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海印寺は韓国慶尚南道のハプチョン郡カヤ面(ミョン)というところにあって、有名な伽耶山の中です。新羅時代の僧侶義湘が802年に建立したとされています。1995年にユネスコの世界遺産に登録されました。華厳宗です。
最初の山門はこれです。ここからまだだいぶ登ります。桜咲く参道を登って車はゆるゆると進みました。あちこちに淡いピンクのチンダルレが満開です。葉は後から出ます。ツツジ科で、日本名はカラムラサキツツジだそうです。
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左端からイムヒウクさん、キムヒョンスクさん(パク氏夫人)、パクヨンヘさん、海印寺のナンバー2であられるヘウォル和尚様、わたくし。
主人がカメラマン。 |
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こんな門があちこちにたくさんあります。 |
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祈願の団体客がひきもきらずに。 |
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ちょっと横に回るとこんな巨木が。何の木か私にはわかりません。 |
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建物と建物の間には中庭があり、こんな塔がいくつもあります。 |
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小さい建物もたくさんあって、それぞれに仏様がおられ、参る人も多いです。 |
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「一般人出入り禁止」と書いてある入口を入って、海印寺のトップに会わせていただきました。写真を取るのはさすがに憚られて、画像がありません。知的な額と穏やかな眼、そして地震の見舞いを言ってくださり、毎朝被災者のために祈りをささげているし、個人的にも3000万ウォンを寄付したとおっしゃいました。海印寺の公式ホームページを見てみると、確かに日本の地震被災者の為の募金活動があっています。まだお若いようですが、ふつうはこの方に会うのは簡単ではないそうで、大変光栄なことでした。緊張したので、グレイの法衣を着て居られたことだけしか覚えていません。お部屋の造りもおぼえていません。屏風の前に床に座られ、前に15センチ程度の低い一枚板のテーブルがあったのは覚えています。
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くるっと裏に回って見ると枯葉の間からカタクリの花が顔をのぞかせ、頭を垂れて祈っているようでした。
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少し離れてグラウンドがあり、若い僧がひたすら鍛錬していました。時折、ものすごい大声で何か叫んでいます。そばで聞けば腰を抜かすかも。おそらく、「活!」とかいうことかなとおもいました。
このお寺のサッカーチームは強いのだそうです。 |
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本殿の前には由緒ありげな三層の塔があります。説明文を読むと、これは「庭中三層石塔」と言う名のパゴダで、仏像が納められ、その前には遠い仏様を遥拝している姿として平たい石が置かれています。 |
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寺の隅を見回ると、不思議な塔が。これはオンドルの煙を排出する煙突だそうで、あちこちで色々なデザインの煙突を見ました。低いものもあります。これは見た中では最大のものでした。下のオンギ(甕)が相当大きいものですから、煙突の高さがおわかりでしょう。恐らく14、5メートルかも。 |
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夕方6時に巨大な鐘が衝かれ、そのあと太鼓が叩かれます。若い僧が5分ずつくらいの交替で合計20分ほども叩かれました。汗びっしょりで、パフォーマンス的に叩く僧もいて、変化に富むリズムです。参詣客はいづまいを正して並んで立って聞いていました。 |
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夜中の3時から勤行が始まります。2時半に起きて、ぞくぞくする冷気の中で私もお参りしました。やはり写真を取ることが憚られるので、こっそり一枚片手持ちで撮りましたら、ブレてしまって。でも貴重な一枚です。80人ほどの僧が一斉にお経を唱えられ、日本のお経とまたちがって、バリトンのコーラスのようでした。
ご本尊は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)で、観音様も2尊おられました。間でソロの読経も入るし、木魚の音もあり、高い天井に響いて、30分間荘厳な雰囲気に浸りました。私は「日本をお守り下さい」と祈りました。お坊様達がチョル(拝礼)をなさる時には一緒に立ったりぬかづいたりしましたが、10回もやると脚がガクガクして、立つとよろよろしました。
