唐津から福岡へ国道202号線を走ると、そこに玄界灘へ突き出た糸島半島がある。半島の西部には糸島富士と呼ばれる可也山(カヤサン)がある。500mにも満たないが糸島半島の平野部ほぼ全域から望むことができる。
また玄海灘からも見えることから、古代から糸島のランドマークとなっていた。
唐津の鏡山からも串崎の向こうに糸島半島と可也山を望むことができる。串崎はもう福岡県糸島市であり、佐賀県唐津市との境ではないが、私は勝手に「海麦峠」(「野麦峠」をもじって)と呼んでいる。学生時代、休みに東京から帰省するとき串崎を越えると、松原や鏡山が迎えてくれた。 また休みを終え、この岬を越えると唐津と別れて、「さあ明日から東京かあ・・・」と気持ちをきりかえた。
糸島半島は唐津市のおとなりだが、国道202号のルートからは離れているので、頻繁には行かないが、その海の美しさに恋してしまう景色がある。可也山がある西部は旧志摩町で、志摩は嶋郡(日本書紀)に由来すると言われ、歴史はたいへん古い。夫婦岩(竜宮の入り口ともいわれていた。)を沖に見る「二見浦」があり、筑前の伊勢と崇敬されて来た。
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串崎の向こうに糸島半島が見える 鏡山展望台より |
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可也山 糸島半島中央部、北側から |
野北海岸 芥屋の東側の海岸 |
カヤサンと言えば、「女将の挨拶」 #134 「桜咲く国・伽倻の春」が頭に浮かぶ。
伽倻山(カヤサン・가야산)は、朝鮮半島南部にある山並の総称で、標高1,000m級の山が屏風のように連なる。南西麓には新羅時代の古寺・海印寺(ヘインサ)・世界遺産、海印寺大蔵経板殿(해인사 대장경판전、・・・詳しくは「女将の挨拶」#134を参照)がある。なぜかおなじ呼び名だが、糸島半島には、加布里(カフリ)・芥屋(ケヤ)・加布羅(ガブラ)などの地名があり、朝鮮古代の半島南部にあった加耶諸国のことなどを思い出す。対馬についで、地理的に近かったこの地域は人や物の行き来が頻繁に行われ、ゆかりの地名が残ったのかも知れない。芥屋の海岸に立てば、打ち寄せる波の向こうに朝鮮半島が見えるような気がするのは私だけだろうか・・・ 思いは玄界灘を飛び越える。
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芥屋(ケヤ)の海岸 |
加布羅(ガブラ)交差点 |
ところで糸島半島は、司馬遼太郎の『街道をゆく2 韓のくに紀行』で紹介されてひろく有名となった沙也可(サヤカ)の出生地ではないかとされている。沙也可は豊臣秀吉の朝鮮出兵・・有名な文禄・慶長の役(韓国では壬申倭乱)のときに豊臣政権の重臣加藤清正軍(一説では小西行長軍)の武将で朝鮮上陸後すぐに「大義のない戦いで、いわれなき民を苦しめることはできない」として自身の手勢約3千とともに朝鮮軍に寝返り、朝鮮軍に当時なかった鉄砲を使った戦い方を伝授し、豊臣軍の侵攻を、朝鮮水軍の英雄・李
舜臣(イ・スンシン)と伴に迎え撃ち、豊臣軍を撃退したとき、宣祖王に臣下として迎えられ、大臣並の位と金海金氏を名乗るよう賜り、名を金忠善(キム チュンソン)と改名、賜姓金海金氏の始祖として慶尚北道の友鹿(ウロク)に領土を与えられて、朝鮮の臣としてその後も活躍し、その生涯を終えたとされる。この沙也可が誰であるかというといろいろと説があるが、実在はしたらしく、韓国の大邱市郊外、友鹿里というところにサヤカの墓があり、達城郡には沙也可の子孫という約150人が住む集落がある。
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沙也可の墓 |
さて、この沙也可が糸島半島の筑前高祖山(たかすやま)城主の原田信種(はらだ のぶたね)=(原田五郎右衛門尉信種)、知行は300石という戦国時代の武将であるとする説がある。本当は沙也可(サヤカ)ではなく沙也門(サエモン)だと言う。
