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お知らせ 『古唐津百選』 出光美術館(門司) 2006年3月3日〜5月7日 田中丸と出光 二大コレクションの出会い すばらしい展覧会です。ぜひお出かけを。 |
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高麗娼(こうらいばば)・朝鮮陶工の辿った道 ―古唐津窯跡群の国史跡指定によせて― |
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みなさま、こんにちは。 うれしいことに、古唐津の窯跡が国の史跡に指定されました。これはもともと「肥前陶器窯跡」として、佐賀県杵島郡武内村の小峠窯跡、大谷窯跡、錆谷窯跡、土師場物原山が昭和15年に史跡に指定されていたものに追加として平成17年7月に唐津市北波多(旧・佐賀県東松浦郡北波多村)の窯跡と、唐津市町田の御茶I窯跡が指定されたものです。ここでの肥前陶器は、簡単にいえば、唐津焼のことで、唐津焼は現在の唐津市だけでなく、伊万里、多久、武雄、有田、平戸などの広い地域に分布していました。 今回追加指定を受けた岸岳系のこれら古窯の陶工たちは、日本人だったか、松浦党またはそれ以前の交流の関与による渡来人だったか、その混血または複合集団だったかわかりません。町田の中里家に伝わる文書(明治17年 中里敬宗著)によると、神功皇后が三韓より連れ帰って佐志郷に置かれた新羅、高麗、百済の三人の王子(人質?)のうち、高麗の小次郎官者は陶技に優れ、その遠い子孫が中里家であるとなっています。神功皇后まで遡るかどうかは別として、おそらくだいぶ早い時期からこの地では朝鮮式の窯を築き朝鮮式の焼物を焼いていました。 そして「焼物戦争」といわれた秀吉の文禄・慶長の役が起こり、連行された朝鮮陶工たちが岸岳にも入ってきます。ある時期に、陶工たちは椎の峯(今は伊万里市南波多に入っていますが、北波多の岸岳と近いです)に集められて、中里家、大島家、福本家、小形(後に緒方)家、福島家の五軒の窯元が藩の御用窯として献上品をつくり、また、窯元でない無数の「窯焼き」と言われる人たちが藩のもの以外を焼いていたそうです。その後「椎の峯崩れ」とよばれる事件などがあり、連座しなかった数軒を除いて多くが所払いとなり、他所の地に移って行きました。 前に、渡来の朝鮮陶工たちのことを書きました。その中に有田の百婆仙(深海宗伝の妻)や、三河内の高麗娼がいて、この女棟梁たちは大勢の陶工を束ねてすばらしい焼物を焼き、これら陶郷の礎となりました。 その一人、後に高麗娼とよばれて大いに敬われた「ゑい(L)」という朝鮮女陶工は、朝鮮の熊川(コモガイ)の生まれですが(フザン生まれの説もある)、やきもの戦争で慶長三年(1598)に松浦家によって連行されて平戸へ上陸したうちの一人です(唐津上陸説もあり)。ゑいは、唐津を経て、椎の峯に入り、そこで、おそらく高麗人の血を引く中里茂兵衛と結婚し、茂兵衛の死後息子・茂右エ門を連れて三河内(現在は長崎県佐世保市に入っている)に移って行きました。椎の峯でただ一軒、今も窯の火を守る中里家の十四代陶仙氏によると、中里家の祖が長男の茂一で、次男の茂兵衛がゑいと結婚した人だそうです。この椎の峯からある時期に藩命により唐津城下に移されたのが、現在の唐津市町田の中里太郎右衛門家です。そちらの子孫で郷土史家である中里紀元氏は、椎の峯の中里と三河内の中里の関係ははっきりしてないと書いておられますし、後述の『肥前陶磁史考』には、茂兵衛はおそらく椎の峯の中里家の出であろうとあります。 ゑいと息子・茂右エ衛門は三河内で巨関(こせき、きょかん)(同じくコモガイからきた朝鮮陶工で今村彌次兵衛と名のる)父子と共に平戸焼を大成しました。