#74
平成18年5月



このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶

山頭火の後姿
句集掲載写真

 



山頭火と唐津


 みなさま、こんにちは。5月ともなりますと、なんだかウズウズして、どこかにサスライたい気分になりません?
 青空高くヒバリがさえずるある日、虹の松原を抜け、麦畑を通って、鏡山を目指して歩いたことがありました。まだ足が悪くなかったときのこと。目の前に見えているのに、行けども行けども山は遠ざかるばかり。
 そこで、一句。「分け入っても分け入っても青い麦」
・・・・あれ、どこかで聞いたような。

 そうです。山頭火です。「分け入っても分け入っても青い山」がホントウ。

 今月は、野田旗子先生に再登場願いまして、山頭火と唐津のことを書いていただきます。
 おたのしみください。



山頭火と唐津
−弱者への温かいまなざし−
野 田 旗 子

                                


− 「うしろ姿のしぐれてゆくか」−
 という句で有名な山頭火は、明治15年山口県防府市の旧家に生まれるが、昭和15年に59歳 の生涯を終えるまでは、波乱に満ちた人生を送った。大正14年に熊本で泥酔し、電車を止めるという事件を起こした後、出家得度してからは終生、一鉢一笠、行乞放浪の旅の中にあった。旅にあっては、句作も交えた日記を書いていたが、昭和5年以前のものは焼き捨てられたらしく残っていない。昭和5年からの九州地方行乞記は「私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ」という述懐から始まるが、唐津に関するものは、昭和7年の1月18日、浜崎の旅館の日記の中からみつけることができる。
福岡県と佐賀県の県境から唐津を望む



−佐賀県に入る「水の流れるままに」−1月18日浜崎町「栄屋」泊
 姪の浜が1月12日、深江が17日と、福岡方面から行乞しつつ旅して来た山頭火は、18日に県界を越えて佐賀県に入った。日記には「福岡佐賀の県界を越えた時は多少の感慨があった、そこには波が寄せてゐた、山から水が流れ落ちてゐた、自然そのものに変りはないが、人心には思ひめぐらすものがある」と記し「落つれば同じ谷川の、水の流れるまゝに流れたまへ、かしこ」とその日の宿「栄屋」(浜崎町)で日記を締めくくっている。

 「行乞記」の一節には、「自戒三章(1.腹をたてないこと 2.嘘を言わないこと 3.物を無駄にしないこと)もなかなか実行できないものであるが、ちっとも実行できないといふことはない、或る時は菩薩、或る時は鬼畜、それが畢竟人間だ」と書いている。この短い一節には、山頭火の人生が凝縮されているような気がする。持戒・破戒・懺悔を果てしなく繰り返す人生でもあったのだ。「濁れる水の流れつつ澄む」という句にも、山頭火を重ねることができる。「山頭火の河はあまりに濁れることが多く、澄みきる前にまた大雨が降りこんだり、時には大洪水となり害をなすことも多かった。」と村上護氏は述べている。この矛盾だらけの行動でありながら、しかし、きらりと真実を観る鋭い観察が人を引きつけるのでもあった。唐津を旅する山頭火の日記を、矛盾に満ちた鋭い観察者の視点から読んでいくと、この県界の谷川の水の描写には、山頭火の深い観察が隠されていはしないだろうか。「落つれば同じ谷川の、水の流れるままに」という記述には、鬼畜として流されながらも、自分をもう一人の覚めた自分がみつめていたのであろうか。


−「松に腰かけて松を観る」虹の松原は美しい−1月19日唐津市「梅屋」泊
虹の松原 二軒茶屋の歌碑
 「松原の茶店はいいね、薬罐からは湯気がふいてゐる、娘さんは裁縫してゐる、松風、波音。・・・・」「虹の松原はさすがに美しいと思った、私は笠をぬいで、鉄鉢をしまって、あちらこちらあるきまはった、そして松−松は梅が孤立的に味はゝれるものに対して群団的に観るべきものだろう−を満喫した。」そして「松に腰かけて松を観る」という句を作っている。この句碑は、虹の松原の二軒茶屋の前の広場に建っている。
 「薬罐・松風・波音」という山頭火の短い表現の中から、あくまでも静かな松原の様子が浮かび上がってくる。言葉を削り取る作業に慣れた俳人のすばらしい表現。
 また、佐用姫に関しては「領巾振山 は見ただけで沢山らしかった、情熱の彼女を想ふ。」とだけ記している。山頭火らしく簡潔な表現だが、そっけない。山頭火にとっては、生身の人間こそ描写の対象であったと思われる。
 昭和7年のこの年に唐津は市政をしいた。山頭火は同宿の鍋屋さんに誘われて市議選挙演説会を聞きにいったりする。


