー邸」という異人屋敷が残っていて、長崎一の観光スポットになっていることはご存じでしょう。ここは、幕末に20歳で日本に乗り込み21歳の時には大貿易家となっていたトーマス・ブレイク・グラバーの屋敷です。オペラ「マダム・バタフライ」(蝶々夫人)のピンカートンのイメージで見る方も多いようです。そのグラバーから30年遅れて、唐津にもイギリス人の貿易商人がいました。激動の時代の日本で、欧米の商人たちがどう生きたのか・・・。
資料の不足は否めませんが、今までの調査によって判明した事柄を書くつもりです。日本側の個人情報に関する部分は極力秘しましたが、万一差しさわりがございましたら、歴史の一ページとしてお許しください。
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プロローグ
2013年6月27日早朝、夫と私はグリーンフォードの駅に降り立った。ロンドンから西に電車で20分の距
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グリーンフォード駅前の大通り |
離であり、現在ではグレーター・ロンドンに組み込まれている小さな町だ。駅前には向い合せに二つのパン屋があり、繁盛しているほうに入って簡単な朝食をとった。イギリス旅行でロンドン滞在の1週間のうちの忙しい日程の間にこの地を訪問するためには朝早く出てこなければならなかった。なまりの強い通勤者たちが次々に入ってきて美人の店員と冗談を交わして、パンとミルク程度の食事でそそくさと駅へ向かう。私たちは紅茶を飲みほしてから店を出て、店員の情報に従って歩を進めた。
ほどなくその広場は見つかった。マーケットが立ったり、祭りがあったりするときに町の人が集まる場所らしい。ずっと昔からそうだった、と散歩中の老人も教えてくれた。
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広場のベンチ |
この町で150年前の彼の家を見つけるには時間がなさすぎる。けれども、町中の人が集まる広場なら、子供の時から彼も何度となく来たであろう。ひょっとしたら、この広場を取り巻いて並ぶたくさんの家のどれかが、彼の生家かもしれないではないか。
どの家も必ず暖炉の煙突があった。彼が唐津に家を建てるとき、寒くもない土地に暖炉を作ったのは、故郷の家への思いだったかも知れない。
しばらく広場を散歩して、中ほどにあったベンチに私は写真を乗せ飛ばないように小石で抑えた。
「お帰りなさい。あなたの故郷、グリーンフォードよ。懐かしいでしょう。ゆっくりなさいませね」
100年前のその人の写真をベンチに残したまま、私たちはロンドンへ戻った。
第一章 てんてん山の異人屋敷
てんてん山は唐津市東唐津の洋々閣から歩いてわずか3、4分のところにある、山とは名ばかり、周りよりは少し高い土地である。名前が面白く、けれどもその名の由来は聞いたことがなく、満島村史にも裏町(明治39年時)、あらため、緑町(大正時期)としか出ていないで、現在は東唐津3丁目の一部である。ただ、地元では「てんてん山」で通っている。4、5軒ほどの家があり、空地が目立つ。
ここに、異人屋敷は現存する。おそらく明治中期の建物だろうと、一緒に見てくださった設計士は言われた。瓦の寸法や形状でわかるそうだ。
住んでいる方に聞くと、ここは借家で、戦後何十年も借りているそうだ。暖炉の煙突はまだしっかりしているが、他の部分は相当傷みも激しい。修理をしつつなんとか持ちこたえているようだ。マントルピースのある部屋は洋間だけれども畳を入れて使っているとのこと、見せてほしいと懇願したが、断られてしまった。
この家はホーレス・ナター(Horace Nutter 1870-1950)という名のイギリス人と、日本人の妻、トメの竟の棲みかであった。(スペルを見れば、ホレイス・ナッターと発音すべきだろうが、いろいろなところにホーレスと出てくるし、地元ではホーレスなので、そのように呼ぶことにする。) トメは終戦後間もない昭和20年10月、夫に先立ち、失意のホーレスは5年後に亡くなっている。
