唐津湾の北西に神集島(かしわじま)が浮かんでいる。面積約一・四平方キロメートル、周囲約八キロの小島である。台形をなしているところから「軍艦島」と呼ばれている。
今から約千三百年前、天平八年(七三六)八月、大和朝廷が派遣した遣新羅使船がこの島に停泊した。
一行は阿部継麻呂(あべのつぎまろ)を大使とし、大伴三中(おおとものみなか)を副使とする使節団で、六月に難波津を出発し瀬戸内海の湾や入り江での停泊を重ねながら二箇月を要してやっと神集島にたどり着いたのである。
神集島を出ればいよいよ日本本土に別れを告げて外海に出ることになる。途中に壱岐・対馬があるとはいえ、名にしおう荒波の玄界灘である。生きて帰れるという保障はない。人々は航海の安全を祈り、なつかしい故郷や恋しい家族のことを思い浮かべながら歌を詠んだ。
この天平八年の遣新羅使人が神集島で詠んだ七首の歌が『万葉集』巻十五に載せられている。
肥前国松浦郡狛島の亭(ひのみちのくにまつらのこほりこましまのとまり)に舟泊まりする夜に海浪を遥かに望み、各、旅の心を慟(いた)みて作る歌七首
という前書がつけられているが、この狛島(こましま)というのが神集島のことで、一説には柏島(かしわじま)と書くべきところを狛島と誤記したのではないかといわれている。
帰り来て見むと思ひし我がやどの秋萩すすき散リにけむかも
都に帰ってきて見ようと思ったわが家の秋萩やすすきは、もう散ってしまったのだろうか。
神集島で詠われた七首の歌のうち、唯一作者の名前がわかっている歌である。作者は秦田麻呂(はたのたまろ)という人である。
秦田麻呂がどのような人であったのか、どんな役職であったのかはよくわかっていない。ただ姓が秦氏であるところから、新羅からの渡来人であったのではないかということが考えられる。「はた」は古代朝解語で海の意であり、新羅から渡来した秦氏の集団が山城国を本拠として勢力を伸長したことはよく知られていることで、あるいはその子孫であったのかもしれない。そうすると「通訳」として同行を命ぜられていたということも考えられる。
この歌の意味から逆に使節団一行の予定が大幅に遅れていたことが推定できる。田麻呂は、秋萩、すすきが咲くころには新羅訪問を無事に終えて都へ帰り、自分の家の庭に咲く花を眺めるつもりだったのである。それがまだ、往路の神集島で不安な気持ちで出発の日を待っている状態であった。これは周防国を航行中、台風に遭って大分県の中津あたりまで流されたりしたからである。
このことは『万葉集』の中に―-佐婆(山□県佐波郡)の海中にして忽ちに逆風に遭ひ、漲へる浪に漂流す-―とあり、豊前国に漂着したことが書かれているからわかるのであるが、とにかくこの時期、田麻呂は焦りと不安にさいなまれていたであろうことは容易に想像できる。
天地(あめつち)の神を乞ひつつ我待たむ はや来ませ君待たば苦しも
天地の神に祈りながらわたしは待ちましょう。早く帰ってきてください。あなたを待つのはとても苦しいことですから。
この歌の作者名はわからない。ただ、歌の後に「右の一首、娘子」とあり女性の作だということがわかる。
この女性はいったいどのような女性だったのだろうか。解説者の多くは使節団員の相手をした「遊女」であるとの見方をしているものが多い。 そうすると、外交使節団が行くところには、このような「遊女」たちが集まってきたのであろう。
私は、純情な島の娘が、長らく滞在している使節団員のひとりと知り合い、愛し合うようになって、その別れにのぞんでうたった歌と考えたくて、犬養先生におたずねしたところ、「さあ、その考えはちょっと無理でしょうね」とやんわり否定されてしまった。千三百年前の神集島の美しい少女のイメージはもろくも崩れ去って、ちょっと残念だった。
君を思ひ我が恋ひまくはあらたまの立つ月ごとに避(よ)くる日もあらじ
あなたを思う私の恋心は月日がたっても一日として例外はなくいつも慕っているのです。
この歌は、前出の娘子の歌に対する男性の歌と解する解説者が多い。人称代名詞としての「君」は一般に男性に対する敬称として用いられるが、時には女性に対しても「君」と呼ぶことがあり、ここもその一例であるというのである。たとえ相手が遊女であろうとなかろうと、ひとりの男性ひとりの女性として、純粋に愛し合う恋愛関係にあったカップルが存在したのであろう。
この男性は無事に使命を果たして生還することができたのであろうか。その後の二人については全くわからないが、この使節団は大陸で天然痘に感染し、次々に病に倒れる者が続出した。
大使の阿部継麻呂は帰国途中、対馬で死亡し、副使の大伴三中も病のため一行から遅れて鳥にとどまり治療に専念する有様であった。 使節団は大使・副使を欠きながら、ほうほうの態で都へたどり着いたといわれている。
