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唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶




#41
 平成15年8




夕顔の咲く頃


―満島の盆―

この夏の暑しと人の嘆くなれば汲まむかな死に水といふせつなき水を
                                     藤井常世 『九十九夜』




 みなさま、いかがお過しでしょうか。またお盆が巡って来ました。
 昨年の8月号には「愛陶の人・古舘九一」を書きました。それから半年の間に、インターネットの情報伝達のすごさは、『芸術新潮』さんを洋々閣に呼び寄せてくれました。その4月号に古唐津の特集が組まれ、「古舘九一」の記事も載ったのです。知っていただきたいという思いでホームページにいろいろと書きますが、インターネットってほんとうに伝えてくれるのですね。うれしかったです。

 さて、今回も慰霊の意味を持つことを書いてみたいと思います。シンキクサイことがおきらいなかたは、パスしてくださいね。

 洋々閣のある東唐津は以前は「満島(みつしま)村」という地名でした。大正13年に唐津町と合併したのですが、松浦川の河口にあって、石炭積み出し、砂の採取で大いに栄えたところです。独特の伝統も持っていますので、満島のお盆のことをご紹介しましょう。
 
 ここ唐津地方ではお盆は8月の13日から15日までです。満島では13日の夜に、迎え提灯に灯をともして、虹の松原の中にある共同墓地までご先祖様を迎えに行きます。私の実家では門前で迎え火を焚いていましたから、お墓に迎えに行くのがとても不思議な気がしました。すぐそばに立派な墓地を持つ村だからできることでしょうね。ご先祖様は提灯の灯に乗って帰宅なさるらしく、灯が消えないようにそろそろ歩いて自宅までおつれして、仏壇のお灯明に火を移し、「お帰りなさいませ」と拝みます。

 窓辺には家紋の入った大きい提灯に灯をともし、13日と14日は赤い家紋を外へ向けて、ご先祖様のお帰りを喜びます。15日にはお別れを悲しんで黒の家紋を外へ向けます。
 
盆くどき熱演中(昭和30年頃か?)
初盆のお家では、その提灯の上にまるで七夕飾りのような紙のきれいな飾りをかけます。
 
 15日にはまた、お墓へお送りするかというと、これが不思議なことに、浜で精霊流しをするのです。
初盆の家では精霊船を仕立てて、海へ流します。花火をポンポンあげてゆるやかに暗い海面を流れていく提灯の灯を見送ります。

 小学校の校庭では地区を上げての盆踊りがあり、満島には独特の盆口説き(くどき)がありました。今でも続いていますが、昔の口説きは失われ、地元の人の新しい作詞で歌われています。
 満島口説き 作詞:阿賀伸一

 あーやれ嬉しや、音頭をもろた
 あーやれ嬉しや、音頭をもろた
   もろたところで輪になっておくれ
 (アラ、ヤットセー ヤーットセー 
   アラ ショッショイ)
 揃た踊り子は、輪になって踊ろう
 (アラ ショッショイ)

  以下はこちらをごらんください。


 盆口説きは昔はあちこちにあったそうです。番傘を拡声器がわりにしてダミ声で語る老人が各地にいたようです。口説きは「おつや口説」、「綿屋七佐」、「那須与一」、「石動丸」、「鶴松口説」、「松浦佐用姫」など、ひとつの物語を長々と歌い続けるもので、拍子を合わせて朝まで踊ったりしたようです。いまでは全国的に減ってきたのではないでしょうか。満島の旧来の盆口説きは少し下世話な文句があったりしたようですが、それだけ人気の高いものだったそうです。庶民の夏の楽しみとして、また若い男女の出合いの場として、さぞ賑わったことだろうと思います。
 初盆を迎える家には盆踊りの一団が繰り込んで供養の為に踊っていました。

 昭和24年のお盆にはその前年の8月8日に急逝した大河内ミツヨ(主人の母)の初盆のために大勢の人が洋々閣の庭で踊ってくださったそうです。残念ながらそのときの写真はありません。その頃こどもだった方々の思い出に残る盛大な盆踊りだったようです。洋々閣の松たちが盆踊りの輪で囲まれたのは、その時が最後で、その後のいくつかの私共の初盆には踊りはございませんでした。
 
母・大河内ミツヨ

 母ミツヨは主人(明彦)が14才のときに3日ほど不調を訴えただけで、あまりにも早く逝きました。享年47才。5男1女を産んで、まだ美しさの衰えない女の盛りに散りました。その日、洋々閣の垣に夕顔が大きくひらいて、明彦はふしぎな思いにつつまれたそうです。ちょうどその頃、中河与一の名作『天の夕顔』の映画が封切られて、母を喪った少年はひそかにその映画を見に行ったとか。
 以来、悲しみを永遠に胸の奥に閉じ込めた少年は夕顔を「不吉の花、凶兆の花」として忌むようになります。50年以上過ぎてもなお、夕顔は洋々閣では「ご法度」の花。悲しいこと・・・。わたくしには「天上の花」だと思えるのですが・・・。
 夕顔の咲く頃になると、わたくしはあちこちの路地をさまよいます。めっきり減りましたね。なかなかみつかりません。たまに見つけると、魅入られて動けなくなります。夕顔も、カラスウリも、どうしてもこの世の花と思えないほど妖しく美しいものです。ちょうどお盆のころに咲くせいなのでしょうか。今年もまためぐりあえるでしょうか。

      
新しく寄進された地蔵堂
 8月24日には安養寺(浄土宗)の地蔵盆が行われます。戦争中一時中断されたそうですが、また復活して、地元の婦人たちの地蔵講のご詠歌の会が中心になって子供たちが集まってお堂でお勤めをし、小さなろうそくをたくさん灯して、ご詠歌に合わせて踊るのです。 「地蔵和讃」といわれるご詠歌は全国的に歌われていますので、ご存じのかたも多いでしょう。 「これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる 賽の河原のものがたり」で始まる悲しい歌です。(その続きはこちらからどうぞ)
 このお盆に出かけると、こどもたちがおばあちゃんの頼みを聞いて、踊りを覚えて一緒に踊っているのがうれしいです。小さな地域なのに、二つの伝統的な盆踊りを保存しているこの満島を、誇りに思います。


 それではどうぞお大事に酷暑を乗りきってくださいませ。ふるさとがないかたは、洋々閣をご自分の田舎の家だとおぼしめして、どうぞ満島の小さなお盆にお帰りください。 なまんだぶ。

 

 
それでもわたくしは今、たった一つ、天の国にいるあの人に、消息する方法を見つけたのです。それはすぐ消える、あの夏の夜の花火をあの人のいる天に向かって打ちあげることです。悲しい夜夜、わたくしは空を見ながら、ふとそれを思いついたのです。
 好きだったのか、嫌いだったのか、今は聞くすべもないけれど、若々しい手に、あの人がかつて摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向かって華やかな花火として打ちあげたいのです。
 わたくしは一夜、狂気したわたくしの喜びのために、花火師と一緒に野原の中に立ったのです。やがて、それは耳を聾する炸裂の音と一緒に、夢のようにはかなく、一瞬の花を開いて、空の中に消えてゆきました。
 しかしそれが消えた時、わたくしは天にいるあの人が、それを摘みとったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとするのです。  (中河与一 『天の夕顔』より)






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ありがとうございました。
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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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