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病苦の中でかろうじて威厳を保っている老人のような異人屋敷を見ながら私は、「みどりの丘の赤い屋根・・・」という、戦後のラジオドラマの主題歌を思い出した。なぜなら、設計士さんが、「この家は赤い屋根だった痕跡が瓦に残っている」とおっしゃったからだ。赤いペンキがところどころ残っているのが、私の目にも見えた。壁の板はおそらく薄いグリーンだったろう、と。こちらも塗り直しを重ねながらも古い部分も残っている。
その当時では赤い屋根のこの家はどんなに珍しく、華やかに村の人の目に映ったことだろう。
「ナッタさん、ナタさん、異人さん」、などと呼ばれたその人を直接見た人はあまりいないらしい。が、住んでいるのを知っていた、と証言する人はたくさんこの町にいる。私の夫も、その弟妹もそうである。近所の子供たちは、「異人屋敷には近付くな」と言われていたらしい。「スパイと思われるから」と。ホーレスは戦中は監視を受けていたかもしれない。当時英米は鬼畜と呼ばれていたのだから。
第二章 虹の松原墓地の英文墓碑
ホーレス・ナターなる人物を郷土の歴史として調べよう、と突然思い立ったのは2013年正月ごろであったか。虹の松原の共同墓地内に我が家の墓はあるが、そこへ行く細い道の途中に墓碑銘が英文である墓石を早くから認識はしていて、「てんてん山のナタさんの墓だ」と夫が言っていた。以前は5、6段石段を登って他人の墓をしげしげと眺める気にはならなかったのだが、あるきっかけで、その墓の英文を読んでくれと頼まれて、おもむろに上がってみたのだった。
驚いた。ナター氏の墓だと聞いていたのだが、ナター氏が建立したトメ夫人の墓だった。さらに驚いたのは、その碑文である。幸い苔も付いていないで、良く読み取れた。
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トメ・ナターの墓碑
←上部写真
下部に縦書き日本語の墓碑銘がある。
彫りが浅いが十分読める
昭和20年10月18日
トモ(ママ)・ナッター□ 67歳
積徳院玉容貞翠大姉
昭和22年十二月
ホーレス・ナッター建之
↓ |
↑
IN LOVING MEMORY OF
TOME
WIFE OF
HORACE NUTTER
OF GREENFORD MIDDLESEX ENGLAND
DIED 18TH OCTOBER 1945 AGED 67
SHE WAS HIS CHEERFUL COMPANION FOR 43 YEARS AND
BECAME A BRITISH SUBJECT BY MARRIAGE |
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昭和20年に亡くなったトメを22年になってここに葬ったようだ。納骨が2年もあとなのは終戦直後の事情にもよろうが、遺骨であっても離れたくなかった老いた夫の心情であるような気もする。私は「43年間チアフル コンパニオンであった」というくだりに胸を打たれた。その時代にどんな日本人が妻をそのように対等に見ただろうか。また、幕末の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の頃から3、40年しかたっていないで、国際結婚についてはまだまだ理解がない時代に「婚姻によって大英帝国の臣民となった」と、トメをイギリス人として書いているプライドにもうたれた。
明治の国際結婚の法律は、日本人妻は正式な結婚によれば夫の国籍に入って日本国籍を失うことになっていたので、長崎のトーマス・グラバーの妻ツルなども正式には戸籍に入っていない。当時若い欧米人貿易家たちは花柳界の女性を内縁の妻、ないし妻たちにする場合が多かった。トメのように、高い教育を受けた旧士族の子女が国際結婚をし、夫の国籍になる場合はむしろ稀な例だと思う。
ホーレス・ナターという人を詳しく知りたい、と私は思った。ただの「外人さん」というだけの人ではないような気がした。
私は私なりの手探りの調査を開始した。まずは、地元からだ。明治の新聞、唐津の寺院、てんてん山周辺の聞き込み、満島村史など。手当たり次第だった。同時に友人のデイヴィッドに依頼してイギリス側の調査も開始、また聞き込みから北九州(下関と門司)との関わりを知り、そちらの調査も始めた。
