#14 平成13年 5月  


藤の季節に  春日大社宮司様と鏡神社
 
 あれは何年前のことだったでしょうか。
 奈良の春日大社の宮司、葉室頼昭様が、唐津の鏡神社に参詣したいとお見えになったことがございました。まことに畏れ多くもったいないことでございました。
 藤の季節に、藤をそのシンボルとする春日大社のお話を、今月は申し上げましょう。

 まず、先代の宮司様、故・花山院親忠様のお話から始めねばなりません。
 このかたは平安時代のお公家様藤原家の直系の子孫でいらっしゃいまして、戦前は華族でいらっしゃいました。
 春日大社は藤原家の氏神様で代々ご子孫が宮司をつとめられるのだそうです。花山院宮司様は宮司に上がられる前は、佐賀で教師をしておられました。特に古代史についてのご功績は大きなものでいらっしゃるそうで、教え子もたくさんおられることと思います。
 私の親しい横尾文子先生(佐賀女子短大教授)も教え子のお一人で、宮司様が亡くなられるまでずっと親しく教えを受けていらっしゃいました。その御縁で私も奈良へ伺い、十二月十五日の「若宮おん祭り」に参列させていただきました。もう十年も前のことでございます。

 宮司様がお側近くに座れとおっしゃる。固辞すべきことに気がつかず、良いお席をいただいて喜んだまでは良かったのですが、観客の善男善女が私を藤原家末裔のおひいさまとでも思われたか、私にまで拝礼して通られるものですから、庶民の出の私には冷や汗もので、生きた心地もしなかったのでございます。それでもせいぜい優雅にお辞儀を返して、なんとかしのぎましたが、くたくたに疲れました。今となっては、二度とはない貴重な体験だったと、ありがたく思い出します。
それから二度宮司様は洋々閣へお越しくださいました。また、名護屋城博物館での催し物で、春日大社の禰宜さまたちの雅楽の方々がいらっしゃったりいたしました。
 花山院宮司様がお亡くなりになったとき、文子先生はお父様を失われたように嘆かれました。

 そのあとに春日の宮司に上がられたのは、藤原家の子孫葉室家の当主、頼昭様で、当時すでに六十代の高名な形成外科医でいらっしゃいましたのを、神道の高い位に上がられてのご着任でございましたようです。
さて、この葉室宮司さまも、実は佐賀にゆかりの方でいらっしゃいました。ご尊父さまが佐賀蓮池の鍋島家から葉室家に婿入りされたかたで、「父方は武家、母方は公家」というかたでございます。

 私達には、公家とか武家とか、はるか大昔の歴史としか思えなかったのですが、現にまだ、日本の文化の中には、そういうことが脈々と続いていることを知って、驚きを覚えたものです。

 この葉室宮司様が、「ヒロツグさんが、唐津の鏡神社に祀ってあるそうだから、お参りに行きたい」と、おっしゃいましたそうで、私はびっくりいたしました。まるで、大叔父様のお墓参りくらいに聞こえますが、1200年前の藤原広嗣の乱のヒロツグさんだったのです。
 広嗣の乱のことを、文子先生の「新・肥前風土記」から抜粋いたします。



 藤原広嗣が大宰少弐として左遷されたのは天平十年十二月であった。官職こそ少弐という次官の第二席であったが、長官の帥(そつ)は欠員で、次官第一席は赴任していなかったため、九州全土の統率権を広嗣は我物にすることができたようである。九州に赴任して二年もたとうとしたころ広嗣は、近年の政治の乱れを指摘し、君側の奸玄肪と真備を除くよう上奏している。が、上奏棄却。広嗣はすぐさま、天平十二年(740)九月三日、大宰府管内に駐留する諸国の軍団を徴発し、決起。十月九日、大野東人(おおのあずまひと)率いる官軍と板櫃川(いたびつがわ)(小倉市到津)をはさんで対峙。広嗣の乱が都へ飛び火することを恐れて、聖武天皇は東国へ一時身をうつすほどであり、壬申の乱以来の古代国家をゆるがす戦乱となった。二ヵ月余の戦いの末、広嗣は敗走し、肥前値嘉島(ちかのしま)で捕らえられる。そうして、現在の大村神社(佐賀県浜玉町)あたりで処刑されたと伝えられている。


 さて、その二ノ宮に広嗣が祀られている鏡神社ですが、肥前風土記に現れる古いおやしろです。これも、文子先生の「新・肥前風土記」から、説明をお借りします。



 鏡神社は鏡山の西麓にある。おそらくこの場所は、松浦郡の郡家か、郡司の館のあったところであろう。一ノ宮は祭神が神功皇后となっている。松浦は大陸進出の前進基地としての役割があったため、鏡神社創立の背景もこのことを抜きにしては考えられない。一ノ宮は火災で焼失していたが、最近再建されている。その折、地下遺構が発掘調査され、平安時代中ごろの神殿の遺構が発見された。礎石の建物群で、神殿遺構の発掘例としてはわが国最古であるという。東向きの二ノ宮は江戸中期の再建であるが、黒光りする拝殿の床が歴史を物語ってくれる。二ノ宮は肥前国司に左遷されてきた吉備真備によって天平勝宝二年(750)に創建されている。広嗣処刑から十年後のことである。玄肪は広嗣処刑五年後にして、筑紫観世音寺に左遷され翌年には没していた。 都では、広嗣の霊が怨みとなって玄肪を死に到らしめたとの噂が飛びかっていた。
 広嗣は少年時代から、権力が右へ左へと揺れる中を掻き分け乗りきってゆく一門の大人たちばかりを見てきている。旅人や憶良のような、宇宙の根源を虚無とする思想を体現したような大人に出会って感化を受けていたとしたら、この地でこそもっと別の人生を歩むきっかけを掴めたのではないかと思われもする。私達が鏡神社を訪れた時、折しも一ノ宮の落成祭礼の準備中であった。六十すぎの方々であろうか、「あんしゃ、今晩、一杯やらんけ」といったりしながら、藁荷を解いておられた。祭礼に携わる人々の静かなざわめきが、周囲の森に溶けこんでいく。広嗣の怨霊は千年以上にも及ぶこの地の人々の弔いによって慰められ、かの広嗣はこの地の人々に潤いをもたらし、祭祀が双方を和やかにあらしめているようでもあった。



 というような訳で、春日大社の葉室宮司さまが、わざわざ鏡神社にお参りくださったのです。
 私は折角の宮司様の来唐でしたから、急いで呼びかけて、お参りのあと、高取邸をお借りして50人ほどで、ご講話をうかがいました。第一級の科学者である葉室宮司様が、いのちの尊さとその不思議について、諄諄とおときになり、先祖を敬うことの大切さをお話くださいました。日本人としての私達の心にしみいるようなおはなしでした。
 それ以来、鏡神社は私にとって、大切な所になりました。


 紫式部も源氏物語の中に鏡神社を登場させています。私も玉鬘になったつもりで、いろいろのお願いごとを、鏡の神に願掛けしています。何をたのんだかって?それは、もちろん、内緒です。人にしゃべったら、願いはかなわないのですから。


鏡神社の裏手には、「しまさま」と呼ばれて、唐津城初代の藩主寺沢志摩守のお墓が地区の人々に立派に守られています。この地の人々の崇敬の念の篤さを感じます。

 それでは、みなさま、どうぞご先祖様を敬いつつ、お仕合せにおすごしくださいませ。
 また来月も、このページにお越し下さいますよう。
  

洋々閣 女将
   大河内はるみ


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