今村家も二代が椎の峯に勉強に行くなどして、椎の峯と三河内は深い関係があります。磁器が主流になるまでは、三河内でも唐津焼が焼かれていたわけです。 『肥前陶磁史考』*によると、 「ゑい女 性豪健にして頗る陶技に熟し、一子茂右エ門並びに多くの陶人を督勵して、此地陶業の基礎を築きし主脳者であった。寛永六年一種の灰色釉を創製し、同十一年更に研究して、朱泥の逸品を製するに至った。彼老いて益々壮んに、又良く師弟を教養した。衆皆彼を呼ぶに高麗娼(こうらいばば)と称したのである」 と、あります。(*註 『肥前陶磁史考』中島浩氣著 肥前陶磁史考刊行會1936年9月 肥前の窯業史を総合的に扱った内容であるが、遺跡関連としても現在の窯跡研究の原典的な性格を持つ著。現在周知の遺跡となっている窯場の多くは、この書籍の記載が元となっている) 高麗娼は寛文十二年(1672)、百六歳で亡くなり、釜山(かまやま)神社に今も大切に祀られています。(巨関は陶祖神社に祀られています) 高麗娼の末裔は今も三間坂に十五代中里茂右エ門氏、三河内には中里一郎氏ほか数軒の子孫が気品高い平戸焼を制作しておられます。 春は名のみの風の寒い二月のある日、私は高麗娼のあとを慕って、北波多、椎の峯、三河内と、逍遥しました。山の中ですので、リハビリ中の脚では簡単にはいかなかったのですが、なんとか高麗娼がチマの裾をひるがえして通ったかも知れない道を歩くことができました。釜山神社にもおまいりできましたし、数年前の台風で倒れた高麗娼の墓がこのたび子孫の方たちの協力で新しくなっているところへもお参りさせていただきました。 それでは、写真をお楽しみいただければ幸いです。 |
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いかがでしたか。では、折角ですからこの後は古唐津好きの方の資料として加えます。 下記は、「肥前陶器窯跡追加指定および名称変更申請書」を写したものです。(唐津市教育委員会より入手) 1−4までは、細かい番地などですので、書けません。5からは、内容がよくまとまっていてわかりやすいので、古唐津の説明として引用します。 |
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5 指定等の対象の現状及び現在までの調査・保存の経緯 唐津市北波多は旧唐津市と伊万里市の中間に位置し、その位置が東松浦半島の扇の要にあたることから、中世末期には、戦国大名への歩みを始めた波多氏の本拠地として栄え、数多くの遺跡が残っている。 波多氏は、平安時代末期より肥前松浦郡を中心に活動した、嵯峨源氏を称する「松浦党」の一員とされ、南北朝以来しだいに力を貯え、戦国時代には上松浦党の盟主として、一時期壱岐をもその支配下に置くほどの勢いを示した。 波多氏の居城である岸岳城の山麓に分布する窯跡は「岸岳古窯跡」と総称され、北波多村には皿屋窯、皿屋上窯、帆柱窯、飯洞甕上窯・飯洞甕下窯の5窯が確認されている。 肥前陶器(唐津焼)の開窯時期に関しては諸説があるものの、古拙な特徴を持つこれら岸岳古窯跡が草創期の窯として注目され、その製品や釉薬・成形技法・窯詰め手法等の独自性から、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)以前に築かれた、国内では最も古い登窯群であると高く評価されている。 一方、御茶I窯跡が立地する唐津市町田は、かつて唐人町とよばれた現在の唐津市の中心市街地に位置する。宝永4年(1707)4代中里太郎右衛門は、4代大島弥兵衛とともに藩命により唐津の坊主町に御用窯(坊主町御茶碗窯)を築いた。その後、享保19年(1734)11月に5代中里喜平次、5代大島弥吉が藩命により窯を坊主町から本窯のある唐人町に移したとされる。