3つの地域での調査で判明したことを、わかりやすくするために、ホーレスの人生にそって整理してみよう。
第三章 イギリスでの調査
イギリスは、アーカイブを大切にする国だなとつくずく思う。しかもデータ化されていて、インターネットで簡単に検索できる。もちろん有料のサイトもあるが、利用料はリーズナブルである。友人のイギリス人(現在はタスマニア在住)のデイヴィッドがいろいろ協力してくれた。
まず、出生と死亡がわかるサイト・BMD (Birth, Marriage, Death)を見つけてグリーンフォードのHorace Nutterを確認できた。1870年生まれである。結婚と死亡の記録はみつからない。
10年ごとの国勢調査の記録もはっきりわかる。
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センサスの記録 |
1871年のCensus Household Recordによると、
住所はNortholt Road Stanhope Villas
教区はGreenford Magna
DistrictはBrentford, Acton
郡はMiddlesexとなっている。
父の名はElliot S Nutter 38歳, 職業欄には記載がない。母はMary A Nutter 35歳である。
7歳の姉Katherine M Nutterと2歳の兄Phillip E Nutterがいる。このとき、ホーレスは3番目の子供として0歳と記載されているが、国勢調査の時期から見て、たぶん生後10か月くらいだろうと、デイヴィッドは語る。家族全員にミドルネームがあるのに、ホーレスにはない。
1881年のセンサスでは、ホーレスは10歳の子供であり、Francis J Nutter と妹Louise M Nutterの二人が増えて7人家族になっている。
1891年のセンサスによれば、20歳時のホーレスが、ロンドンのパンクラスに弟と二人で住んで海運、保険関係の会社のサラリーマンであったことに注目したい。たとえばロイズは明治初期から日本に進
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私たちはロンドン滞在中一日だけこの古いパンクラス・ステーション・ホテルに泊まった。この駅をホーレスは毎日通勤に利用しただろう。 |
出していたようであって、もともと銀行のほか、海運、保険の会社であった。他にも日本進出を企てた商社はいろいろあったろう。幕末にイギリスのジャーディン・マセソン商会が派遣した20歳のトーマス・グラバーあたりを第一期の商人だとすると、そのあと続々と上陸してきて開国した日本での商機をねらう欧米諸国が第二期、第三期と続く。送り込まれたのはグラバーのように若い人たちであったことに驚くが、これは何かというと刀を振り回す未開の国には危険を恐れぬ若者をということであったらしい。ある程度出来上がった年配者が来るのは、露払いの青年貿易家が成功を遂げ、日本が外国人にとっても安全であることが確認されてからのことだ。たとえば、グラバーが盟友として呼び寄せたホームやリンガーたち、次に、年齢としてはグラバーより32歳若いナターたちが来る。こういう人たちが日本の急速な近代化、西欧化におおいに貢献したことは、疑う余地がない。
1901年のセンサスにはホーレスの名は現れない。30歳のころにはすでにイギリスを離れていたのだ。上記の墓碑から計算して、32歳のホーレスが9歳ほど下のトメと結婚したのは1902年であろうから、その何年か前には日本に来ていたことになる。
デイヴィッドの調査によれば、イギリスがパスポートを発給するようになったのは20世紀半ば近くなってのことらしく、ホーレス・ナター名の申請は見当たらないとのこと。20世紀の初めにホーレスは新婚の妻を伴って一度くらいは故郷に帰ったのだろうか。
第四章 唐津での調査その1
まず佐賀新聞の明治時代の記事のマイクロフィルム検索によって知ったことは、明治37年には神戸のブラウン商会という貿易会社が唐津町に支店を開設していることだ。主に石炭を輸出している。今は
