#188
平成27年11月


三代目の米屋町法被
このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や
とりとめないオシャベリをお伝えします。
他の方に書いていただくこともあります。
お書きになりたい方はご連絡ください。



バックナンバーもご覧ください。





我が町の曳山自慢
~米屋町 酒呑童子と源頼光の兜~



 
 皆さまお待ちかね~!11月号は毎年曳山のことを各町内にお願いして書いていただいていますが、特に故郷を離れて遠くにいらっしゃる方々が楽しみにして下さっているようですね。ありがたいことです。
今回は米屋町さんにお願いしました。私の好きな「酒呑童子と源頼光の兜」です。
 なんでこれが好きかって?子供のころ父に手を引かれて曳山の巡行を見ているとき、「頼光さん」が通ると決まって父が言うのは、「お前は頼光の一の家来の渡辺綱の子孫だからしっかりせにゃいかんぞ。頼光は大江山の酒呑童子の首を刎ねたが渡辺綱は羅生門の鬼の腕を斬ったんだぞ。」
 10歳の女の子に言うことかしらんと今は疑問に思わないでもないのですが、おかげさまで私は巴御前のような男勝りの女丈夫に育ちましたさ。今はトシには勝てず、バサラ髪の山姥となり果てましたがね。
 ところでなんで渡辺の綱の子孫かって? まあ、父の主張にはそれなりの根拠がないこともないような・・・。ここらへんは中世に松浦党の本拠地でした。松浦党は渡辺綱の孫・源久を祖として九州西北部に広がった武士集団で、父の遠い祖先は渡辺であったようです。それで今でも私は頼光様を主君とあがめていますので、今回米屋町の古舘さんに書いていただいた原稿は、かしこまって恐悦至極に拝読つかまつりましてござる。 何人もの頼光会の方々が写真集めなどに協力してくださったようです。まことにかたじけのうござりました。

 それでは、皆さま、米屋町の曳山自慢をお楽しみくださいませ。





         我が町の曳山自慢  米屋町 酒呑童子と源頼光の兜

                                  米屋町副取締 古舘正典

 
 
 古舘正典氏
皆さん、こんにちは。現在私がこの原稿を書いているのが、初くんちを明日に控えた平成27年10月8日午前2時・・・。曳山に関する本編に入る前に、なぜこのような事態になっているのかを記すことで、曳山行事に直接関わっていない皆様にも曳山の組織というものがどんなものかを少しでも感じ取って頂ければと思います。私が把握している範囲では、洋々閣の大河内はるみ様より京町の吉冨さんを通じて米屋町の藤井前取締に原稿依頼が来たのがお盆前、以下、藤井前取締が内田前々取締に相談→内田前々取締が松浦正取締に原稿執筆を依頼(8月13日)→(1ヶ月半の謎の空白期間)→松浦正取締より私に突然の電話「お前が書け!」(9月30日)→私・・・(現在)。げに恐ろしきは曳山組織・・・。絶対的な上意下達・・・。という訳で、曳山行事の雰囲気を感じ取って頂くという名目の下ひと通りグチも記し終わりましたので、これから米屋町と曳山について記していこうと思います。以下の内容は町の先輩方に色々教えて頂いて私がまとめたものですが、読みものとしての面白さを優先しているため若干あやふやな内容も含んでいます。もし間違いの指摘や苦情がありましたら全て、松浦明正取締まで。では本編!




 唐津神社に奉納された絵馬
1.米屋町 酒呑童子と源頼光の兜についての基本事項

 米屋町は17世紀初め、唐津藩初代藩主・寺澤志摩守広高候の唐津城築城に伴い整備が進められた、総町12ヵ町の一つとして誕生しました。火消しでは「り組」。明治元年の記録に戸数22戸・人数88人とありますので、決して大きな町ではありません。唐津神社の御神幸には町として古くから就き従っていたようですが、曳山制作以前どのような形態で御神幸に参加していたかは残念ながら不明です。


