#154
   2013年1月

  謹賀新年

大島小太郎氏
写真:唐津市近代図書館蔵

このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や、
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大島小太郎

 皆様 明けましておめでとうございます。お元気でいい年をお迎えになりましたことと思います。
今年は唐津にも活気が戻りますようにと願って、今回は「大島小太郎」について唐津市の末盧館館長・田島龍太先生にふたたび原稿をお願いしました。どうぞ近代唐津の基礎を築いた大島小太郎にお会いください。






近代唐津の偉人たち―大島小太郎のこと―

田島龍太
               

 

旧唐津銀行本店 唐津市本町

平成23年三月に、唐津市の本町にある旧唐津銀行が、修理を終え市民に公開されることになった。建物の保存に係って以来、近代の先覚者と呼ばれ人々に触れる機会が増えた。今回はこの旧唐津銀行の頭取として活躍した大島小太郎のことを考える。

嘉永六年(1853)、浦賀沖に黒船が現れた。これ以降、幕末と呼ぶ。遅れること六年、安政六年(1859)、唐津町大字唐津千百九拾二番地で大島小太郎は生まれた。唐津城下、郭外の組頭以下の下級武士の屋敷でのことである。後に、唐津銀行の初代頭取となり、唐津の近代化の先頭に立ち、金融の基幹として経済、産業だけではなく、鉄道、港湾等様々な事業の中心となった人物である。小太郎の父、大島興義は、下級武士ではありながら、その才覚が認められ、由緒書によれば、天保十三年(1832)の御勘定見習を手始めに出仕し、幕末、維新とともに要職に上っている。明治三年には、政事庁の司民、及び司計両局の大属を兼ねている。唐津市近代図書館に所蔵される「大島家文書」には、恐らく上野彦馬が撮ったと考えられる興義の羽織袴姿で、両刀を差した肖像写真があり、裏に「崎陽にて」の墨書きが残っている。小太郎に良く似た、痩せて額の張った鋭く神経質そうな面差しが見て取れる。セピアに変わった写真には幕末の空気が漂っている。

近代は欧米諸国の来訪とともに、否応なく徳川幕府という屋敷の窓が開かれ、世界という海に、船出しなければならなかった時代である。各々の藩という国に生まれた、それぞれの宿命を担って、そこから出発して日本国民という姿を求めたといってもよいものであった。

唐津藩は江戸時代、280年の間、当初は別として譜代藩としての役割を担い続けたといってよい。九州雄藩の近くは佐賀、筑前の鍋島、黒田、遠くは薩摩の島津という「国」に向けて、徳川政権の監視役であり続けた。幕末に至り、予測通りにその雄藩に敗北して、官賊の汚名のまま、新しい世を迎えることとなったのである。明治四年、廃藩置県により唐津藩は唐津県となり、旧藩主小笠原長国は帰京することになる。その際に家臣にあてた一文には「因襲の情を去り文武を研き天朝へ一途に奉仕勤むべく候・・」と記している。かくて、藩士たちは各々の克己により、次の時代を切り開くことになったのである。佐幕藩の元藩士というレッテルは、重いものであったろう。特に、下級武士は、藩主や上級武士と違い、江戸(東京)に基盤を持つわけではなく、郭外の各町から新しい時代に旅立っていったのである。

唐津藩は、幕末に至って、洋学校と医学校を創設した。特に洋学校、英語学校の教師に当時十八歳であった仙台藩出身の高橋是清(唐津では東太郎と称した)を招聘した。明治四年から五年のわずかに一年の間の事である。藩は英俊を五十人選んで、研鑽させた。優秀な人材は、その後、帰京した高橋を追うように上京し、それぞれの分野で先覚者となった。当時十三歳であった小太郎も上京し、中村敬宇の門に入り、二松學舍と三菱商業学校に学ぶ。不思議なことに、この後、福澤諭吉の紹介で石巻商業学校で教鞭をとるものの、明治十五年に帰唐、長崎県唐津伝習所の教師となり、翌年には、隠居する父興義に変わり、戸主となって、破綻した魚会舎(魚市場)の整理に携わるとともに、唐津銀行を発足させ、初代頭取となって経済界をリードすることになるのである。銀行業務の先頭に立つとともに、唐津物産会社設立、唐津興業鉄道株式会社設立、唐津港開港運動、唐津築港株式会社設置、唐津電灯株式会社設立と、鉄道、港湾、電力等の基幹産業、いわゆるインフラ整備の基礎をなしたので
ある。