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地上権設定の記事 |
唐津市に入っている北波多村の芳谷炭坑の石炭だ。このブラウン商会の支店長が、「ジェイ・ピーカー」である。また、明治41年(1908年)4月10日の記事には、「芳谷炭坑の技師、ゼ・ピーカと、ホレース・ナターの両氏が唐津町西の松原の土地2町歩を金500円にて1000年間の地上権を設定した」と出ている。「外国人の土地所有は我が国の法律では許されないことだが、1000年間の地上権とは、売ったも同じではないか」と、憤慨したような文面である。この地上権設定という手法は、長崎で若きグラバーがやったやり方だ。土地を登記できない外国人のグラバーは地上権を何百年と設定して後続の外国商社に貸し付け巨利を得た。唐津でもこれに習ったものであろう。
炭坑歴史に詳しい知人に芳谷の英国人技師の調査を依頼した。明治期よりけっこうな数の技師がイギリスから唐津地域に招かれて近代的な炭坑のやりかたを指導している。だが、上記の二人の名は技師の中には今のところ見つかっていない。おそらく芳谷炭坑は名前を貸しただけなのだろう。ちなみに「西の松原」とは、虹の松原の間違いではなく、昔は唐津城の西側にも続いていた松原であろう。地上権が設定された部分は、他の資料(『末盧国』)によると今の二タ子3丁目にあたる。ブラウン商会がそこに支店や工場を構えて、戦前までイギリス人が何家族か暮らしていたようだ。戦争が近付くとイギリス人はすべてを放棄して帰国した。その土地に昭和26年くらいに唐津市の市営アパートが何棟か建った。私の家がすぐ近くだったので、唐津市で初めての高層!アパート(4階建て)が建ったのに興奮して見物人がぞろぞろと屋上に上がっていたのをよく覚えている。そこがブラウン商会が放棄した土地だったのだろう。
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芳谷炭坑明治期の事務所 |
ホーレスはそのブラウン商会の関門の支店長であることが北九州の調査でわかってくる。門司の支店と唐津の支店は共同で石炭関係の貿易をやっていたのだろう。唐津とホーレスの接点が石炭にある。おそらくトメとの出会いも唐津であるはずだ。トメの実家が満島に住んでいたからである。トメの父親が石炭に関係していたとの聞き取りもあったが、芳谷の記録にはその名を見つけてはいない。
大正7年の米価暴騰による救済事業にはホーレス・ナータ名で村に100円の寄付の記録がある。また大正13年1月1日に満島村(現・東唐津)は唐津町と合併したが、その際の村史編纂協賛寄付者名簿に「門司市大字大里のトメ・ナター」の記録がある。ホーレス、トメ夫妻は、出郷の名士として寄付の依頼にこたえたものであろう。また、明治30年代から唐津町西の浜に石炭業者たちが作った紳士クラブ「西濱倶楽部」があったが、ここには大正期に「門司のホーレス・ナター」が備品の寄付をしている。
このように夫妻は門司に住みながらも常に唐津に目を向けている。
第五章 北九州での調査
さて、唐津での調査は、ホーレスが関門で貿易商だったことを示唆した。北九州には知人の一人もいない。困ったなあ。
こんなとき、ネットの検索は威力を発揮する。ありがたいことに、2つのサイトにホーレス・ナターがヒットした。そのおふた方に大変お世話になりました。「門司文録」様、「硯海鼠璞」様にお礼を申し上げます。
その後、北九州市立中央図書館参考資料室に調査を依頼して収穫を得た。それらの情報を整理して見よう。
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ホーレス・ナター
「北九州の人物」より |
まず、昭和5年小倉市の金栄堂発行の「北九州の人物 巻上」の146ページに「英國典型紳士 ホーレス・ナッター君」の記述がある。幸いに写真が付いている。私が手に入れることができた唯一の写真で、イギリスにこのコピーを持って行った。内容をのべてみよう。