 米屋町の曳山「酒呑童子と源頼光の兜(しゅてんどうじとみなもとらいこうのかぶと)」が制作されたのは明治2年(1869年)9月、細工人吉村藤右衛門・近藤藤兵衛らの手により造り上げられました。90名弱の住人で曳山を造った、その情熱と力には驚嘆させられます。モチーフは、当時庶民に大人気だったと伝えられる「大江山の鬼退治」。渡辺綱・坂田金時(幼少時は金太郎)ら四天王を率いた源頼光が大江山で悪逆の限りを尽くしていた鬼・酒呑童子に酒を呑ませ油断したところで首を刎ねたところ、酒呑童子の首が宙を舞い形相すさまじく源頼光の兜にかぶりついた瞬間を見事に表現しています。なぜこのモチーフが選ばれたのか現在詳らかには伝わってはいませんが、後に触れます米屋町の新進気鋭の気質、「何か新しいものを生み出したい」という気概が曳山制作時に作用し、「物語の瞬間を具現化する」という曳山14台の中でも異彩を放つ現在の曳山の姿に現れているのではないかと推察しています。

 総塗り替えは、明治26年(1893年)から平成5年(1993年)までの間に4回、特に昭和7年(1932年)の第2回の総塗り替えでは、錣(しころ)内部に木製の鉢を取り付け・錣の段数を4段に減らし短く・
 4段の錣
鍬形(くわがた)を大型化など大規模な改修を行っています。兜左右の錣を含めた横幅は303cmと曳山14台中本町に続いて僅差で2番目の広さ(先述の昭和7年の改修で錣の幅を45㎝縮めたと記されていますので、制作当初は図抜けて横幅の広い曳山だったようです)、頭が重くその割に台車が小さいという重心が上寄りにある曳山でしたが、昭和初期の写真に基づき平成24年に台車の大規模補修を行った事で曳山全体の安定を取り戻しました。
昔から「子供が宵曳山の頼光を見て泣かんかったら一人前」と語られるほど形相すさまじい迫力ある曳山で幼児には怖がられますが、その迫力ゆえに幅広い年齢層に非常に人気の高い曳山です(米屋町の古老曰く「どん曳山が一番好いとっやと聞かれたら、そらみんな自分とこの曳山ばってん、二番目に好いとる曳山はなんかときかれたら、みんなたいがい頼光ばい!」)。




2.新進気鋭!米屋町

 曳山制作の当初から、米屋町には「何か新しいものを生み出したい」という気概があったと思われる旨を先に記しましたが、その気質は現在にも引き継がれています。唐津くんちという伝統行事の中で、時代の流れに応じて新しいものを率先して生み出してきた実例をこれから3つ記します。
   
 初代法被  二代目法被

①デザイン性の高い法被を他町に先駆けて制作

 唐津くんちでいう法被とは肉襦袢などくんち装束の一番外側に羽織る、俗に長法被とも呼ばれるものです。現在では曳山14ヵ町それぞれに統一され、極めてデザイン性の高い各町の法被は曳山行事の豪華絢爛さを一層引き立てる役割を果たしていますが、昭和30年代までは現在とは随分趣の違ったものでした。俗に丹前柄と呼ばれる茶色や紺を基調にしたもので各町での大きな違いはなく、襟に町名を入れることで区別はしていたものの、後ろから見た場合はどこの町内の曳き子か見分ける事はできなかったと聞いています。そんな中米屋町は、昭和39年(1964年)の第3回総塗り替えを記念して、黒を基調に背中に「米」の字を染め抜いた極めてデザイン性の高い法被を制作します。この法被は最初は町内在住者の中で限られた枚数のみ制作されたようですが、やはり図抜けて粋を感じさせたのでしょう。米屋町でも2代目のデザインの法被が作られる頃(昭和53年「全国郷土祭」出動時)には全員同じ法被を着用するようになりました。云わば米屋町の昭和39年の取組が、現在の曳山14ヵ町それぞれの趣向を凝らした現在の法被を生み出す先駆けとなったと言えると思います。
 ちなみに現在の米屋町の法被は3代目。灰色を基調とし、衣装を着けた酒呑童子が朱塗りの大盃をあげている姿(大石町住・武谷雪渓の作、米屋町の初代肉襦袢のデザインとも伝えられています)が背中に染め抜かれた迫力あるもので、この3代目の法被より生地が最高級の絹織りである羽二重となりました。ちなみに私の経験上、この法被はなぜか外人さんにとりわけ人気が高く、度々呼び止められては一緒に記念撮影を求められます(ただし後ろ向きのリクエストが多いのですが・・・)。

