桃の花

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶



#48
平成16年3月





まつらの里の万葉




 みなさま、こんにちは。桃の花咲く季節となりました。
  「春よ来い、早く来い」、と鼻歌が出てきます。
 この童謡、「歩きはじめたみいちゃんが、赤い鼻緒のじょじょはいて、おんもへ出たいと待っている」っていう歌、万葉集に載っていますよね。え、そんなわけないって?え〜ッ?そ〜お〜?確か、載っていますよ〜。

 というわけで、今月は万葉集をひもといて、
学問をいたしましょう。

 この童謡がほんとうに万葉集に載っているかどうかは、最後までお読みくださったかただけにお知らせします。
 あ、ずるい、一番下に行かないで。





 唐津地方の古名「まつら」に松浦という字が固定されてくるのは、中世のころからのようです。奈良時代に成立した萬葉集には4516首の歌が載っていますが、その中で麻都良、麻通良、松浦と書かれるこの地方にかかわる歌は30首に上り、玉島川、松浦佐用姫、神集島(かしわじま)、松浦船、という4つのキーワードでくくられます。

 昨年(2003年)3月に、唐津市鏡の公民館が主体となって催した「まつらの姫たちの宴」というイベントと連携して、「まつらの万葉かるた」というものが発行されました。30首を百人一首のように、読み札と取り札に作り、読み手の発声で札を取って競技をする、というものです。この2月29日には第二回のかるた大会が恵日寺で催されました。
 
 わたくし、百人一首は覚えるのは早かったのですが、運動神経が鈍いものですから、いつも負けていました。でも、万葉のかるたですと、まだみんなになじみが薄いので、早く覚えさえすれば動きが鈍くても勝てるかも知れない、とひそかに期するところがあり、はりきってかるたを買って参りました。ところが、なんと今となっては、記憶のインプットのほうがチョー・スローになっているではありませんか!アー、ヤダ。
 今年は出場はあきらめましたが、未練が残ります。みなさま、私と一緒に、この30首のまつらの万葉歌を覚えてくださいませ。来年をめざそうではありませんか。1枚でも取ろうではありませんか。それでは、がんばりましょう。
  参考書:中西進著 「万葉集」 ほか  

 
 玉島川の歌と松浦佐用姫の歌

  
 万葉集 巻五より 

松浦河(まつらがは)に遊びて贈り答ふる歌八首、また序   大伴旅人

*万葉集の中で「松浦川」と歌われている川は、いまの松浦川でなく、現在は「玉島川」と呼ばれる川のことです。この川には神功皇后(息長足姫・おきながたらしひめ、または足姫・たらしひめ)の鮎釣りの伝説も残り、春ともなれば清流に鮎の影が走り、対岸に山桜が咲く仙境です。

余(われ)暫く松浦県(まつらがた)に往きて逍遥し、玉島の潭に臨みて遊覧するに、忽ち魚釣る女子等に値(あ)へり。花容双び無く、光儀匹ひ無し。柳葉を眉中に開き、桃花を頬上に発(ひら)く。意気雲を凌ぎ、風流世に絶えたり。僕(われ)問ひけらく、「誰が郷誰が家の児等ぞ。若疑(けだし)神仙ならむか」。娘(をとめ)等皆咲みて答へけらく、「児等は漁夫の舎(いへ)の児、草菴の微(いや)しき者、郷も無く家も無し。なぞも称(な)を云(の)るに足らむ。唯性水に便り、復た心に山を楽しぶ。或は洛浦に臨みて、徒に王魚を羨(とも)しみ、乍(あるい)は巫峡に臥して空しく烟霞を望む。今邂逅(わくらばに貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感応に勝へず、輙ち款曲を陳ぶ。今より後、豈に偕老ならざるべけむや」。下官(おのれ)対ひて曰く、「唯々(をを)、敬みて芳命を奉(うけたま)はりき」。時に日は山西に落ち、驪馬(りば)去なむとす。遂に懐抱を申(の)べ、因て詠みて贈れる歌に曰く、

0853 漁りする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と
    あさりする  あまの  こどもと  ひとは いえど みるに しらえぬ  うまびとの こ と