ホーレス・ナッターは1870年5月ロンドンに生まれた。ロンドン大学卒業後アメリカにわたり、その後神戸、長崎を経て30年前(1900年頃)門司に来た。外人船舶商館ブラウン商会を経営、19年前(1911年)よりナッター商会と改称、老舗として知らぬものはない。第二の故郷として門司大里に居を構え、愛市的観念が深く、都市計画について意見を聞かれた時、門司の自然美を破壊せずに諸設備をなすことや、広濶たる道路を作ることを進言している。また、英国領事館の誘致に努力し、長くポルトガル名誉領事もつとめている。性温厚謹厳、教養ある英国紳士である。園芸と読書が趣味で、ローマ字綴の「英和辞典」の編纂に没頭している。夫人・トメ氏は旧唐津藩士の令娘で、中に一人の令嬢があり、家庭円満、紳士の模範である。
次に昭和52年発行の柳田桃太郎著の「ふるさと門司」には14ページに大里町の描写があり、異人屋敷(ナッタさんの邸宅)の門かぶりの松や珍しいユーカリ並木のことが書かれている。
「門司郷土叢書第三巻」519ページには観音山に異人屋敷と呼ばれてホーレス・ナッタさんが住んでいたこと。藤原義江がナッタさんの家に時々来ていたことが書いてある。
さらに、羽原清雅著『「門司港」発展と栄光の軌跡」にも上の引用を元に記述し、さらに、藤原義江についてくわしく書いている。
ここで”吾等のテナー”ともてはやされた世紀の”不良”混血青年について詳細する余裕はないが、彼の伝記その他を何冊か読んで、時代の息吹を感じることはできた。藤原義江は、ホーレスの盟友で同じ年齢の、ホーム・リンガー商会門司支店長(当時は瓜生商会の名)のネイル・ブロディ・リードが若いころに下関の芸者に産ませて母子ともに捨てた子供である。のちに親子関係は修復されるがリードが早く亡くなったため、家もホーレスが引受け、子・義江の後見役もしたようである。ポルトガル領事も先にリードがやっていたものを死後引き継いだものと思われるが、確実な資料は得ていない。ちなみに、英国人がなぜポルトガル領事なのかと疑問だったが解決した。明治期に続々とはいってきた諸外国は、大きい貿易港には領事を配したが、領事館
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門司港で今に続くホームリンガー商会 |
を置くまでもないところには、その地にいる他国の貿易商などに名誉領事を委嘱して、自国民の便宜や、通商の手続きの敏速化を図った。長崎のグラバーも明治14年から20年までポルトガル領事を務めている。グラバー父子と、その盟友のホームとリンガー、「ホームリンガー商会」の次世代のリードと「ブラウン商会」のホーレス、これらのイギリス人貿易商たちは互いに密接な関係にあった。
今、門司港レトロと呼ばれるかつての門司の貿易港としての栄光を語る地域には「ホームリンガー商会」が現存する。一度照会してみたが、昔の記録は一切ないそうである。ここは今でもロイズ社の代理店である。
さらに前述した炭坑史研究家は、九州大学学術情報リポジトリの中の入江寿紀氏著・「明治期福岡地方石油史(一)―石炭油から石油へ―」という研究紀要の中に、明治45年4月11日の福岡日日新聞にホーレス・ナッター商会が出した広告の記載があることを教えてくださった。
その内容を見れば、門司桟橋通り17番地のホーレス・ナッター商会は英国アクロイド・ベスト社製造の坑山安全ランプの九州一手販売代理店として、無償で試用してもらうための案内を出している。この広告の発見によりホーレスの事業内容の一端がうかがえたのは僥倖であった。
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門司大里の御所神社の玉垣 |
当時北九州での炭坑は大いに栄えて、貿易港門司も殷賑を極めていた。ホーレスも、大きな財をなしたであろう。住まいのある大里の御所神社にも寄進をしていることが玉垣に彫られた名前でも確認できることを「門司文録」様に教えていただいた。(写真感謝)
だが幸せな時代は、昭和10年代になってかげりを見せてくる。
戦雲が立ち込めてくると、横浜、神戸、長崎など大きな貿易港から英米の商社が撤退していく。帰りそこなって逮捕されたり、財産を没収されたり、劣悪な環境の収容所において病死する外国人も多数だった。
そんな中でホーレスはイギリスへ帰らず妻トメの故郷・てんてん山の別荘に帰ってくる。どういう理由の選択だったか知る由もないが、この時点でホーレスの北九州の時代は終結する。