②町外在住者を含めた曳山組織を最初に発足
 
 砂にめり込む曳山を押している

 ご年配の方や昔の唐津くんちのビデオをご覧になった方はご存知でしょうが、現在の唐津くんちの隆盛からは想像できない位の少人数で昔の曳山は運行されていました。
事実私が幼少の頃(昭和40年代)は町の世話人が毎年「お宅は今年何人出せますか」と聞きに来られていましたし、町の古老からは「御旅所の曳き込み・曳き出しは、前の曳山を手伝って、自分とこの曳山ば動かして、次の曳山まで面倒見ないかんかったけん大変やった」とか「昔の曳き 込み・曳き出しは観光客も参加しよった」といった話も度々伺っています。そんな中、昭和53年10月東京で開催される「全国郷土祭」への出動の要請が米屋町に舞い込みます。曳山を東京まで運び無事に曳き廻すためにはどうしたらいいか、その試行錯誤の中で出動前年の昭和52年11月に発足したのが現在も米屋町の曳山運行の主体となっている「米屋町頼光会(こめやまちらいこうかい)」です。町内在住者と町外在住者を共に正式な会員として会を結成し結束して曳山の運営にあたる、現在では他の多くの町でも見られるようになった形態ですが、曳山=町内というのが当たり前だった(曳山が町のものであるという根本は現在も変わりません)頃に、唐津くんちの趨勢に合わせ時代に即した組織を率先して創り上げたのは米屋町であると言えると思います。ちなみに会の発足翌年に指名された若頭は当時26歳、組織の若々しさが伺えます。頼光会結成翌年の先述の昭和53年の日本商工会議所百周年記念「全国郷土祭」で大石町と共に東京に出動した米屋町は、日本橋を渡り、
 
 国立競技場を走る
毎日新聞『毎日グラフ
1978・11・12デラックス版』より
銀座の大通りを曳き廻り、国立競技場で昼と夜で表情の違う唐津くんちの魅力を全国に発信し(夜の部・宵山では昭和天皇のご臨席を頂いています)無事唐津に帰還しました。頼光会会員は現在200名を超え、曳山の安全な運行と伝統行事の継承に大きな役割を果たしています。

③幕洗いにおける舟出しの先駆

 新聞によれば昭和44年夏、曳山14ヶ町が親睦を深めるため全町で船を出して囃子を奏で、大いに酒を酌み交わしたという記録が見られます。この行事はただこの一回だけで終わったようですが、それをそれからちょうど10年後に「幕洗い」として復活させ以降恒例行事としたのは米屋町です。以来同じような形態で幕洗いを行う町内が増え、一時はほとんどの町内が提灯を掲げた船を出し、囃子を奏で酒を酌み交わし、幕洗い行事は唐津の夏の風物詩とまで称される時期もありました。しかし近年は、船の確保が困難になってきたことに加え、囃子を騒音と捉える近隣の苦情や船の定員などの法律上の問題で年々開催が難しくなり、本年(平成27年)においてはほとんどの町が船を出せない状況に追い込まれています。周りへの配慮、参加者の安全を図ることはもちろん大事ですが、それらに完璧を要求する風潮の中で少なからぬ日本の祭がその形態の変更を余儀なくされ、古来伝統の行事、そこに込められた願いや喜びという祭の本質を失っていく例も散見されます。極論すれば唐津くんちにも、音がうるさいから囃子を止めよ、けが人が出る可能性が1%でもあるなら巡行を止めよといった要求が頻繁に寄せられる時代が来るかもしれません。先述の幕洗いに限りませんが、唐津くんちに付随する様々な伝統行事の継承のため曳山組織・曳き子の一層の努力はもちろんとして、近隣地域や県・市などの行政機関にもより一層の理解と支援をお願いしたいところです。
 最後はちょっと変な内容になってしましたが・・・、先述したように平成24年には、「いざとなったら全費用は町内で出す」の気概の下、台車の大規模補修を米屋町は成し遂げました。先人から受け継いだ「新進気鋭」の気質を米屋町として、これからも大切にしていきたいと思います。