この寺には僧呂だけでも300人ほどいらっしゃって、学生、寺の仕事をする俗人まで入れると2000人を越す大所帯だそうです。周りに庵もいくつもあります。 |
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勤行の後はテンプルステイの人たちは座禅に行くようですが、私たちはいったん部屋に戻ってもう一度フトンにもぐりこみ、6時に若いお坊さんに起こされて食堂に行きました。セルフサービスの朝食は、大きいお皿にごはん、もやしのおひたし、キムチ、味噌汁をとり、水を汲んでテーブルにつくというシンプルなもの。「食べ物を残してはいけない」という表示があるので、少しにしておきました。結局、早朝からあまり食べられないので、丁度よかったです。テーブルに着くと「食事中黙言」という表示があり、たくさんの人が音もなく食事をしていました。 |
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6時半。明るくなってきた中庭の、提灯をつるしたロープでコースを作ってあるところを、信者たちが祈りながら歩いています。私も歩きたかったけど、時間がかかるし、次の予定があったので、失礼しました。 |
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朝日がさしてきて、屋根また屋根が輝きだしました。 |
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この花はなんでしょうか。どなたか教えて下さい。ケマンソウにも似ているようだし、タツナミソウにも似ているし。
この小さな花さえも仏さまの足元でこうべを垂れています。 |
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この建物に泊まりました。外は厳しい寒さですが、中はオンドルが背中を焼くほどに熱く、また早起きが気になって殆ど眠れませんでしたが、どういうわけかしゃきっと起きられました。
あちこちの土塀が瓦をうまく組み合わせてデザインされていて、みな同じではなく、それぞれにすてきな雰囲気です。この塀は、丸い軒瓦を3個ずつ組み合わせてはめ込んであります。
空き地の隅に余分な瓦を置いておくだけでも、うまく組み合わせて幾何学模様で面白いです。ディテールを見て歩くと、何時間いても飽きないでしょう。 |
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朝のお茶に招待されてヘウォル和尚様のお部屋に。ピンクのお茶はオミチャ(五味茶)。このお部屋の掛け軸は、表装の中に白紙だけのものでした。「何と読むか」と尋ねられたらどうしようかとびくびくしましたが、パクさんが自分の解釈で読まれたので、ほっとしました。パクさんの解釈はあえて書きませんので、皆様ご自分でどうぞ。
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そのあと、大蔵経板殿へ。中にしまうものを天候の変化から守るために先人の知恵は窓の桟の大きさや高さに工夫をこらしています。ここに仏教経典の総集である高麗八萬大蔵経の版木が納められています。高麗が1236年に制作着手したもの。1251年に完成、1398年に海印寺に納められました。
版木を納めた棚。
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そのあと、裏の図書館へ招き入れられ、普通の観光客には見せて貰えない大蔵経(先ほどの版木で刷られたお経)も見せていただきました。この図書館には若い僧たちの勉強するコーナーがあり、コーヒーを自由に呑みながら勉強しておられました。古今東西の仏教関係の蔵書があり、日本のものもずいぶんたくさんありました。仏教経典研究は日本が韓国より進んでいるとヘウォル和尚様がおっしゃいました。 |
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何かの行事を終えて急ぎ足で次に向かう僧たちの行列を見ました。ここには4年制の仏教大学があり、80人ほど20歳から40歳までの得度したての僧が勉強しています。今度は「茶道」のコースを開きたいとヘウォル和尚様がおっしゃいました。「教えにきてくれませんか」と。「とんでもございません」と青くなっておことわりしました。きっと近いうちにそれだけの資格のある先生を見つけて、この僧たちがお茶を点てる日がくるでしょう。その時にお客でうかがいたいものです。 |
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海印寺のメインの境内に別れを告げて、くねくねと続く細道をさらに分け入れば、見えてきたのは白蓮庵(ペンニョンアム)です。ここは18年ほど前に亡くなった禅師・退翁様が長年庵を結んでおられたところで、この方が亡くなった時には全国民が嘆き悲しんだそうです。今は訪ねる人もまれなようで、仏弟子だけが行かれるのでしょうか。観光客が行くには山が深すぎ、道が険しすぎると思いましたが、幸いにもこんなところにまで案内していただき私の祈りの旅はまことにありがたいものになりました。 |
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白蓮庵をまもる人たちの姿は見えませんでしたが、生活の匂いがしていて、どこかで女の人の笑い声さえしました。
退翁禅師のなきがらは公開の場で荼毘に付され、遺骨は海印寺の入り口近くに葬られています。 |