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故郷忘じがたく候 ―九州の朝鮮陶工たち―
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このページの8月号に韓国の文(ムン)氏のことを書きました。いろいろな反響がありましたし、私自身、考えることが多々ありました。8月には、長い間物議をかもしていた有田焼の陶祖、李参平の記念碑が文言を変えて完成した
すると頭の中に、『龍秘御天歌』の「百婆」が乗り移ってきて、見るものが皿の図柄の鷺や、石榴や、山川に見えてきました。それらはとても美しく、底に悲しみや「恨」(ハン)を含んで、もやもやと広がります。ちなみに、「百婆」のモデルは、朝鮮陶工、深海宗伝の妻で、何百人もの渡来陶工を束ねた女頭領、「百婆仙」です。この小説には、渡来の陶工たちが、日本に帰化したり、日本人と結婚したりして同化が始まった頃の様子と、歴史上にほとんど名の残らない無数の渡来の女達が、いきいきと窯場で働く様子も書かれています。 それで、今月号では、唐津の郷土史家であり、ご自身も夫婦ともに陶芸家である中里紀元先生のお書きになったものを、お許しを得て転載させていただくことにしました。中里先生は、中里家十一代の天佑の孫にあたられます。先生の夫人は、「あや窯」主、中里文子氏です。ご研究の転載を快くご承知くださった中里先生に感謝申し上げます。 では、ごゆっくりお読みください。 |
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九州の朝鮮陶工たち 中里紀元 (『末盧國』昭和56年2月号、3月号) |
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秀吉の朝鮮出兵は、侵略されるもの、するもの、どちらにも莫大な人命の犠牲を残しただけで何ももたらすことはなかった。ただ、豊臣政権の没落を早めたに過ぎないといわれている。 「請取り申す、鼻数のこと、合せて四百八拾は、たしかに請取り申し候なり。恐々謹言」 慶長の役(朝鮮出兵第二回目)に参加した毛利軍の軍監(目付役)小早川長政が、毛利の指揮官、吉川広家に渡した鼻の請取状である。 文禄の役(朝鮮出兵第一回目)には肥前名護屋へ「首を積みたる舟」がつき、慶長の役になると「首代鼻」として、鼻・耳も送られてきた。そればかりでなく朝鮮の「男女いけ取り、日々参り」と毎日、老幼、男女を問わず歩けるものは、すべて強制連行され、歩けぬものは、その場で殺されている。 日本軍が朝鮮の人々を捕えてくる目的はいろいろあったそうだが、その第一は、大多数の日本の農民が軍夫として朝鮮に渡り、残された田畑が荒れるのを恐れ、その耕作の労働力にあてるためといわれている。
第三は、朝鮮の進んだ文化技術をもつ人を捕え、各大名は自領でその技術者を使役し財貨を貯えようとした。 文禄二年、鍋島加賀守など、朝鮮侵略軍の先兵をつとめる大名へ朝鮮の捕われ人のなかから「細工仕者、縫官、手のきき候女」がいたときは、献上するよう秀吉みずから朱印状を出し、命じている。このため多くの朝鮮陶工たちが、日本へ強制的に連行される原因にもなったといわれている。 X このときの異国の陶工たちの手によって、日本の「やきもの」は画期的な飛躍をみせた。とくに我が国で初めて磁器を焼いた陶工は、鍋島勝茂(佐賀)の家老多久長門守によって捕えられ連れられてきた李三平であることは、あまりにも有名な話である。秀吉の朝鮮出兵は、なにも日本にもたらすことはなかったが、日本の陶磁器の歴史にだけは大きな貢献をしたということで、「やきもの戦争」という異名をつけて呼ばれるほどである。 この朝鮮の陶工たちを連れて来た大名は、どういうわけか九州の大名に多い。その大名と主な陶工たちをあげると次のようになる。