御茶I窯跡は享保19年(1734)から明治4年(1871)まで唐津藩の御用窯として使用され、以降は大正年間まで中里一族により使用されていた。同窯製品は御用窯として使用された期間のものを献上唐津と称し、茶碗、水指、花生、向付等の茶陶や茶碗、大皿、皿、床置等あらゆるものがある。献上唐津には染付磁器風のものも多く雲鶴象嵌の手は代表作品となっている。唐津系陶器の窯として江戸中期〜後期を中心に近代まで操業されたものとして遺存状況も良好で唐津焼の時代性を知る上で大変貴重なものである。 (1)皿屋上窯跡 皿屋上窯は、焼成室を分割する隔壁を持たない無段・単室の窯で、現在までに確認されている肥前古窯跡の中で、この構造をもつものは本窯跡だけである。ここで焼かれた製品は、全て甕・壷・徳利などの叩き成形の貯蔵器であり、岸岳系古唐津窯のなかでも特異な位置を占める。さらにその窯構造・製品とも李朝甕器窯と酷似し、まさしく朝鮮半島の直接的な影響のもとに築かれたことが判る重要な窯と、高く評価されている。窯跡は溜池に接して、その北斜面に築かれており、全長約16.4mをはかる。焼成室の一部は村道により削平されているが、窯尻及び燃焼室は良好に保存されている。調査終了後は、山砂にて埋め戻しを行い保護を図っている。 (2)帆柱窯跡 窯体の勾配角は約21度で、全長は水平距離で約30mを測る。焼成室1室の規模はほぼ2×2mであることから、その数は14室程度になると考えられる。 出土した陶器は、皿・碗・小杯・瓶・杯台などで、藁灰釉製品がその殆どであるが、一部透明釉の物も存在する。窯道具はトチンのほかにハマも出土しており、同じ藁灰釉製品を多く焼成する皿屋窯との相違を示している。確認調査後は山砂により埋め戻し保存し、周囲一帯は文化財敷として佐賀森林管理署より借地している。窯跡周辺は、国有林で良好な自然環境が残る。昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されている。 (3)皿屋窯跡 皿屋窯は全長23.5mの登窯で、10又は11の焼成室を持つ。焼成室の平面プランは、火床境部分がごく僅かに絞られており、胴部の張る形態への萌芽とも考えられる。一方この窯では、釉剥ぎの胎土目積という特異な窯詰方法が採用されており、製品・焼成技術の上でも、様々な特徴を持つ早期古唐津窯の好例である。発掘後は山砂により埋め戻し保存されている。窯跡本体はすでに公有化を行っており、平成11年に北波多村史跡(平成17年1月1日より合併に伴い唐津市史跡)に指定している。 (4)飯洞甕上窯跡 調査の結果、飯洞甕上窯は、焼成室間の段差が無く、割竹形の登窯でも最も古い形態の一つであることが確認されている。本窯で多用される緑透色の土灰釉と透明釉は、その後に肥前西部地域に展開する唐津焼諸窯の主流となる釉薬で、窯構造・製品とも肥前陶器窯に直接繋がる窯跡として、重要な位置を占めている。飯洞甕上窯跡の周囲は北波多村で公有化が完了し、前面に流れる小川とともに、当時の景観が良好に保存されている。昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されている。窯跡周辺は、山林や小川、池など自然環境に恵まれ、遊歩道を完備した「古窯の森公園」として整備されている。 (5)飯洞甕下窯跡 飯洞甕下窯は、全長18.4mをはかる割竹形の登窯で、焚口から窯尻までが完全に残る。岸岳系古唐津窯の中では唯一、窯の上部構造である隔壁が残存しており、肥前系登窯の構造を研究する上で特に重要な遺跡である。またその後の古唐津を特徴付ける、鉄絵装飾の初源的製品が焼かれていることも特筆される。飯洞甕下窯の周囲は、金網のフェンスで囲っている。窯跡は上屋で覆い、残存する上部構造を保護している。昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されている。