阿佐<里><須流> 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等

答ふる詩(うた)に曰く、

0854 玉島のこの川上に家はあれど君を恥しみ顕はさずありき
    たましまの このかわかみに  いえはあれど  きみを やさしみ あらわさず ありき 

平成2年に藤井貞和博士
(現・東大教授)を玉島川に案内

多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉

蓬客等(をのれ)また贈れる歌三首

0855 松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
    まつらがわ かわのせ ひかり あゆつると  たたせる  いもが ものすそ  ぬれぬ

麻都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛<何> 毛能須蘇奴例奴

0856 松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも
    まつらなる  たましまがわに あゆつると  たたせる  こらが  いえじ  しらずも

麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛

0857 遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我こそ巻かめ
        とおつひと まつらのかわに  わかゆつる  いもがたもとを  われこそ  まかめ

等富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曽末加米

娘等(をとめら)また報ふる歌三首

0858 若鮎釣る松浦の川の川波の並にし思はば我恋ひめやも
     わかゆつる まつらのかわの  かわなみの なみにし もわば  われ こいめやも

和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美邇之母波婆 和礼故飛米夜母

0859 春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに
        はるされば  わぎえのさとの  かわどには あゆこ さばしる  きみ まちがてに

波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓

0860 松浦川七瀬の淀は淀むとも我は淀まず君をし待たむ
        まつらがわ ななせの よどは よどむとも われは よどまず きみをし またむ

春浅い玉島川の素魚とり

麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武

後れたる人の追ひて和(よ)める詩(うた)三首

0861 松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
        まつらがわ かわのせ はやみ くれないの ものすそ ぬれて あゆか つるらむ

麻都良河波 <可>波能世波夜美 久礼奈為能 母能須蘇奴例弖 阿由可都流良<武>

0862 人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我は恋ひつつ居らむ
    ひとみなの みらむ  まつらの  たましまを みずてや  われは こいつつ  おらむ

比等未奈能 美良武麻都良能 多麻志末乎 美受弖夜和礼波 故飛都々遠良武

0863 松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ
        まつらがわ たましまのうらに わかゆつる  いもらを みらむ ひとの ともしさ

麻都良河波 多麻斯麻能有良尓 和可由都流 伊毛良遠美良牟 比等能等母斯佐

   *0853〜0863 大伴旅人


松浦仙媛(まつらをとめ)の歌に和ふる一首

0865 君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
        きみをまつ  まつらのうらの  おとめらは  とこよのくにの  あまおとめかも

伎弥乎麻都 々々良乃于良能 越等賣良波 等己与能久尓能 阿麻越等賣可<忘>

   *0865 吉田 宣(よしだよろし)


山上憶良が松浦の歌三首(みつ)

憶良誠惶頓首謹啓す。憶良聞く、方岳の諸侯、都督の刺使、並(みな)典法に依りて部下を巡行し、其の風俗を察(み)る。意内端多く、口外出し難し。謹みて三首の鄙歌を以て、五蔵の欝結を写さむとす。其の歌に曰く、

0868 松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ
     まつらがた さよひめのこが  ひれふりし  やまのなのみや  ききつつ おらむ

麻都良我多 佐欲比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃<尾>夜 伎々都々遠良武

神功皇后垂綸石
立っているのは神功皇后では
なくて15年前の私

0869 足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰見き
    たらしひめ かみのみことの なつらすと  みたたしせりし  いしをたれみき

多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 [一云 阿由都流等]

0870 百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる  ももかしも  ゆかぬ  まつらじ きょう ゆきて  あすは きなむを なにか さやれる

