#238
令和8年1月1日



父が持ってた小さな木彫りの馬

このページは女将が唐津のお土産話やとりとめもないおしゃべりをさせていただくページです。他の方の参加も歓迎です。バックナンバーもごらんください。
(2019年より、寄る年波で、年に数回の更新になりました。 取材や原稿、写真などを引き受けてくださるかたがあれば、いつでも更新いたします。お申し出をお待ちします。)
 
 明けましておめでとうございます。
おすこやかに丙午の年をお迎えになりましたか?
私の亡き父は丙午の生まれでした。生きていれば120才になるのですね。30年前に90歳を目前にして急逝しました。「父さんは丙午のうまれだぞ」と時々威張っていました。ですから小さい時には、丙午は特別にえらいのだと思いこんでいました。あとから、あれあれ、へんね、ちがってるみたい、と分かりましたが。
なんてことないことでも、自分でいいことのように云うと、周りもああそうか、と見なおしてくれるんじゃないでしょうか。ほら、江戸時代に平賀源内とかいうおじさまが、閑古鳥の鳴くウナギ屋の表に「本日土用ウマの日」と書いたら、ぞろぞろお客が入ったとか。え?ウマじゃなくて、ウシでした?あらごめんなさい。今年だけ、午じゃだめ?せっかく60年ぶりに丙午さんが来てくれたんですもの。ウナギくらい御馳走しましょうよ。 私は申年ですが、なんの申か、存じません。いつも木から落ちてるサルです。だから、威張れません。残念です。

 このご挨拶のページもここ何年か、お茶をにごすことばかりです。今年も、昨年の「大事件」を二つだけ書いてごまかそうと思います。広い心でお許しください。なんせ、トシがねえ。目もかすむし、指が動かず入力に時間がかかる。パソコンの操作を忘れて、あれ、どうやるんだっけ。あ~あ。

 昨年、令和7年2025年にはまず2月に主人が庭で転んで骨折をしました。満月の日で夜9時過ぎに庭に出たようです。ちょうど月を見に庭に出ておられた宿泊のご夫婦がお部屋に戻りかけられたのを追いかけておしゃべりしようと思ったらしく、走ったそうですが、石につまずき、横の岩に倒れて、左脚の骨を折りました。自分で歩けず、そのお客様に抱えていただいて、部屋に戻ってきました。
わたしはのんきにお風呂に入って髪を洗っていて、乾かないうちに救急車を呼ぶことになり、ヘンな姿で救急病院について行きました。看護婦さんが、私の姿を見て危ぶんで、ほかの家族はいないんですか、と言われたけど、私じゃいけませんですかねえ。こっちがもっと危なく見えたかも。

 ドクターは、主人を見る前にカルテを見て、「90歳ですか、脚の骨折は歩けるようになるまでリハビリを入れて3か月は入院してもらいます」とおっしゃって、それから検査に入られました。大腿骨のすぐ下の骨折でした。幸い人工股関節を入れなくてよくて、長いビスが3本とそれを固定するわっか状の金属が2枚入れられました。
最近の手術は、切開した傷の上に、ペタンとシートを貼って、消毒とか付け替えとか抜糸はないらしいです。傷がふさがるまでそのままにしておくのだそうです。へええ~、びっくり。入院したからには、若い美人の看護師さんに毎日やさしく消毒などしてもらいたいという願望がある(にちがいない)主人は不服そう。やたらにナースコールして、水くれ、とか、起こしてくれ、寝かせてくれと、患者ブラックリストに載ってたんじゃないかしら、きっと。
 患者はしばらくはがまんして入院していましたが、リハビリを頑張って、杖をつけば歩けるようになると、ドクターに直談判して、3週間で退院しました。退院証明書というのを頂いたのですが、退院の事由という欄に、普通は「全快」とか「寛解」とか書いてあるのでしょうが、「自己都合による」と書いてありました。まだ骨がつながっていないのに勝手に退院するのだから、何かあっても知らんぞという意味でしょうかね。当方は、このまま入院していて何もすることがないのは、ぼけるだけだという危機感を持ったからなんですけどね。ぼける入口まで来たようでもありますが、幸い、もとに戻ったような・・・・気もしないでもないような・・・。ともかく、皆様、入院されたら、一日も早く退院なさってくださいよ。リハビリは通院でできます。なにより、日常生活をすることが、最上のリハビリです。断言できます。

 
 国指定重要文化財 旧三笠ホテル
 そのあと私の方は、姉が倒れて、忙しい春夏を過ごしました。秋にはなんとか落ち着いて、主人と二人、気分転換に旅行することにしました。友人の小島浩彦・鈴枝夫妻が一緒に来て下さることになり、安心でした。大変お世話になりました。
 行き先は軽井沢。見たいものは「旧三笠ホテル」。国の重要文化財ですが、5年半の修復期間を経て、昨年10月1日に公開されたのです。この美しい建物は、明治38年に完成、「軽井沢の鹿鳴館」と呼ばれ明治・大正時代に文化人や財界人のサロンでした。設計は岡田時太郎。
 時太郎は、私が30年ほど追いかけている唐津出身の建築家です。辰野金吾と幼馴染で、5歳下。生涯兄弟のような関係でした。時太郎は、牛久シャトーと三笠ホテル、二つの重文の建物を残していますが、日露戦争時に志願して満州に渡って従軍し、戦後に大連に建築会社を起し、満州一のゼネコンになりましたが、大正15年に没して、故郷唐津に忘れられた人です。今年、没後100年になります。唐津の市民が岡田時太郎を思い出して欲しいというのが、私の悲願です。

 旧三笠ホテルは木造の洋館です。十一月の秋晴れの空に映えて、とても美しかったです。建物2階のカフェでゆっくりとお茶をして、宿泊は出来ないので、三笠ホテルより古い創業の万平ホテルに泊まりました。このホテルも一見の価値あり。街中が紅葉で燃えているようで、軽井沢ならではのしゃれた建物群が見れて、たのしかったです。有島武郎が波多野秋子と心中した終焉の地の碑を見て、その時の山荘が移築されてカフェになってるところで当時のセンセーショナルな新聞記事などを読み、お
 
 安東美術館の展示 (軽井沢駅近く)
茶もして、軽井沢という魔法にかかったようなハイな気分で帰ってきました。安東美術館という私立の美術館は、藤田嗣治に特化した美術館ですが、ちょうど開館3周年記念の特別展示期間中で、フランスのランス美術館から借り出した藤田のコレクションが見ごたえがあって、すばらしかったです。太平洋戦争後、日本への絶望からフランス人のレオナール・フジタとなった画家の苦悩や祈りが見えて、今まで知らずに見ていた時と絵がちがってきました。軽井沢の旅は、とても意義のある旅行でした。

 旅をすることは、別の自分と出会うことかも知れません。もしお客様がちがう自分探しにおいでになったら、宿の女将の私は何かお手伝いができるでしょうか。あと何年お客様に会えるでしょうか。そんな思いを深くした午年の新年です。
どうぞこの一年があなたさまにとって実りのある日々となりますよう。
  ごきげんよう。
 

今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                              洋々閣 女将 大河内はるみ

   
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