3.知らなかった! 酒呑童子と源頼光の兜トリビア

 予定に反して、随分長い内容となってしまいましたがせっかくの機会ですので、酒呑童子と源頼光の兜に関する驚きの真実(=トリビア・古い?)を2つ記して最後としたいと思います。

①頼光の曳山は酒呑童子の目が命
 
 酒呑童子の目

 すさまじく迫力のある酒呑童子の怨嗟に満ちた表情が最大の特徴である酒呑童子と源頼光の兜(以下、頼光と記す)ですが、昔からよく聞くのが「頼光は目が命」という言葉です。確かに、まるで生きているかのごとく怒りに満ちて頼光の兜を見据える酒呑童子の目は、近くから曳山を仰ぎ目が合うと寒気を感じるほどの迫力を有します。記録によれば曳山制作時の最大の問題がこの目の実現にあったようで、当時の唐津には条件を満たすビードロ(後のガラス)は無く、遠く長崎の出島まで人を遣わせてオランダ屋敷よりビードロの金魚鉢を購入しそれを半分に切断して用いた、あるいは出島のビードロ製造所にて特別に製造したとも伝えられています。これが当時どれ程の希少な物であったかを示す後日談があるのですが、昭和初期に目が破損した際、新たに目のガラスの制作を久留米の工場に依頼するも満足いくものにどうしてもならず、最終的には佐賀の副島ガラスにてようやく使用に耐えるものができた(古老の一人はこのガラスにも満足していなかったらしい)との話が伝わっています。頼光の目の構造は、曲面透明なガラスの内側に漆で黒目の部分を描き、白目の部分には白綿を詰め込み、血走りは綿糸を赤く染めそれを撚り合わせて白綿の上に散らして表現しています。この目に関しては、月日の経過とともに白綿が黄ばんできたり黒目の部分の漆が剥げて薄くなったりしますので、何度か町内の人間で改修を行っています。最近でも剥げてきた黒目の部分を塗りなおした際血走りなどを米屋町の手でやり直しました。改修前と改修後では黒目の虹彩の色が薄くなり血走り具合も変わっています。また、黒目の位置自体も変わっていますので、興味のある方は昔と今の頼光の写真を見比べてみて下さい。なお改修のたびに唐津神社よりお札を頂き、左右の目それぞれの中にそのお札を納めています。

②酒呑童子の顔のモデルは○○

 私ごととなりますが、幼少の頃から頼光を曳いてきてずっと不思議に思っていた事があります。
 
 酒呑童子の耳
それは、酒呑童子はなぜネコ耳?という事。佐賀の鍋島藩の化け猫騒動の影響を受けたとの説も一部にありましたが、いまひとつピンと来ず・・・。そんな中、ほんの数年前に町内の先輩のある言葉を聞いて「なるほどっ!」と長年の疑問が自分なりに氷解した瞬間がありました。先輩のその言葉とは「『頼光は鍬形を取ったら猫やんね』て、しょっちゅうばあちゃんの言いよらした」というもの。もう少し詳しく記すと、その先輩のおばあさんは「曳山制作にあたり酒呑童子の顔を造る際、猫に大きな鞠を咬ませてその苦悶と怒りの表情を参考とした」という趣旨のことを度々語られていたとのことです。明治生まれの町内在住者の言葉だけに信憑性が高いと思いますし、何よりその後の曳山掃除で鍬形を外した頼光を実際に見た際、「あ-、猫だ」と私は自然に納得しました。先述の鍋島藩の化け猫騒動の影響を受けたという一説も、むしろ猫をモデルとした造形から後に派生したと考える方が自然のような気がします。残念ながらこれらの事を証明する文書等は伝わっていませんし、鍬形を外した頼光(酒呑童子)の造形に猫のイメージをどれだけ感じるかも人により様々だとは思います。将来的にもこれが学術的に証明される確率はほとんど無いと思いますが、曳山掃除などで鍬形を外した頼光に遭遇することがあったら是非、真正面と斜め前から酒呑童子の頭の造形をじっくりと見てみて下さい。きっとストンと納得できると思いますよ。