解体された大島邸にあった茶室

筆者は平成8年から始まる、近代和風建築物の調査、保存の仕事に従事することとなり、石炭王、高取伊好の屋敷の保存に係ることになり、その一環で、城内にある大島小太郎の屋敷も訪れることになった。近代の和風建築物という時代を経たものでありながら、その何ものかの違いを感じていた。古さや新しさというものではなく、建物を建てた人の思いの違いとでもいうものが感じられたのである。高取家住宅では、武家のたしなみとしての教養が色濃く出た雰囲気があり、家紋すらハレの場に使う唐破風の大玄関に見えるだけで、建物屋根の化粧瓦も、素っ気なく単純化している。一方、大島家では、門には錠前鍵の文様の入った飾り瓦を乗せ、屋敷の棟瓦には、「大」の字が入るなど、とても、武家とは思われないような派手やかな部分が見えたのである。壁も、高取の薄墨色を主体とするものに対して、橙色に近い妖艶な華やかさが感じられるものであった。この違いはなんなのだろう。それが印象として残ったのである。

時を経て、たまさか、その保存の問題が起こり、渦中のなかで、再び、訪れた建物は相変わらず、華やかさを保っていた。しかし、小太郎が持っていた自負、そして、唐津に戻って業をなした理由を絡めると何か、小太郎の明治という世に対する決意というようなものがあったのではないかと感じたのである。武家という矜恃を意識させない努力、それこそが錠前鍵の瓦文様ではなかったかと思うのである。

先年、唐津の近代図書館で「大島小太郎に関する」展示会をすることとなり、調べものをした。図書館に残さ

若き日の大島小太郎
写真:唐津市近代図書館蔵

れた「大島家文書」の台帳の頁を捲りながら、様々な事歴を見るうちに、彼が描いた唐津という郷土像をおもったのである。その時に、大島小太郎を知るためには、大島小太郎が生きた時代を顕彰しなければならない。彼が過ごした唐津の事を知らなければならないと思い、「大島小太郎とその時代」展というタイトルを選ぶことになったのである。幕末の夜明け前に生を受け、明治、大正、昭和を生き、終戦とともに世を去った小太郎の人生は、まさに、近代の成立と終焉そのものの気がしたからであった。

その時に、明治人として生きた高取氏と大島氏の二人の思いの違いが決してまったく別のものではなかったような気がしたのである。武士として矜恃を持ち続けることで、何かを成し遂げ、遍く広めることを目的とした高取氏と、自らに旧弊な身分を捨てること強いて、社会を構築することを目指した大島氏は、ともに明治という時代が作った人であったと考えられるのである。

先日、偶然にも、昭和10年の貴重な8mmフイルムを見る機会を得た。大島小太郎の銅像の除幕式の様子が撮られたものであった。小太郎の事で、い

大正中期の唐津港
写真:唐津市近代図書館蔵

ま一つ、高取氏との違いを感じていたものがある。それは、顕彰像の有る無しのことであった。確かに、事業者として、喜捨という貢献を惜しみなく繰り返した高取翁の姿は、氏の生き方の根源にあるものであった。一方、金融経済界に生きた小太郎は、そうした意味での形は残されなかったものと理解していたのである。しかし、である。一つだけ銅像があったという話を聞いていた。唐津平野の西端、佐志川の東岸にある小高い丘陵地、かつて中世の豪族、佐志氏の居城、浜田城があった場所にその銅像があったというのである。地元の人に聞くと、その場所は「公園」と呼ばれ、銅像と桜が植えてあったという、今の山野に化した場所では想像もできないことであった。その映像に出会うとは思ってもみないことであった。内容は短いものであったものの、確かに小太郎氏の痩身の全体立像が、海に向かって、彼が開発に辛酸した唐津湾(唐房湾)を望んで立っている姿が映っていたのである。しかも、その映像の後半には、できたばかりの鏡山公園の山頂に佇む小太郎翁の姿も映されていたのである。その変わらぬ口髭は白く太く威厳を保っていた。しかし、その銅像も今はない。基壇ばかりが、よく見るとわかる桜の老木とともに、かつての公園地の面影をしのばせているのみである。

    田島龍太先生

                              

          (2012.12.19 脱)

 








     



田島先生、有難うございました。旧唐津銀行では、ときどき市民による催し物があります。すてきな空間ですてきな音楽を聞いたり、展示を見たり出来ます。どうぞお立ち寄り下さい。前に旧唐津銀行の建物についてのページがありますから、こちらからご覧ください。
また来月お目にかかりましょう。
寒さに負けずに元気で楽しくお暮らしください。




  今月もお越しくださってありがとうございました。
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