現在は公有化を行い、周辺は、「古窯の森公園」として整備されている。 (6)御茶I窯跡 御茶I窯跡は、連房式登窯で現在長27.5m、焼成室7+α室が残存している。窯壁面、焚口部分の残りもよく、天井部もほぼ全体が遺存している。焼成室の規模、傾斜等の詳細な調査はなされていないが、胴木間の幅は小さく上部の焼成室幅は大きくなり、末広がりの扇面の形をしている。また、年代幅の中で変化の跡も認められる。大正年間まで中里一族により使用されており、その後も中里一族により保全がなされてきた。平成7年に市史跡に指定されている。 (7)調査歴
(8)刊行書名 (イ)『唐津』水町和三郎・鍋島直紹 編 1963 (ロ)『北波多村帆柱窯跡』肥前地区古窯跡調査報告 第12集 佐賀県立九州陶磁文化館 1995 (ハ)『岸岳古窯跡群』北波多村文化財調査報告書 第4集 2000 (二)『肥前古陶磁窯跡』基礎調査・基本方針策定報告書 第1分冊 佐賀県肥前古陶磁窯跡保存対策連絡会 1999 6 指定対象の将来にわたる保護の計画 史跡指定後は、調査の結果に基つ゛き整備に努め、保護と活用をはかる。 7 指定対象の保護についての関係地方自治体、住民、所有者等の意見の概要 岸岳古窯跡群および御茶I窯跡は、唐津市における歴史・産業遺跡の中でも貴重なものであり、また日本の歴史を正しく理解するうえで重要な遺跡であります。 旧北波多村内に所在する岸岳古窯跡群は、日本最古の登窯群という位置付けだけでは無く、朝鮮半島との技術交流を明確に示す例として、また、御茶I窯跡も献上唐津を産出した唐津藩御用窯の様態を今に伝えるものとして、近世陶磁史・窯業史・美術史を研究するうえでもその学術的価値は非常に高いものがあります。 したがって、唐津市としましては、岸岳古窯跡群および御茶I窯跡が、わが国や唐津市にとって重要な遺跡であるという認識に立ち、今後、唐津市・市教育委員会・地権者の三者間が協力して、この保存に最善の努力を尽くしてまいります。 国史跡指定が実現しました時には、できるだけ速やかに、専門家や地元関係者による『保存整備策定委員会』を組織し、これらの保存・整備に努めてまいります。 8 申請物件の地域について他の法令による規制、開発計画の状況 (1)皿屋上窯跡 特になし (2)帆柱窯跡 佐賀県文化財保護条例による県史跡、 森林法による保安林 (3)皿屋窯跡 唐津市文化財保護条例による市史跡 (4)飯洞甕上窯跡 佐賀県文化財保護条例による県史跡 (5)飯洞甕下窯跡 佐賀県文化財保護条例による県史跡 (6)御茶I窯跡 唐津市文化財保護条例による県史跡、 都市計画法による市街化区域 (第一種住居地域) |
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ご参考になりましたでしょうか。 唐津はその近さゆえに、朝鮮半島とのかかわりが深く、そのえにしは時に悲劇を、時に喜びをもたらしてきました。高麗娼や百婆仙は、ふるさとを離れて、松浦の地に呻吟しながら、清らかな陶磁器を産み続けました。彼女たちがいなかったら、渡来陶工の男たちは、はたしてあれほど結束してがんばれたのでしょうか。 つい先日、唐津でわらび座の公演があり、村田喜代子さんの『龍秘御天歌』が原作の『百婆』というおしばいで、百婆の回想シーンで百婆がコヒャン(故郷)を偲んでアリランを踊るシーンがあり、私はそっと涙しました。この二月は、百婆仙と高麗婆のおふたりに合えたような気がしてうれしかったです。 春浅い釜山神社で、私は高麗娼に手を合わせて、こう言ってきました。「オババさま、スゴハッショスムニダ、カムサハムニダ」。 では皆様、来月、ト マンナヨ。 |
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