#39
平成15年6月 |
このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。
#1 御挨拶
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紫式部 |
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若紫と玉鬘
― 「源氏物語」と唐津 ― |
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17年も前になりますか。用事があっての帰り道、タクシーを待って骨董屋さんの前にたたずんでおりました。ふと見るとショーウインドウにごちゃごちゃと細かいものが並んでいる中に、古いかるたがありました。とても古そうで、重ねておいてある一番上の札の手書きらしい変体かながうつくしいのです。ためつすがめつ眺めると、なんとか私にも読めました。
「祢耳通ひ介る野辺の若草」
(ねにかよひけるのべのわかくさ)
「あれ?」 私の心にムクムクと何かが起こりました。「このかるた、なに?」
小倉百人一首には、こんな歌ありませんでしょ。
「祢耳・・ねに・・・・寝に? 根に?・・・ あ、そうだ、根に通ひける、だ」
記憶を手繰り寄せてエート、エートとうなっていると、脳のどこかの引出しから出てきました。「手に摘みて・・・いつしかも見ん・・紫の・・根に通ひける野辺の若草!」 この歌、知ってる・・・なんだったっけ?タクシーの中でもうんうんうなって、帰りつく頃思い出しました。「若紫だわ!」
部屋に走り込んで、調べて見ました。やっぱり、源氏物語の「若紫」に出てくる歌です。
「手に摘みていつしかも見む紫の根に通ひける野辺の若草」
(光源氏の独詠歌。手に摘んで早く逢いたいものだ、紫草の根に通じたところのある野辺の若草を。紫草がその色から藤壺を暗にさし、それと根がからまりあう関係にある若君を思う。古今集の「紫の一本ゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ思ふ」を念頭においての作か。 岩波新書 新日本古典文学大系 源氏物語一 p182の註より)
私それまで、源氏物語の歌のかるたがあることすら知らなかったから、感激したのです。藤井貞和先生(東大教授)に手紙でお尋ねしましたら、速達で返事が来て、「買いなさい」と。
そのお店に行って、はやる心をおさえてさりげなく、「あのかるた、おいくら?」と聞きました。
店のおじいさんは、(おそらくかるたでなく、普段着の私を)値踏みして、「あ〜、この百人一首ね。そうだね、捨て値でいいよ。半分くらいしか枚数がないから処分しようと思っていたから」
私は黙って支払いました。これ、百人一首じゃないよ、といいませんでした。わたし、だまして買ったわけではないのですよ。ちゃんと調べるまで、ほんとうに源氏物語歌かるたかどうかは自信がなかったのですから。
相当いたんでいた札もありましたが、源氏五十四帖から一首ずつ取って、絵札も字札も54枚ずつそろっていました。本と首っ引きで、全部判読できました。正真正銘、源氏かるたでした。
早速藤井先生にかるたを送って調べてもらいました。 幕末のものだろうということ。
百何十年前のかるたが今私の手もとにある。その不思議に私は打たれていました。私が源氏物語の中の歌をたくさん知っているとお思いですか? とんでもありません。若紫の歌、たった一首だけ知っていました。その歌がたまたま一番上にあったなんて、ほんとに不思議です。若紫が私を呼んだのかしら。多分、唐津の旧家から出たのでしょうが、くずとして処分されずにほんとうに良かった。
私の心にかかる源氏物語は、小学生のころに父の書斎から持ち出してこっそり読んだ「晶子源氏」、また、英語を専門にしてから気になったサイデンステッカーやウェイリーの「The
Tale of Genji」。そして、藤井貞和先生の「源氏物語の始原と現在」ほか多数の論文のあざやかな読み解き! はたまた周辺の、尾崎左永子の「源氏の薫り」なども大好きですし、ハルオ・シラネの「夢の浮橋」や、大野晋・丸谷才一の「光る源氏の物語」などもドキドキしました。
勉強不足で日本の古典を原文では読めませんが、源氏物語に材を取った能の演目にも心を惹かれて、ああ、年を
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鏡山 |