この外、加世田浦にも上陸したものがいるという説もある。 この表からもわかるように、朝鮮の陶工たちは、北九州の西、肥前の国(長崎、佐賀)に定住し、窯を築いたものが多い。 肥前の朝鮮系(古唐津)の窯跡は、いま発見されているものだけでも約百十六カ所を数えるといわれている。 捕われ人となり、強制的に移住させられた朝鮮陶工たちにとって、異国、日本のなかで肥前の地は、他の領国にくらべ、少しは安住の地であったのだろうか。日本へ移住したのち、この異国の陶工たちが、九州各地でどのような苦難の道をたどったかを、次に述べてみたい。(2月号) ∞∞∞∞∞ 九州へ強制的に連行されて来た陶工たちは、多少の差あれ、陶工として、それぞれの藩で、その地位を確立するまで、苦難な歴史を歩んでいる。 この桃山期は、室町期に使用されていた中国の宋、明の青磁、白磁、天目など冷たいまでに整った色や形の茶器を離れ、千利休の侘茶の心にそった「高麗茶碗」が尊ばれるようになった。とくに、そのなかでも「井戸茶碗」がもてはやされたのである。そこで、その技術者「高麗」(朝鮮)陶工を大量に各大名は連行してきたのであるが、はじめから優遇されたものではなかった。
肥前は朝鮮の陶工が最も多く渡来した地方である。現在発見されている朝鮮系窯跡も約百六十カ所も発見されていることは、秀吉の朝鮮出兵時だけでなく、それ以前からの渡来者が、この地方にあった(岸岳系古唐津)ということと秀吉の出兵時に各大名から連行されてきた陶工のなかで、その大名の領国へ連行されずに、名護屋周辺の松浦の地にとどまる陶工もいたと思われる。(筑前の上野系窯、熊本の八代系窯の祖、尊楷は、加藤清正に連れられ唐津の地にあったのを、小倉の領主、細川氏に招かれ、筑前から熊本へと移住している)。
この二氏以外は、鹿児島上陸後あまり年数を置かずに立野辺に、すべて集められた。藩の保護も薄く農業片手間の陶器作りで、細々と暮しているところへ、土地の住民たちが襲い、土足で小屋に入り家屋をこわしたりした。朝鮮の陶工たちは、立野辺の村人たちに乱暴はやめてくれるよう再三、頼んでみたが、聞き入れてくれないので、その一人をなぐってしまった。 その結果が土地のものが、さらに多数、集団で仕返しに来ると聞き陶工たちは、みな苗代川の方へ移り住んでいった。 しかし、苗代川には異国の陶工たちが雨露をさえ、さける小屋もなく木の下に寄って日を送っていたそうである。その姿を見かねた苗代川の農民たちは、食料を与え、仕事を与え、陶工たちも小屋をつくり、農民の家の手間仕事をたより、この地に住みついていった。 この二、三年後、ようやく藩の保護もあり、土地と屋敷を与えられ陶器作りに精を出すようになった。しかし、朝鮮人は薩摩では、他所(日本人)ものとの縁組を禁じられ、名も日本名を禁じ、金宦、大宦、頓宦、勝賢、利訓、可春、龍仙などとつけられ日本人と同化することを許されず、さらに藩主茶屋遊びには呼び寄せられ朝鮮踊りなどみせなければならなかった。 肥前の陶工については、有田焼の李三平は金ケ江参平に、武雄の後藤家信に連行された宗伝は深海宗伝に、唐津焼の祖は寺沢志摩守によって連行され、彦右衛門、弥作、又七の日本名となり、さらに大島、福本、中里など苗字までも名のるほど同化していった。 元禄十年、椎ノ峰(現伊万里市)の焼物師たちは佐賀藩伊万里の商人から金子を借り、その返済が出来ず、唐津
さらに、この事件に掛りあわなかった加平次一家は椎ノ峰の庄屋を命ぜられ、また、享保四年十一月、太郎右衛門、弥次衛は藩より扶持切米を与えられ、唐津の城下坊主町へ呼びよせられ御用焼物師として抱えられ、ある程度、優遇され、同化された。 朝鮮から渡来した陶工たちが異国での取り扱いで肥前と薩摩のとりあつかいが、なぜ、違って来たのか、非常に興味の湧くところで、その歴史的背景を探っていきたいものと思っている。 (3月号) |
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はるかな昔、李三平や百婆仙たちが、こけつまろびつ歩いた土地に、今私達は立っているのですが、わたくしは彼等の苦しみに一度でも思いをはせたことがあっただろうかと、つらく思い返しています。「やきもの戦争」と呼ばれた文禄・慶長の役から400年、名護屋城は眼下に玄海の三角波をみおろして、水平線には壱岐の島山がかすみ、魂魄となった百婆は、この海峡を一ッ飛びに故郷の全羅道に帰ったでしょうか。「アンニョンヒ カシプシオ〜」と、私はひれを振って見送りましょう。 お読みいただいて、ありがとうございました。 |
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