雲の上の人 滝口康彦
大塚清吾
最初の出会い
佐賀の松原に一軒の小さな玲というバーがあった。当時は、たまに東京から戻ると必ず通うところで、和服を着た粋なママと客の洒落た会話が続く店であった。ひさびさにドアを開けて入っていくと、十人も座れば満員といったそのカウンターの入り口隅に、両手を突いて背中を丸めた小柄な、しかし眼光の鋭い人物が一人でグラスを前に静かに座っていた。
カウンター奥の椅子に座った私と話していたママが「あの人は小説家の滝口先生よ」と小声で教えてくれた。客はその時滝口氏と私の二人だけだったと記憶している。「どうしてここに」と思わずつぶやいてしまった。とっさの出来事だったこともあってにわかには信じ難く、同姓同名では、と思ったものの、「清吾ちゃん、滝口先生を紹介するから」と、ママに言われるままに挨拶を交わしたのであった。しばらくたって本物であるということが分かっても、「どうしてここに」という思いは消えることがなかった。
辞めていたとはいえ、松竹という演劇の世界に三年ほど身を置いたことのある私にとって、芝居の原作者は「雲の上の人」という大変な存在なのである。実物の滝口氏と出会ったその頃の私は、沖縄に通いつめ、伝統工芸に打ち込んでいる職人たちを一人一人探しながらの取材をつづけていた。芝居の世界から離れて幾年か経っていても、東京へもどると歌舞伎座に通い、先輩や友人たちと一時を過ごしていた。「どうして佐賀の小さなバーに、しかもそこの片隅に・・・」という思いになるのは当たり前のことだったのである。
「松竹にいるとき、先生の『上意打ち』の舞台稽古を見たことがあります。新国劇の人たちの稽古は怖いくらいの真剣なものでした」 とっさに、このようなことを手短にいった覚えがある。滝口氏は「そうね」と鋭い目付きを一瞬和らげ、しかしそれ以上の会話は入ってきた客に遮られ、続かなかった。このとき以来、佐賀にも桧舞台に掛かる芝居の原作者がいるのだと、故郷に誇りを持てるきっかけとなった出来事であった。
当時の佐賀で歌舞伎の話や、新派や新国劇の芝居の素晴しさ、また、伝統工芸の大切さのようなことを話す私には、「古臭いことをいう若者」というレッテルが貼られていたことを思い出す。少しでも耳を貸してくれる人もなく、そのような状況の中であったから、余計に滝口氏の存在が身近に、また輝いて見えたのかも知れない。
上意打ちの舞台稽古
今でも鮮烈に残っている新国劇による『上意打ち』のすざましい舞台稽古は、昭和四二年十月二日の初日を明日にひかえた、深夜の新橋演舞場の舞台で、であった。当代きっての名優、島田正吾と辰己柳太郎の激しい怒鳴りあいの中で行われていくのだが、なかなか前へは進まず、少し進行したかと思うと辰巳の罵声が若手の役者に矢のように飛ぶ。「バカヤロー」「やってられるか」という怒鳴り声が飛び交い、セリフの言い回しや所作、立ち回りなどについての島田と辰巳の掴み掛からんばかりの、喧嘩そのものの状況がつづく。刀と刀の斬り合いの場面では、意見の違いで延々と島田と辰己、それに殺陣師の第一人者である伊吹總太郎との真剣な怒鳴りあいがつづく。刀を振りかざし、一刀のもと切りはらう場面においても、伊吹が激しく自らの意見を言うと、辰巳もそれに勝る激しさで「刀は振り回さずに、確実に相手をやり返すものだ」鬼のような形相でどなり返す。島田はだまって見つめている。そのうち伊吹は、勝手にしろという態度で舞台の袖へと姿を消す。
辰巳一人の怒鳴り声が客のいない劇場を支配する。島田が辰巳になにか一言いうなり、舞台から客席に飛び降りて、通路でカメラを構えている私の横を早足でドアの外へと消えていく。その時の私は、たった今、武士同士の真剣勝負で相手を斬ってきた、武士の激しい息づかいと汗の匂いを島田に感じた。やむことのない辰巳の怒鳴り声。中堅どころの緒形拳、大山克己たちはじめ、まわりの役者たちは舞台の上で直立不動の姿で、まるで金縛りにでもあったような格好で配置の場所に突っ立っている。ピーンと張り詰めた空気感。しばらく間があって、島田、伊吹両者が舞台にもどり、再び稽古が進行していく。激しい集団の動き。幾人もの袴の衣擦れの音。舞台の板を叩きつけるような素足の音。明快で活きのいい口調のセリフ。新国劇という同志的な集団の、魂と魂とがぶつかり合い磨かれていくなかで作り上げられていく芝居。まるで刀の真剣で勝負を目指す道場での、緊張の極限の空間に自分も身を置いていることを実感させられた舞台稽古であった。いまだに『上意打ち』という題名を聞いただけでもその時のことが鮮明に思い出されてくるのである。
滝口ファン