第六章 唐津での調査その2
戦争中てんてん山の異人屋敷で不本意な生活をホーレス夫妻が送ったこと、トメが先立ち、5年後にホーレスが逝ったことは第一章に書いた。夫妻が監視されていた可能性について私は前述したが、
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左から倉場富三郎、父のトーマス・グラバー、
富三郎の妻ワカ (長崎県立図書館所蔵) |
これは聞き取りの中から感じたことでもあるが、長崎のトーマス・グラバーの息子、倉場富三郎夫妻でさえ、あれだけグラバー父子が日本の近代化に貢献したにも関わらず、スパイの容疑を受け、憲兵に監視されていたことによる推測だ。富三郎はホーレスより1歳年長である。やはり40年以上もつれそった妻ワカ(彼女も混血児であった)に昭和18年に先立たれ、絶望的な孤独に陥った彼は、終戦直後の昭和20年8月26日、自邸で縊死している。その苦しみを思うとき、私はホーレスも同じ境遇であったろうと思うのだ。
てんてん山の異人屋敷そのものの登記上のことも調べてみた。登記簿は、昭和59年11月26日に移記閉鎖され、最も古い記録は昭和21年10月14日に保存のために転写された記録である。そのため建築年度が特定できなかったが、この家はかなり早い時点で建てられ、当時外国人では不動産登記ができないためか、トメの名前、住所は「クリンフォード村」で登記されている。最初は、関門で事業を展開するホーレスの別荘として建てられたものらしく、サマーハウスなどいくつか棟があったようだ。戦中・戦後も家からほとんど出ないで、財産も凍結され、妻トメの実家に頼って生活したとのうわさもあるが、真実はわからない。昭和20年、トメ亡き後、この家は法律上では夫ホーレスが相続し、昭和25年に彼も亡くなったのちには彼の弟、妹(当時イギリスのサセックス州在住)が相続し、昭和28年にてんてん山の隣人が売買によって取得し、あと相続されて、長く借家人が住んでいる。
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異人屋敷の暖炉の煙突 |
私は墓碑銘のトメの戒名からお寺を特定する聞き込みを始め、幸いに見つけることができた。そこでわかったのは、ホーレスもまた同じ寺から日本語の戒名を受け、「大獄院金濤寿康居士」としてトメの墓に入ったということだった。「ナタさんの墓」として知られていたのは、正しかったのだ。ただし、墓碑名の追加などはなく、知らない人が見るとやはりトメ一人だけの墓のように見える。ホーレスの死亡は昭和25年9月5日であることを過去帳から確認した。享年80歳。妻亡きあとの最後の5年間をどんな思いで過ごしたか。その頃にナター家から出たという宝石類を母親に買ってもらったという女性がいる。老いたホーレスが妻の遺品を手放すのはどんなに辛かっただろうか。マントルピースはホーレスの心身を温めることができただろうか。煙を吐かなくなって久しい異人屋敷の煙突を見上げて私はため息をつく。
第七章 ふたつの謎
ここまでホーレス・ナターの生涯をたどってみたが、中で二つの謎に突き当たった。
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ロンドン大学との通信の一部 |
まず、一つがロンドン大学卒業の件である。イギリスでの調査を引き受けてくれたデイヴィッドはロンドン大学のアーカイブ担当者と数回にわたってやりとりした結果、19世紀後半から20世紀前半までの各カレッジの調査では、同じ名の卒業生は二人。どちらも出身地がちがうし生年がホーレスより、30歳、50歳後である。よって、該当なし、との結論を受けた。私は、入学だけしたのではないかとも言ってみたが、それではホーレス20歳時のセンサスと矛盾する。1891年の調査の時、パンクラスに住んで商船会社に在職していたのは、生年といい、同居の弟、フランシスの名と生年までもが完全に一致するので、まちがいなく我等のホーレスだ。また当時、大学に入るのは誰でも試験さえ通ればいいというのとはちがって、名門の子弟でなければ難しかったとデイヴィッドはいう。トーマス・グラバーでさえ大学には行っていない。 英和辞典を編纂するほどの篤学であったホーレスを尊敬するあまり、まわりが思い込んで一人歩きした噂かもしれない。