取ったら、こういうものを習いたいとひそかな願望があります。
でも、多分、いつまでたっても、女将稼業の籠の鳥でしょうね。(ため息・・・)
あ。そうだ、このページは、唐津のおみやげ話を書くページでした。前置きが長くなりました。唐津は源氏物語に何一つ関係はなかろうと思っていらっしゃいませんか? ところがあるのです。
今回は、唐津市の鏡山の下に広がる鏡地区の公民館長、野田旗子さんに登場していただき、唐津と源氏物語を語っていただきます。おたのしみください。
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源氏物語と鏡神社
古代の森会館 野田旗子
唐津市の鏡地区は豊かな自然と歴史・文化に恵まれたところとして、昔から都人のあこがれの地であったと言われております。それは、ひとつには大陸との交流の出入り口であったことと、現在と同じく風光明媚な場所であったであろうことの2つが挙げられます。
奈良時代には、太宰府に近かったので、大伴旅人や山上憶良などの当時のエリートの注目を浴び、そこから松浦佐用姫にまつわる7首の歌をはじめとして、30首の歌が万葉集に登場しました。佐用姫の相手の大伴狭手彦が朝鮮半島に出兵したのは537年ですから、万葉集の成立までには200年ほど経っていました。大伴旅人は大伴氏が隆盛をきわめた6世紀中頃のこの悲恋物語に、光をあてたかったと思われています。唐津・東松浦にまつわる30首の歌が万葉集に載ったということは、近代に至るまで大きな効果をもたらしました。
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玉葛 新井勝利画 |
平安時代には「源氏物語」の玉鬘の巻 に松浦の鏡神社が登場します。夕顔は源氏物語に登場する女性の中でも、源氏にとってひときわ印象的な女性として描かれています。その夕顔の忘れ形見の玉鬘は乳母に連れられ、この松浦地方で育ったという設定になっています。
美しく成長した玉鬘に、多くの求婚者が現れます。その中の一人に肥後の国の豪族「太夫の監」が乳母の子供を巻き込んで、強引に求婚してきます。
その太夫の監が寄越した歌
「 君にもし心たがはば松浦なる鏡の神をかけて誓はむ
」
(姫君に対して、もしわたしが心変わりしたならばどんな罰でもうけると、鏡神社の神にかけて誓いましょう)
当時の地方の権力者が力ををかさに迫ってきます。乳母も玉鬘も地方で埋もれるつもりはありません。しかし、権力者の機嫌をそこねてはたいへんなので、乳母は応対に苦慮します。そこで、次のような歌を乳母が返します。
「年を経ていのる心のたがひなば鏡の神をつらしとや見む」
(長年の間、姫君のお幸せをお祈りしてきた、その望みがかなわなかったなら、鏡の神をさぞや恨めしく思うことでしょう)
この歌を聞いて、太夫の監が「お待ちなされ、これはなんと仰せられたか」と迫ったので、乳母の顔色
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恋ひわたる身はそれなれど玉かづら |
が青ざめます。そこで、乳母の娘が「この玉鬘の君は普通と違っておいでになります」と弁解して応対します。
この事件をきっかけにして、玉鬘と乳母たちは京都に向けて脱出を図ります。乳母の次女と長男が協力することになります。次女は姉との別れのつらさを次のように述べています。
「年経つる古里とて、ことに見棄てがたきこともなし、ただ松浦の宮の前の渚と、かの姉おもとの別るるをなむ、かへりみせられて、悲しかりける。」
(長年暮らしたなじみの土地とはいえ特に後ろ髪を引かれるほどのこともないのだが、ただ松浦の宮の前の渚の景色とこの姉とに別れてゆくのだけが、つい振り返ってみずにはいられなくて悲しいことであった。)
ー参考・日本古典文学全集「源氏物語」小学館ー
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いかなる筋を尋ね来つらむ |
この松浦の宮とは鏡神社のことで、その前の海辺の景色と別れるのがつらいと、その美しさを強調しています。現在でも鏡山の上から眺めた海辺の美しさは、NHKの21世紀に残したい景色の全国5位になっています。
さて、このようにして松浦を脱出した一行は京都に行き、無事に源氏に巡り会います。
ところで、紫式部はなぜ、松浦の鏡神社を知っていたのでしょうか。ひとつは、当時の最高のインテリだった紫式部は、当然万葉集を読んでいたと考えられるし、大陸との入り口である松浦地方のことを知っていたと思うことは自然だと思われます。