 以上、長々とまとまりのない内容を記してしまいました。最後まで辛抱強く目を通して頂いた方には、心よりお礼申し上げます。曳山に関わる私たちは幼少の頃より「曳山のおじちゃん」や「近所のおばちゃん」達に、時に褒められ度々怒られながら、町のみんなの子どもとして育まれてきました。少し成長して、戦時中空襲警報が鳴ると「死ぬんなら曳山と一緒に死ぬ」といって曳山の周りに集まっていたという話を聞き、昭和46年曳山の上部を支えるてんびんが折れ頼光の上部全てが台車に落下するという大規模な破損が起こった際にもわずか数時間で修理を行い再び曳山を曳き廻したという事実を知って、先人達の曳山にかける情熱に圧倒される思いをしました。そして齢を重ね曳山行事の中で徐々に指導的な立場を務めていくにつれ、自分たちが唐津くんちという伝統行事の中で教えられてきた様々な事を次の世代にきちんと伝えていきたいという想いが日々強くなってきています。唐津くんちの全てが無条件に素晴らしいとはいえない現状もあるとは思います。それでもこの唐津くんちがひとりでも多くの人々や子ども達にとって、先人達が大切に守り伝えてきた郷土の長い歴史と地域の中で生かされている自分を感じる契機となり、故郷・唐津に愛着と誇りを持つ要因でありつづけて欲しいと願っています。
 以上で終わります。最後に2つだけ。繰り返しとなりますが、本文に関する全ての苦情は松浦明・正取締まで(笑)。それと、今年そしてこれから先の唐津くんちがずっと、安全と天候に恵まれたいいくんちとなりますように。
 
 

 
 松浦明・正取締
  
 
 洋々閣で米国人たちをかつぐ米屋町の皆さん。
まあ、古舘さん、素晴らしい蘊蓄をありがとうございました。さすがに古舘正右衛門様のお孫さんですね。正右衛門様は唐津の古老で、特に曳山に関しては生き字引でいらっしゃいました。古舘家は銘酒『太閤』の鳴滝酒造の名家でいらっしゃいまして、現在の社長の正典さんも若くして後継者となられ、ずいぶんがんばっておられます。この超忙しいかたに原稿書きを押しつけた米屋町の取締・松浦明ドクターのお顔を古舘社長の代わりに載せたい意向が頼光会のほうにあるようにチラと聞きました。で、私もノリまして、上の写真を。泣く子も黙る米屋町の正取締は、かわいいお顔ですこと。

 もう一枚、右の写真はもう30年くらい前のもの。くんちの曳山巡行で頼光さんを特に気に入ってついてまわったアメリカ人グループと親しくなった米屋町の方々が、夜、疲れていらっしゃるはずなのに大勢で来て下さって、アメリカ人たちを次々に肩車して「エンヤ、エンヤ」と遊んでくださったのです。みな大喜び。そのうち、悪ノリしたどなたかが耳打ちされて、一斉に私に襲いかかって、あっという間にかつぎあげられ、着物の裾を乱して私は騎上の巴御前になっていました。こうなったら泣いてなどいられない。采配をふるって大声で馬を叱咤激励、大広間を駆け回りましたです、はい、オハズカシイ。大根脚丸出しの写真もあるけど門外不出、お家の御法度。

                
 では来月もこのページをご訪問ください。寒さに向かいます。お気をつけて。

 
米屋町フォトギャラリー

クリックしてご覧ください。

頼光会の皆様に厚く御礼申し上げます。



 



    今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。

                             洋々閣 女将    大河内はるみ
                               mail to: info@yoyokaku.com