二つめの謎は、娘の存在である。昭和5年に発行された人物史にその存在が書かれていて、リアルタイムの取材であるはずだが、唐津へ戻った夫妻には娘を伴った様子はない。人物史が正しいとして、娘はその時すでに成人に達している筈なので、結婚したか、戦争が近くなって娘だけイギリスに送り出したか・・・・ 唐津での聞き取りではだれもが口をそろえて子供は生まれなかった、という。トメの意思で産まない手術を受けていたという話さえも出た。どちらにしても、ホーレスの死亡時、屋敷の相続はイギリスの弟と妹が受けているので、その時点では娘は存在していなかったはずだ。もし、娘が生まれていたとして戦前に早世していたとすれば・・・・ なんという悲しい運命をホーレスは生きたのだろうか。
エピローグ
プロローグに書いたグリーンフォード訪問から一か月ほどたって、2013年8月の初めに私は虹の松原の我が家の墓地に掃除に行った。お盆前の草むしりだ。その時、ナター氏の墓の前を通って仰天した。無くなっていた、あとかたもなく・・・。6月に確かにあった墓が、2ヶ月後に忽然と消えてしまった。その時私は鳥肌がたち、胸が締め付けられ、涙がほほを伝わった。「あなたが私の前に現れた意味がわかったわ」と私は心の中でホーレスに呼びかけた。「あなたはもうじきお墓が消えるのがわかっていたのね。それで私にグリーンフォードに連れて行ってもらいたかったのね。」
2013年の1月ごろから、私はなぜかホーレス・ナターが気にかかって、急に調べに取りかかって、半年ほど調査に夢中になっていたのだった。たまたま6月にイギリス旅行をする計画も持ち上がっていたので、ある程度調査をしてからグリーンフォードに立ち寄るもくろみもあった。もちろん、まったくの偶然ではあろう、けれども、普通なら2年も3年もかかりそうな調査がとんとんと進み、イギリスへ発つ前には結構な収穫があっていたのだ。それもみな、ホーレスが虹の松原を去ってグリーンフォードへ帰る準備だったのかと、私なりの得心であった。
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てんてん山の春 |
胸を打つ墓碑銘の墓は消えたけれども、ホーレスとトメの愛の記憶はてんてん山の異人屋敷にとどまっているかもしれない。私を含め、近所の少しばかりの人々が異人屋敷の存在を知っている限りは。けれど、それさえも、長くはないだろう。家そのものの老朽化が著しく、いつ解体されるかわからない。また家主、借家人、近所の昔を知る人々、など、私たちがみな老人になってしまっているのだから。現に私はこの3月初めに聞き取りをしていた人を一人急逝により失った。今私が書かなければ、と思ったのは、主にその為である。ホーレスがトメの遺骨を埋葬するのに2年かかったように、私もまた、消えた墓の喪失感から立ち直ってサイト上にこのエピタフを刻むのに、2年近くかかったのだ。心残りは、戒名に”玉容”という文字を持つ、村で評判の美貌だったトメ夫人の写真を、所在の見当はつけながらもついに入手できず、イギリスに持って行けなかったことだ。トメ夫人の霊にてんてん山の春の花を捧げて許しを乞おう。
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調査に協力いただいた方々(順不同)
善達司様・龍渓顕雄様・大浦洪二様、楢崎幸晴様・田島龍太様・市川勝治様・市川みずみ様・坂本元嗣様・福井衣子様・高木登久子様・David MacLennan様・University
of London Joanna Lings様・西海堂古書店様・荒谷薬局様・北九州市立図書館参考資料室 轟様、奥田様・北島順子様・おじゃが様・岩本直子様・岩井義男様・大河内浩様・大河内明彦様・小玉正子様・大河内正四郎様 |
長い物をお読みいただき、ありがとうございました。また来月お越しください。
洋々閣 女将 大河内はるみ
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