毛々可斯母 由加奴麻都良遅 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留

   *0868〜0870 山上憶良

天平二年七月の十一日、筑前国司山上憶良謹みて上(たてまつ)る。


領巾麾(ひれふり)の嶺(ね)を詠める歌一首

大伴佐提比古(おおとものさでひこ)の良子(いらつこ)、特(ひとり)朝命(おほみこと)を被(かが)ふり、藩国(みやつこくに)に奉使(ま)けらる。艤棹(ふなよそひ)して帰(ゆ)き、稍蒼波を赴(あつ)む。その妾(め)松浦佐用嬪面(さよひめ)、此の別れの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ひの難きを嘆く。即ち高山の嶺に登りて遥かに離(さか)り去(ゆ)く船を望む。悵然として腸を断ち、黯然として魂(たま)を銷(け)つ。遂に領巾を脱きて麾(ふ)る。傍者流涕(かなし)まざるはなかりき。因(かれ)此の山を領巾麾の嶺と曰(なづ)くといへり。乃ち作歌(うたよみ)すらく、

0871 遠つ人松浦佐用姫夫恋に領巾振りしより負へる山の名
        とおつひと まつらさよひめ つまこいに ひれ ふりしより  おえる  やまのな

憶良歌碑 鏡山山頂

得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈

後の人が追ひて和(なぞら)ふる歌一首

0872 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
        やまのなと  いいつげとかも  さよひめが この やまの えに ひれを ふりけむ

夜麻能奈等 伊賓都夏等可母 佐用比賣何 許能野麻能閇仁 必例遠布利家<牟>

最(いと)後の人が追ひて和ふる歌一首

0873 万代に語り継げとしこの岳に領巾振りけらし松浦佐用姫
       よろずよに かたりつげとし  このたけに ひれ ふりけらし  まつらさよひめ

余呂豆余尓 可多利都夏等之 許能多氣仁 比例布利家良之 麻通羅佐用嬪面


   *0871〜0873 大伴旅人

最最(いといと)後の人が追ひて和ふる歌二首

0874 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
        うなばらの おきゆく ふねを かえれとか  ひれ ふらしけむ まつらさよひめ

博多人形 松浦佐用姫

宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣

0875 ゆく船を振り留みかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫
    ゆくふねを ふりとどみかね  いかばかり  こほしくありけむ まつらさよひめ

由久布祢遠 布利等騰尾加祢 伊加婆加利 故保斯<苦>阿利家武 麻都良佐欲比賣


   *0874〜0875 山上憶良説と大伴旅人説あり

三島王の後に追ひて和(なぞら)へたまへる松浦佐用嬪面の歌一首

0883 音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山
     おとにきき めには いまだみず  さよひめが  ひれ ふりきとう  きみ まつらやま

於登尓吉<岐> 目尓波伊麻太見受 佐容比賣我 必礼布理伎等敷 吉民萬通良楊満


   *0883 三島王(みしまおおきみ)


 



 神集島(狛島)(かしわじま)の歌

 万葉集 巻十五より

唐津市神集島


肥前國松浦郡狛嶋亭舶泊之夜遥望海浪各慟旅心作歌七首

肥前国(ひのみちのくちのくに)松浦郡(まつらのこほり)狛島の亭(とまり)に舶泊てし夜、海浪(うなはら)を遥望(みさ)け、各(おのもおのも)旅の心を慟(かなし)みてよめる歌七首

*唐津市湊の湾の約800メートル沖合に浮かぶ軍艦のような台形の神集島(狛島)。
島の名は神功皇后が海上安全を祈るため神々を集めたという故事に由来する。
難波を出発した遣新羅使の一行はこの狛島の亭に泊まり、旅の不安や望郷の歌を7首残した。
神集島には七つの万葉歌碑、鬼塚古墳群、はまゆう群生地、神功皇后ゆかりの遺跡などがある。

3681 帰り来て見むと思ひし我が屋戸の秋萩すすき散りにけむかも
        かえりきて  みむと  おもいし  わがやどの  あきはぎすすき ちりにけむかも

可敝里伎弖 見牟等於毛比之 和我夜度能 安伎波疑須々伎 知里尓家武可聞

神集島の万葉歌碑

(上)の一首は、秦田滿(はたのたまろ)。

3682 天地の神を乞ひつつ吾待たむ早来ませ君待たば苦しも
    あめつちのかみをこいつつ  あれまたむ  はやきませ きみ またば くるしも

安米都知能 可未乎許比都々 安礼麻多武 波夜伎万世伎美 麻多婆久流思母

(上)の一首は、娘子(をとめ)。

3683 君を思ひ吾が恋ひまくはあら玉の立つ月ごとに避くる日もあらじ
        きみをおもい あが こいまくは  あらたまの  たつ つきごとに よくるひも あらじ