もうひとつは、「紫式部集」の中に次のような歌があることで、青春時代の紫式部が鏡神社を知っていたことがわかるのです。(岩波新書「紫式部」清水好子著 参照)
筑紫に肥前といふ所より文おこせるを、いとはるかなる所にて見けり。その返りごとに
(父親の転勤で肥前に下った仲のよい人が文を寄越してきた、その文を紫式部は父の任地の越前で見て、その返事に)
18 あひ見むと思ふ心は松浦なる鏡の神や空に見るらむ
(あなたにお逢いしたいと思う私の気持ちは何と言いあらわしてよいか、とても口ではあらわせません。でも、きっと松浦の鏡の神さまが天翔って御照覧なさっていましょう)
肥前という所から寄越した仲のよい人からの手紙の中に、鏡の神という言葉がでていたにちがいありません。紫式部の歌の中にすらすらと鏡の神という言葉が出てきます。清水好子氏は肥前から手紙を寄越した人を「受領の娘で、親戚だった人」だろうと述べています。岡一男氏は「肥前権守の橘為義の娘」(源氏物語の基礎的研究)と延べ、「女性」説が現在、定着しているようですが、「浅からず頼める男」だという説もあります。学者でない私にしてみれば、肥前から文を寄越した人は男性のほうがドラマチックな気がします。
しかし、相手が女性であろうと、男性であろうと、この歌から情熱的な紫式部の姿が浮かびあがってきます。
返し、又の年持て来たり。(友達の返事が次の年届けられた)
19 行きめぐり逢ふを松浦の鏡には誰をかけつつ祈るとか知る
(遠い地を廻り廻って、ふたたび廻り逢うのを待つ私は、松浦の鏡の明神さまに誰に逢いたいとお祈りしているとお思いですか)
この熱烈な歌のやりとりの後、まもなく紫式部は藤原宣孝と結婚するために、越前を離れ京に向かいます。
さて、「紫式部集」の前半の部分に置かれたこの歌が、「源氏物語」の玉鬘の巻に登場しているのはおもしろいことです。肥前から文を寄越した人は、きっと松浦の宮の当たりの景色のよさを詳しく伝えてきたことでしょう。
では、鏡神社は、どんな神社なのでしょうか。現在、一の宮には神功皇后が祭られ、二の宮には藤原広嗣が祭られています。由緒書によれば、750年に宮の原に鏡神社が建てられたとされています。このことには諸説がありますが、源氏物語の頃には確かに、社殿が建てられていたのは事実で、かなり大きな規模の建物が存在したようです。それは海を中心に活躍する松浦党などの豪族の勢力が力をましてきたことと関係があるということです。
ともあれ、経済的にも文化的にも恵まれた景勝の地松浦というイメージは、千年以上も前の昔から存在したと考えてよいのではないでしょうか。
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鏡神社境内の歌碑 |
唐津市鏡神社の境内にある古代の森会館では、歴史と文化に恵まれたこの地をみなさんに知ってもらおうと、平成14年度より、佐用姫と玉鬘を中心に「まつらの姫達の宴」というイベントを実施しています。中島潔展・おひなさま展・かんね劇・まつらの万葉かるた大会・梅まつり・ファッションショーなどです。平成15年度も引き続き実施します。平成16年2月下旬〜3月下旬、ぜひ鏡の古代の森会館へお越しください。
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野田先生、有難うございました。
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土佐光起 源氏香之図 部分 |
今年のおひなさま展には、私も参りました。すてきでしたよ。地元の方々の熱心さが飾り付けに現れていて、心を打たれました。鏡地区の方が唐津地方の万葉集の歌30首をかるたにされて子供たちに教えておられるのにも、心からの敬意を表します。さよひめ様もさぞお喜びでしょう。
では、みなさま、また来月。あなかしこ。
女将御挨拶平成13年5月号にも鏡神社のことを書いています。 |
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今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。 |
洋々閣 女将
大河内はるみ
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