その年、都では天然痘が大流行し、藤原家の武智麻呂・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂という四兄弟ですらわずか五か月の聞に相次いで亡くなるという惨状を呈した。そういう状況の中では、この男性が無事に娘子と再会できたかどうか、はなはだこころもとない気がする。そのようなことを考えながらこの歌を読むと、千三百年前の若いカップルの悲歎のつぶやきが聞こえてくるような気がする。
秋の夜を長みにかあらむなぞここば眠(い)の寝らえぬもひとり寝ればか
秋の夜が長いせいだろうか、どうして寝苦しいのだろう。妻と離れて一人で寝ているからだろうか。
この歌は都に残してきた妻のことを思い、秋の夜長を眠られぬまま輾転反側する男の苦悩がよく表現されている。この歌の作者はおそらく妻帯者と思われる。
一方、夫を送り出す妻の方も、別離の悲哀と夫への思いやりを歌に詠んだことが『万葉集』には記録されている。直接神集島で詠まれた歌ではないが、使節団員の妻のひとりが、
君が行く海辺の常に霧立たば我が立ち嘆く息と知リませ
あなたが旅をされる岸辺の宿に霧がかかったなら、それは私があなたのことを思って深いため息をついたからだと思ってくださいね。
とうたっている。夫婦のこまやかな愛情がひしひしと伝わってくる歌である。千三百年前の夫婦の気持ちも現代に生きる夫婦の気持ちも基本的には変わりないのである。ここに現代人が『万葉集』に親しむ最も大きな理由がある。
足日女(たらしひめ)御舟泊(は)てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ
神功皇后の御舟が泊まったという松浦の海よ、その名のように妻が待っているはずなのに月日だけはいたずらに流れていくことであるよ。
この歌も都で自分の帰りを待っている妻(あるいは恋人)のことを思ってうたった歌であるが、ここで注意すべきことは上の句の表現である。
足日女というのは神功皇后のことである。神功皇后は仲哀天皇の皇后で、松浦地方には伝説としていろいろな話が伝わっている。朝鮮出兵の際、戦勝を占うため王島川で釣りをされた話や、当時懐妊中であった皇后が、戦いが終わるまで出産を延ばすために鎮懐石を裳の裾に縫い込まれた話などである。
遣新羅人たちはこの伝説を知っていたのであろう。これらは『日本書紀』に出てくる話であるが、今日の韓国の歴史学者は、神功皇后の朝鮮出兵自体を史実てはないとしてこれを否定している。
「神集島」という島名のおこりも、神功皇后が朝鮮出兵の際、この島の山上に神々を集めて戦勝を祈願し、「豊の明り」を催したことに由来するといわれているが、これらもやはり伝説として受け止めたほうがよさそうである。
旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹し思ひ悲しも
旅の途中なのであきらめてもいたけれど、やはり何かにつけて家にいる妻のことが心に思われて悲しいことだ。
あしひきの山飛び越ゆる雁がねは鄙の行かば妹に逢ひて来ね
山を飛び信える雁がねよ、都に行くのなら妻に逢ってきておくれ。
この二首も都に残してきた愛する妻を思う気持ちが、千三百年の歳月の彼方から切々と伝わってくるような気がしてならない歌である。
天平八年の遣新羅使の歌は合計百四十五首にのぼるが、往路と復路に分けてみると、往路が百四十首、復路はわずかに五首にすぎないという。 その理由は、三度にわたる台風との遭遇、悪疫流行による死者の増加、相手国である新羅の冷たい応待などのため、とても歌など詠む気にはならなかったのではないかと、武庫川女子大学の清原教授は推定されている。
とまれ、千三百年の昔、いろいろな思いを抱いた遺新羅使の人々が、私たちの郷土「神集島」に停泊し七首の歌を詠んだという事実は私たちのふるさとの大きな文化的遺産として長く後世に伝えられていくにちがいない。
岸川先生有難うございました。
上の七つの歌碑はいずれも犬養孝先生のご染筆によるものです。七つの歌碑がそろって除幕式の日には私どもに御宿泊でしたが、すでにご高齢でいらして、車いすで行かれたものの、お疲れになって、確か2つ3つでお戻りになりました。あとの歌碑はついにご覧になる日は来なかったのです。お優しい先生で、色紙を書いて頂いたものを大切にしています。私もまた、万葉にこころひかれるオトメでございますから。
このホームページには前にも唐津の万葉のことを書いています。この地方の30首全部出ていますから、興味のあられる方はこちらか
らご覧ください。
神集島に行くには、唐津市の湊(みなと)という地区の船着き場から「からつ丸」で8分で、すぐ目の前に見えています。 (船の案内)
では、どうぞ、10月の全国万葉大会にはぜひ唐津へお越しください。
また、来月ホームページでお目にかかりましょう。
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