伎美乎於毛比 安我古非万久波 安良多麻乃 多都追奇其等尓 与久流日毛安良自

3684 秋の夜を長みにかあらむなそここば眠(い)の寝らえぬも独り寝(ぬ)ればか
        あきのよを ながみにかあらむ なそここば  いの  ねらえぬも  ひとり ぬればか

秋夜乎 奈我美尓可安良武 奈曽許々波 伊能祢良要奴毛 比等里奴礼婆可

3685 たらし姫御船泊てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ
    たらしひめ  みふね はてけむ  まつらのうみ いもが まつべき つきは へにつつ

多良思比賣 御舶波弖家牟 松浦乃宇美 伊母我麻都<倍>伎 月者倍尓都々

3686 旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹し思ひ悲(がな)しも
    たびなれば  おもい たえても  ありつれど いえにある いもし おもいがなしも

神集島地図と歌碑位置

多婢奈礼婆 於毛比多要弖毛 安里都礼杼 伊敝尓安流伊毛之 於母比我奈思母

3687 あしひきの山飛び越ゆる雁がねは都に行かば妹に逢ひて来(こ)ね
    あしびきの  やま とびこゆる かりがねは みやこにゆかば いもに あいて こね

安思必奇能 山等妣古<由>留 可里我祢波 美也故尓由加波 伊毛尓安比弖許祢

   *3683〜3687 遣新羅使


 



 松浦船の歌

 万葉集 巻七より

*「松浦船」は大きな音を立てる櫂楫を使用していたようである。中世初頭には松浦地方に一応の海上勢力が成立していたと考えられている。平戸藩の藩主御座船 一言丸は、松浦船のイメージを伝えている。


摂津(つのくに)にてよめる

1143 さ夜更けて堀江榜ぐなる松浦船 楫の音(と)高し水脈速みかも
        さよふけて  ほりえ こぐなる まつらぶね かじのと たかし みお はやみかも

松浦船

作夜深而 穿江水手鳴 松浦船 梶音高之 水尾早見鴨

   *1143 作者不詳

 万葉集 巻十二より

3173
 松浦舟乱る堀江の水脈早み楫取る間なく思ほゆるかも                     まつらぶね みだるほりえの みお はやみ かじとる まなく おもほゆるかも

松浦舟 乱穿江之 水尾早 楫取間無 所念鴨

   *3173 作者不詳




 さてさて、ご苦労様でした。読むかたも、入力するワタシも。歌の解釈も入れようかと思いましたが、あまりページが重くなるのでやめました。ご質問のあるかたはメールでどうぞ。中西先生の参考書を見て、お返事します。

 万葉集の歌がひとつでもある土地は、万葉の里としてどこでもとっても自慢しますよね。30首もあるまつら地方は、それこそ大いばりでみんなで万葉歌を覚えればいいのに、と長いこと思っていましたので、はじめに書いた「まつらの万葉かるた」ができたとき、大喜びしたのです。私がもっと若いときにこのかるた会があっていれば、わたし、きっと、クイーンになったと思う。時すでに遅し。覚えられもせず、体も動かず。札を取ろうとして、隣の人を押しつぶす、なんてことに・・・。

 負け惜しみに、鼻歌でも歌います。
   「春よ来い、早く来い
    おうちの前の 桃の木の
    蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで
    はよ咲きたいと 待っている」

 おや、そうでした。この童謡が万葉集に載っているかどうかという学術的問題。
 答えは、YES.

犬養孝先生色紙(洋々閣蔵)
 作者は大伴家持。巻十九 4139。歌は次のとおり。

 春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立@(女偏に感)嬬
 (はるのその くれないにおう もものはな したてるみちに いでたつおとめ)

 もっとも、その乙女の名が”みいちゃん”だったとは、大伴家持先生も私の学説にはびっくりなさるでしょうけど。
 では、また来月、お花見でおあいしましょう。


今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


      メール