高祖山城は秀吉に九州征伐の軍奉行に任じられた黒田官兵衛(今年のNHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」)の家臣、久野四郎兵衛を目付とする毛利家の小早川隆景(こばやかわ
たかかげ)の軍勢に攻め落とされる。官兵衛は4万石の大名だったが、常識では考えられない2500の兵を連れて九州へ攻め込んだ。原田信種はというと、予想を超えた押し寄せる大軍を見て驚いて戦うことなく小早川隆景軍に降伏した。このことで、戦わなかったので臣下(兵)を失うことがなく名護屋からの出兵に兵をそろえられたのではないだろうか。
また、先鋒隊にされていることは、豊臣政権に優遇されず、恨みを持っている者。そのため、豊臣秀吉に屈服し、再起をかけて朝鮮へ出兵したものの、戦乱に苦しむ隣人を見て、反旗をひるがえすことは起こりうることである。
それから、沙也可(サヤカ)は朝鮮軍に「当時なかった鉄砲を使った戦い方を伝授した」と伝えられるので、鉄砲の技術と知識や製鉄技術が相当にあると考えられる。糸島半島は高度な製鉄技術をもっていた加耶諸国の朝鮮南部に近く、交易などで関係が深く製鉄技術もあったのではないか。この地域は早くから鉄の鋳造が行われた地域でもあり、鉄斧の出土する遺跡が多いところである。
ところで、沙也可(サヤカ)は豊臣秀吉に滅ぼされた、和歌山の雑賀孫市(さいかまごいち)率いる雑賀鉄砲衆ではないかという説もある。鉄砲に精通していること、雑賀(サイカ)と沙也可(サヤカ)の読みが非常に近いと言うことが根拠になっているようだ。秀吉に滅ぼされ傭兵となった雑賀鉄砲衆が秀吉軍にまじって朝鮮半島へ渡り、寝返って反旗をひるがえす。 原田信種と雑賀鉄砲衆は共に戦っていたかも知れない。
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糸島半島中央部 可也山の東側 |
ところで糸島半島のなかでモダンな建物が立ち並ぶ九州大学伊都キャンパスがある。のどかな風景のなかに、驚きの未来都市といった感じだが、古代のそこにも当時の先端技術を結集した大製鉄都市があったのである。
伊都キャンパスがある福岡市西区元岡は元岡遺跡群の中心で、古代の鉄生産の中心地で、近年、8世紀前半の大型製鉄炉跡が約三十基見つかっている。
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九州大学伊都キャンパス |
また国内最古の木簡などが出土したことで、古代の「嶋郡」は古代国家にとって朝鮮半島へつながった重要な位置であったことを物語る。 武器と鉄の生産工場を担当する役所があった可能性も高い。日本書紀には、朝鮮に出兵する数万の兵が嶋郡に駐屯した記録もあり、朝鮮半島に向けた最前線基地だったという見方も強い。
2011年、元岡古墳群で西暦570年を示すとみられる「庚寅」など19文字の銘文が象眼された鉄製の大刀が出土した。朝鮮半島から伝わった暦使用の国内最古例であった。
このことや、ヤマト政権には鉄を大量生産する技術はなかったらしいので、朝鮮半島南部から技術者を迎えていたのではないかと考えらている。
このように朝鮮半島との関係が深かった地で育った原田信種はそれこそ自然に朝鮮半島への興味をもち、あるいは憧れをもって、いや慕情に似た感情すらあったのではないか。秀吉の朝鮮出兵こそ憧れの人(半島)に会えるチャンスだっだろう。
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『この海の向こうにあこがれの土地あり』 原田信種 志摩野北海岸
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【参考】『街道をゆく2 韓のくに紀行』司馬遼太郎 『慕夏堂史論』河合弘民
『海の伽耶琴』神坂次郎 『沙也可―義に生きた降倭の将―』江宮隆之
『戦国糸島史』 『新修志摩町史』 『信長公記』 『総まくり』平成24年度福岡市発掘調査
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