−「唐津は落ち着いた城下町」−1月20日〜21日唐津市「梅屋」泊
 1月19日の唐津行乞は「気分も所得もよかった、しみじみ仏陀の慈蔭を思ふ。」と日記に記している。また、
近松寺の歌碑
近松寺に行き、「巣林子(近松門左衛門)に由緒あることはいふまでもない、・・・・・こぢんまりした気持のよいお庭だった。」と記し「山へ空へ摩訶般若波羅密多心経」という句を作っている。この句碑は近松寺の境内に建っている。この時の山頭火は、「菩薩」そのものであり、穏やかな一日だったことが伺える。
 しかし、翌日の記述には「毎日彼等から幾度か不快を与へられる、恐らくは私も同時に彼等に不快を与へるのだろう−それは何故か−彼等の生活に矛盾があるように、私の生活に矛盾があるからだ、私としては、当面の私としては、供養を受ける資格なくして供養を受ける、−これが第1の矛盾だ!−酒は涙か溜息か、−たしかに溜息だよ。」と酒に溺れる自分の「鬼畜」ぶりを記している。


−「幸薄かった呼子の宿の娘の幸せを祈る」−1月23日呼子町「松浦屋」泊
 呼子の宿のおばあさんが、わざわざ二階の山頭火の部屋まで燠をもってきてくれ話したのが次のような話であった。
 「宿の娘は(おばあさんにとっては孫娘)顔はうつくしいが足が不自由であったため、年頃になっても縁遠かったが、客の朝鮮人の人参売りに誘われて家出してしまったという。おばあさんがしみじみと話す、あなたは方々をおまわりになるから、きっとどこかでおあひになりませう、おあひになったら、よく辛棒するやうに、そしてあまり心配しないがよい、着物などは送ってやる、と伝えてくれといふ、私はこころよく受け合った、そして心から彼女に幸あれと祈った。」
 この話は、よほど山頭火のこころに響いたと思われる。一つのことに、これほど長い叙述はあまりない。山頭火の恵まれない弱い者への思い(それは、山頭火そのものでもあった)がひしひしと伝わってくる。宿のおばあさんの孫娘に対する愛情の深さがさりげない言葉の端々ににじみでて読む者の心を打つ。


−「農漁村の女はよく稼ぐ」−1月25日 佐志 「浜屋」 泊
 「女は、農漁村の女はよく稼ぐ、と今朝はしみじみ思った。朝早く道で出逢ふ女人の群、それはみんな野菜、薪、花、干魚を荷った中年の女達だ。松浦潟−そのよさが今日初めて解った。七ツ釜、立神岩などの奇勝
相賀の松原
もあるそうだが、そんなことはどうでもよい。山路では段々畠がよかった、海岸は波がよかった、岩がよかった。相賀松原もよかった。そこには病院があって下宿が多かった。島はあたゝかだったが、このあたりも、南をうけてあたゝかい。梅は盛り、蒲公英が咲いてゐる、もう豌豆も唐豆も花を咲かせてゐる。」
 ここでも山頭火の力の弱い者に対する温かい視線が見られる。確かに唐津の女達はよく働く、呼子の朝市、あちこちの市、博多に荷をかついで売りに行く女の群れ。私達の周囲でいつでも見られる風景である。そこに山頭火はきちっと目を向けている。 


−「徳須恵といふ地名は意味がありさうだ」−1月26日  相知 「幡夫屋」泊
徳須恵の歌碑

 「折々しぐれるけれど、早く立って唐津に急ぐ、うれしいのだ、書置郵便を受け取るのだから、−しかも受け取ると、気が沈んでくる、−その憂鬱を抑へて行乞する、最初は殆ど所得がなかったが、だんだんよくなった。徳須恵といふ地名は意味がありそうだ、ここの相知(Ochi)もおもしろい 。麦が伸びて雲雀が唄ってゐる、もう春だ。」と明るい山頭火の 弾む気持が伝わってくる。同時に、援助してくれる木村緑平に対するすまなさで気が沈むのであろう。この正直な山頭火の揺れ動く心が人間的と言えば人間的であり、人を引きつける要素なのかも知れない。この部分の文学碑は北波多の岸岳ふるさと館の駐車場に建っている。そして、「ふりかへる領巾振山はしぐれてゐる」という句を残して山頭火は唐津を離れていった。



いかがでしたか。野田旗子先生、ありがとうございました。

唐津の梅屋旅館はつい2年ほど前までやっておられましたが、廃業なさいました。建物は当時の面影が残っていて、なかなか風情があります。いずれ消え行く建物でしょうが、歴史は伝えたいものですね。他の旅館に関してはいつかしっかり調べたいと思っていますが、今のところ、該当の建物を見つけられずにいます。ご存知のかたは教えてください。
 

  それでは今の時期にぴったりな山頭火の句を自筆の短冊でごらんください。



木の芽草の芽あるき続ける
『草木塔』 鉢の子より


また来月おめにかかれればうれしいです。
木の芽時の体調不良にお気をつけて。

(野田旗子先生の『源氏物語と唐津』のページへ)




今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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