北原白秋と唐津小唄              


          横尾文子
佐賀女子短大教授
updated: 1 June, 2000
 この文章は、佐賀新聞に平成7、8年に連載された『日本の心  白秋まんだら』より
〜73〜、〜74〜を今回洋々閣のホームページのために加筆していただいたものです。
 

        唐津小唄
                                  北原白秋 作詞
                                  町田嘉章 作曲
    一、 唐津松浦潟 さざ波千鳥 ホノトネ
       ちりり鳴きます 日の暮れは
       唐津唐船 とんとの昔
       今はおいさの山ばやし チャントナ チャントナ

    二、 博多出てから 小富士も晴れて ホノトネ
       いつか箱島 虹ノ浜   
       
    三、 夏の夜明けに 見せたいものは ホノトネ
       虹の松原 虹ノ浜

    四、 鏡山から 出た月さえも ホノトネ
       なにか泣きたい 影がある          
 (洋々閣 箸袋より)

 白秋の民謡のことまで研究の手が回らないでいた十年ほど前、唐津の洋々閣に泊まりましたら、箸袋の裏側にこの歌詞が印刷してありました。 そのとき、初めて、この唄のことを知りました。 白秋の民謡は、大正11年刊の『日本の笛』に、“民謡は常に民衆の薬味であり、酒であり、情愛であり、涙であり、笑であり、血であり、塩でなければならない、畢竟するに民衆そのものの芸術であらねばならない”と信条をのべて、380扁を収録していますが、唐津のものはその後のものです。
 所望して女将さんに歌っていただきましたら、涼やかなお声ですので聞きほれるばかりで(女将註:これはお世辞です。読者のかたは本気にしないでください。)、節回しを覚えるには到りませんでした。

 唐津の地名や故事をふんだんに歌いこんだ「唐津小唄」は四十二章から成り、「唐津唐船とんとの昔...」以下は各章に繰り返し歌われます。 ここに引用した文言は白秋全集からではなく、今も洋々閣で使われている箸袋のとおりに記しました。 改行や句読点なし、本来の八番が三番に、十三番が四番に繰り上げられているのも箸袋のままですが、これだったら覚えられそうです。

 民謡は歌われてこその生命です。 そもそも<民謡>という語は、フォークソングの翻訳語で明治以降に用いられています。 それまでは<俚謡><俗謡><鄙唄(ひなうた)><国ぶり>などと称されてきました。

「唐津小唄」を作曲した町田嘉章は、白秋とコンビで多くの創作民謡を残しました。 町田の作曲は優れているとの評判ですが、それは私財を投じてまで伝承民謡の収集を行い、各地域の民衆のリズムを我が身内に蓄えていたからなのかもしれません。
 昭和五年五月に制作されていますが、歴史の中に埋没させ博物館送りにするには、まことに惜しい作品だと思われます。

       松浦潟 新曲

    一、 松浦潟、誰を待つ身か、忍ぶ身か、
        何に領巾(ひれ)ふる、佐用姫か、
            わたしゃチラリと一と目でも、
            虹の松原、たよたよと、
            エエコノ、わたした橋ぢやえ。

    二、 舞鶴の、羽に身を借る、夏の空、
        雲の浮岳(うきだけ)、松浦川、
            わたしゃチラリと一と目でも、
            波の高島、末かけて、
            エエコノ、涼しい晴ぢやえ。

    三、 玄海の、島は烏帽子(ゑぼし)に、沖の島、
        鯨潮ふく、小川島、
            わたしゃチラリと一と目でも、
            せめて姫島、小呂(をろ)の島、
            エエコノ、夜あけの霧ぢやえ。

    四、 七つ釜、岩は六角、玄武岩(いは)、
        右は立神、潮の花、
            わたしゃチラリと一と目でも、
            股でのぞいてはらはらと、
            エエコノ、呼子の沖ぢやえ。

    五、 つはものの、夢も名護屋の、麦の秋、
        帆かけた船か、遠凪(とほなぎ)か、
            わたしゃチラリと一と目でも、
            兎()にも、松風、さわさわと、
            エエコノ、鳴らした城ぢやえ。    
   (昭和5年5月)

 洋々閣の女将さんから聞くところによると、「昔は松浦潟と名づけられたそろいの浴衣を着て、町中で踊っていました。 松林の図柄で、うちにまだ何枚か残っています。 〈松浦潟〉と〈唐津小唄〉、作詞作曲もですが、踊りも有名な先生が振り付けられたように聞いています....」
 二つの唄はともに、白秋作詞、町田嘉章作曲、振り付けは花柳寿徳氏です。 
 白秋は昭和5年の来唐の折には、呼子で捕鯨業についていた山下家に泊まり、短歌七首を残しています。
  麦黄ばむ名護屋の城の跡どころ松蝉がなきて油蝉はまだ
  韓(から)の空の見はらしどころここにして太閤はありき海山の上に
  麦の秋に白帆見わたす山幾重君が館(やかた)は伊達の陣跡(山下善敏君の山荘にて)
  蒼海(あをうみ)の鯨の蕪骨(ぶこつ)醸()み酒のしぼりの粕に浸()でし嘉()しとす

 最後の短歌は、鯨の軟骨を粕漬けにした松浦漬けのことです。

 昭和三十年代まで、唐津地方で盛んに歌われ踊られていたという「松浦潟」、「唐津小唄」、一度拝見できたらと思います。 (平成12年5月 加筆)     唐津小唄・松浦潟の歌詞
   
御文章を頂戴いたしました横尾文子先生に厚く御礼申し上げます。
なお、文中にあります「唐津小唄」と「松浦潟」のレコードを探しています。 「唐津小唄」のほうは再録された青木光一の歌っているものは所持していますが、 昭和5年に出たものが見つかることを願っています。 「松浦潟」のほうは、レコード、または、三味線でひけるかたをご存じでしたら、お知らせください。 また、この二つの踊りの振り付けを覚えていらっしゃるかたも探しています。消えてしまわないうちに保存したいと思っています。

2002・4・30追記:おかげさまで、このたび「松浦潟」を復元いたしました。
そのいきさつは、平成14年5月の女将ご挨拶に詳しく書いております。後日談は平成14年9月のご挨拶をどうぞ。                                                                    洋々閣 女将
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