玉島川の歌と松浦佐用姫の歌
万葉集 巻五より
松浦河(まつらがは)に遊びて贈り答ふる歌八首、また序 大伴旅人
*万葉集の中で「松浦川」と歌われている川は、いまの松浦川でなく、現在は「玉島川」と呼ばれる川のことです。この川には神功皇后(息長足姫・おきながたらしひめ、または足姫・たらしひめ)の鮎釣りの伝説も残り、春ともなれば清流に鮎の影が走り、対岸に山桜が咲く仙境です。
余(われ)暫く松浦県(まつらがた)に往きて逍遥し、玉島の潭に臨みて遊覧するに、忽ち魚釣る女子等に値(あ)へり。花容双び無く、光儀匹ひ無し。柳葉を眉中に開き、桃花を頬上に発(ひら)く。意気雲を凌ぎ、風流世に絶えたり。僕(われ)問ひけらく、「誰が郷誰が家の児等ぞ。若疑(けだし)神仙ならむか」。娘(をとめ)等皆咲みて答へけらく、「児等は漁夫の舎(いへ)の児、草菴の微(いや)しき者、郷も無く家も無し。なぞも称(な)を云(の)るに足らむ。唯性水に便り、復た心に山を楽しぶ。或は洛浦に臨みて、徒に王魚を羨(とも)しみ、乍(あるい)は巫峡に臥して空しく烟霞を望む。今邂逅(わくらばに貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感応に勝へず、輙ち款曲を陳ぶ。今より後、豈に偕老ならざるべけむや」。下官(おのれ)対ひて曰く、「唯々(をを)、敬みて芳命を奉(うけたま)はりき」。時に日は山西に落ち、驪馬(りば)去なむとす。遂に懐抱を申(の)べ、因て詠みて贈れる歌に曰く、
0853 漁りする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と
あさりする あまの こどもと ひとは いえど みるに しらえぬ うまびとの こ と
阿佐<里><須流> 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等
答ふる詩(うた)に曰く、
0854 玉島のこの川上に家はあれど君を恥しみ顕はさずありき
たましまの このかわかみに いえはあれど きみを やさしみ あらわさず ありき
|
平成2年に藤井貞和博士
(現・東大教授)を玉島川に案内 |
多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉
蓬客等(をのれ)また贈れる歌三首
0855 松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
まつらがわ かわのせ ひかり あゆつると たたせる いもが ものすそ ぬれぬ
麻都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛<何> 毛能須蘇奴例奴
0856 松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも
まつらなる たましまがわに あゆつると たたせる こらが いえじ しらずも
麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛
0857 遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我こそ巻かめ
とおつひと まつらのかわに わかゆつる いもがたもとを われこそ まかめ
等富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曽末加米
娘等(をとめら)また報ふる歌三首
0858 若鮎釣る松浦の川の川波の並にし思はば我恋ひめやも
わかゆつる まつらのかわの かわなみの なみにし もわば われ こいめやも
和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美邇之母波婆 和礼故飛米夜母
0859 春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに
はるされば わぎえのさとの かわどには あゆこ さばしる きみ まちがてに
波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓
0860 松浦川七瀬の淀は淀むとも我は淀まず君をし待たむ
まつらがわ ななせの よどは よどむとも われは よどまず きみをし またむ
|
春浅い玉島川の素魚とり |
麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武
後れたる人の追ひて和(よ)める詩(うた)三首
0861 松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
まつらがわ かわのせ はやみ くれないの ものすそ ぬれて あゆか つるらむ
麻都良河波 <可>波能世波夜美 久礼奈為能 母能須蘇奴例弖 阿由可都流良<武>
0862 人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我は恋ひつつ居らむ
ひとみなの みらむ まつらの たましまを みずてや われは こいつつ おらむ
比等未奈能 美良武麻都良能 多麻志末乎 美受弖夜和礼波 故飛都々遠良武
0863 松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ
まつらがわ たましまのうらに わかゆつる いもらを みらむ ひとの ともしさ
麻都良河波 多麻斯麻能有良尓 和可由都流 伊毛良遠美良牟 比等能等母斯佐
*0853〜0863 大伴旅人
松浦仙媛(まつらをとめ)の歌に和ふる一首
0865 君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
きみをまつ まつらのうらの おとめらは とこよのくにの あまおとめかも
伎弥乎麻都 々々良乃于良能 越等賣良波 等己与能久尓能 阿麻越等賣可<忘>
*0865 吉田 宣(よしだよろし)
山上憶良が松浦の歌三首(みつ)
憶良誠惶頓首謹啓す。憶良聞く、方岳の諸侯、都督の刺使、並(みな)典法に依りて部下を巡行し、其の風俗を察(み)る。意内端多く、口外出し難し。謹みて三首の鄙歌を以て、五蔵の欝結を写さむとす。其の歌に曰く、
0868 松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ
まつらがた さよひめのこが ひれふりし やまのなのみや ききつつ おらむ
麻都良我多 佐欲比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃<尾>夜 伎々都々遠良武
|
神功皇后垂綸石
立っているのは神功皇后では
なくて15年前の私 |
0869 足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰見き
たらしひめ かみのみことの なつらすと みたたしせりし いしをたれみき
多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 [一云
阿由都流等]
0870 百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる ももかしも ゆかぬ まつらじ きょう ゆきて あすは きなむを なにか さやれる
毛々可斯母 由加奴麻都良遅 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留
*0868〜0870 山上憶良
天平二年七月の十一日、筑前国司山上憶良謹みて上(たてまつ)る。
領巾麾(ひれふり)の嶺(ね)を詠める歌一首
大伴佐提比古(おおとものさでひこ)の良子(いらつこ)、特(ひとり)朝命(おほみこと)を被(かが)ふり、藩国(みやつこくに)に奉使(ま)けらる。艤棹(ふなよそひ)して帰(ゆ)き、稍蒼波を赴(あつ)む。その妾(め)松浦佐用嬪面(さよひめ)、此の別れの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ひの難きを嘆く。即ち高山の嶺に登りて遥かに離(さか)り去(ゆ)く船を望む。悵然として腸を断ち、黯然として魂(たま)を銷(け)つ。遂に領巾を脱きて麾(ふ)る。傍者流涕(かなし)まざるはなかりき。因(かれ)此の山を領巾麾の嶺と曰(なづ)くといへり。乃ち作歌(うたよみ)すらく、
0871 遠つ人松浦佐用姫夫恋に領巾振りしより負へる山の名
とおつひと まつらさよひめ つまこいに ひれ ふりしより おえる やまのな
|
憶良歌碑 鏡山山頂 |
得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈
後の人が追ひて和(なぞら)ふる歌一首
0872 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
やまのなと いいつげとかも さよひめが この やまの えに ひれを ふりけむ
夜麻能奈等 伊賓都夏等可母 佐用比賣何 許能野麻能閇仁 必例遠布利家<牟>
最(いと)後の人が追ひて和ふる歌一首
0873 万代に語り継げとしこの岳に領巾振りけらし松浦佐用姫
よろずよに かたりつげとし このたけに ひれ ふりけらし まつらさよひめ
余呂豆余尓 可多利都夏等之 許能多氣仁 比例布利家良之 麻通羅佐用嬪面
*0871〜0873 大伴旅人
最最(いといと)後の人が追ひて和ふる歌二首
0874 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
うなばらの おきゆく ふねを かえれとか ひれ ふらしけむ まつらさよひめ
|
博多人形 松浦佐用姫 |
宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣
0875 ゆく船を振り留みかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫
ゆくふねを ふりとどみかね いかばかり こほしくありけむ まつらさよひめ
由久布祢遠 布利等騰尾加祢 伊加婆加利 故保斯<苦>阿利家武 麻都良佐欲比賣
*0874〜0875 山上憶良説と大伴旅人説あり
三島王の後に追ひて和(なぞら)へたまへる松浦佐用嬪面の歌一首
0883 音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山
おとにきき めには いまだみず さよひめが ひれ ふりきとう きみ まつらやま
於登尓吉<岐> 目尓波伊麻太見受 佐容比賣我 必礼布理伎等敷 吉民萬通良楊満
*0883 三島王(みしまおおきみ)
|