滝口氏とのそのような出会いがあってかなりの月日が経ち、佐賀という故郷を観察するようになった私の眼に、「雲の上の人」滝口康彦という一流の作家に正当な評価、あつかいが地元でなされてないことに気が付き、どうして、という気持ちで私なりにそのことを調べさせていただいた。東京にも住居のある私は、いつも渋谷の宇田川町にある「佐賀」という小料理店に通っている。主人の片渕禎典氏は天然物、無添加、無農薬を昔から唱えてきた頑固な料理人である。出身は私の近所の鹿島市浜町。奥さんの幸子さんは近くの七浦出身で、今や渋谷の名店になっているところでもある。堅物ではあっても主人の気さくな人柄も相まって、客が多い店ではある。放送、出版、広告、芸能などの関係者や商社マンといった人たちが多いのだが、そこのカウンターに座っていて、幾人もの人から滝口氏について話しかけられた。「佐賀といえば滝口康彦という作家がおられますね。私は全部読みました」 「切腹の小説も読み映画も見たのですが、武士の悲哀のような、他の作家の書いたものとは切り口が違いますよね。私は好きでした」 このようなことを一杯やりながら、見ず知らずの初めて会った人たちから聞くと、佐賀も捨てたものではないという気分になってくる。それより故郷を誉められているような気持ちになって、よけい酒が旨くなり、気にしながらも二日酔いの道をまっしぐらということになる。しかし、このような会話は、愛する故郷佐賀では皆無に近い。どうしてなのか答えはいまだ分からず、ただ一つ言えることは佐賀自慢の『葉隠』の存在である。滝口氏も『葉隠』から題材をとられ、武士道作家とも言われてきてはいるが、氏の描いてきた武士の世界は、人間としての心の中の悲哀、むなしさのようなところであって、けっして「死ぬことと見つけたり」ではないところにあったと私は思っている。その『葉隠』が故郷佐賀にはどんよりと空を覆うがごとくあって、その結果「文学」というものの種の発芽を妨げてきているのでは、ということである。県別の「ふるさとが生んだ文学者、作家」を見ても、その数が極端に少ないのはそのようなところに原因の一端があるのかもしれないと思っている。
直木賞候補
六度も直木賞候補になりながら、それが叶わなかった理由の大きな要因は、地方に住んでいたから、しかも佐賀にという、今では信じられないようなことであった。しかし私も「佐賀は本の購入が日本の中で一番低いんだよ」と、東京の大手出版社の人からいわれたことを思い出す。佐賀にこだわり、住みつづけて創作活動をされてきた滝口氏の心中はいかばかりであったろうと思うと、他人事として済ますわけにはいかなくなってくる。
ならば今こそ、という気持ちで滝口氏の顕彰展を企画し、松竹時代のフイルムを探したのである。様々な資料の奥から「昭和四十二年十月 大塚 上意打ち 新橋演舞場」とフイルムケースに書かれたものが五本見つかり、それをもって薄氷を踏む思いで滝口家へ伺い、顕彰展の承諾をえたようなわけである。長年お会いしていなかった滝口氏から「清吾ちゃん」と玄関先で呼んでいただいた。私の様な者の名前を覚えていてくださったのである。これで展覧会は成功すると、確信のようなものが胸のうちに芽生えた。
司馬遼太郎氏からの手紙
承諾をいただき、幾日か後に膨大な資料を受け取りに伺った。端正な文字で書かれた生原稿や台本類、新聞の切り抜き、書簡類など、几帳面に封筒に整理されていた資料は、私にとって宝の山である。その中から一通の手紙を発見した時には、ひさびさに心のときめきを覚えた。作家の司馬遼太郎氏からの手紙であった。原稿用紙二枚に書かれた独特な文字はまぎれもなく見覚えのある司馬氏のもので内容に目を通すと、滝口氏に対しての司馬氏の温かい心遣いが伝わってくるものであった。
「・・・御作はいつも、感銘しながら拝読しております。以前の直木賞候補作も佳く、あのときは本当惜しうございました。しかし、直木賞、芥川賞など、結局俗な意味以外にあまり、どうということもありませんので、ぜひぜひ御清硯のみを祈りあげます。小生も地方に住んでおりまして、滝口さんもそうですから、ひとごとならず、そのように思います。・・・
このように、司馬氏の手紙にもあるように、地方に住む重いハンディを力の限り引きずりながら、執筆活動に全力をあげてこられたのである。故郷の助けもなく、その重いハンディによって倒れられたのではないかと考えるのは、私だけの推測であろうか。
雲の上の人の言葉
滝口氏の逝去を知ったのは、中国国宝展の仕事で滞在していた北京に於いてであった。今年の六月十二日のことである。国宝展の仕事を途中で抜け、一緒にタクラマカン砂漠へ引率していく佐賀の「敦煌学研究会」の人たちが北京に着き、会うなり新聞を手に「滝口先生が亡くなられました」との一報であった。しばらく言葉が出なかったのだが、脳裏には顕彰展の時のことが映像として次々と映し出されていた。顕彰展会場に書斎の再現をおこなうために自宅の書斎から机などを運び出している時、「清吾さん、こりゃおおごと」と目を丸くされて言われた言葉が耳の奥から甦ってきていた。それは驚きの中にも嬉しそうな表情で言われた、信頼のこもった「雲の上の人」の言葉であった。
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