#236
令和6年1月1日


唐津藩絵師 長谷川雪旦画 (部分)
洋々閣 蔵

このページは女将が唐津のお土産話やとりとめもないおしゃべりをさせていただくページです。他の方の参加も歓迎です。バックナンバーもごらんください。
(2019年より、寄る年波で、年に数回の更新になりました。 取材や原稿、写真などを引き受けてくださるかたがあれば、いつでも更新いたします。お申し出をお待ちします。)
 


明けましておめでとうございます。辰年の新春、何かいいこと、あるかなあ。龍のように空をかけたいですね。
このページは近年は一年に一回の更新ですが、なにせ年末の作業ですから、あわただしいことこの上なし。
それで、ズボラに、横着に、いい加減に更新することにします。
そう開き直ったら、心が楽になりました。
それでも老夫婦の「安否確認」の役目は果たしてくれるでしょう。御安心ください。私達、生きております。卆寿と傘寿の新春でございます。めでたい、めでたい。


 この一年を私達がどう過ごしたか、どうでもいいよ、なんて言わないで、聞いてください。

昨年、令和5年のお正月は宗像神社で過ごしました。近いのに、私は初めて行きました。帰りに宮地嶽神社によって、ここも魅力的でした。私たちは、信心深いのです。宗派を問わず、ヤオヨロズ、拝みます。

 
左 取材中の唐津ぴーぷる放送の亀井氏、中央 ハンナ小林、右 小林宏氏
1月23日には、アメリカから小林宏氏と娘のハンナさんが来てくださいました。小林氏はずいぶん前に、市丸利之助中将のことを私のホームページで知り、ずっと連絡しあっていたかたです。ハンナさんは当時中学生でしたが、市丸中将のルーズベルト大統領への手紙のことを知って深く考えるようになり、父の祖国の日本と、母の祖国アメリカ合衆国との戦争の歴史を勉強し、自分のアイデンティに悩まれ、「アメリカと日本の懸け橋になりたい」との考えから、米海軍士官の道を目指されました。このたび、ハンナさんは、米海軍の戦艦ミリウスに乗って、日米連絡将校として、日本海を守る勤務についておられたのですが、休暇を取って、アメリカから飛んで来られたお父さんと二人で、わざわざ唐津まで、市丸中将のお墓参りにきてくださったのです。小林氏によりますと、市丸中将が硫黄島で玉砕を前にルーズベルト大統領にあてて書いた日英両語による手紙は、奇跡的にアメリカ軍の手に届き、世界中に報道され、70年以上たった今、日本でよりもアメリカでもっと有名になっているのだそうです。たしかに、ユーチューブで英語でたくさん出てきます。

2月には、古くからの友人、旅行作家の草分けの竹村節子女子がお出で下さって、旧交を温めました。ご高令でも、弱音一つはかれない、私の尊敬する仕事人間です。

 
 韓国旅行に飛び立つ私達
3月には、大阪の小池英明先生ご夫妻とともに、韓国に旅行しました。小池先生がおっしゃるには、通り一遍の観光旅行はしたが、主人のようにディープな韓国に触れたい、ということで、主人がツアーを組み立てることになりました。90歳ちかくなってツアーリーダーはかなわんなあ、と嬉しそうに言って、主人は一週間の旅行を計画しました。プサンのお茶の先生・カンスギル先生、慶州とテグはパクヨンヘ会長夫妻の案内、公州のチョウ教授夫妻、ソウルのテレビ作家、キムソニョン女史、チュンチョンの息子、キムテヨン(昔、我が家に10年以上住んで、うちから大学に行った子、今はもう白髪がぼつぼつ出かかって、いいオッサンになってます)
この方たちのおかげで、超ディープに韓国を見て回ることができました。その内の一日、私達は、泊まった韓屋(ハノク)の中から外へ出るのに戸の開け方がわからず、閉じ込められ、しかたなく窓から脱出しようとして主人の手に小さなトゲが刺さりました。小池主治医先生が緊急大手術をして下さいました。ちなみに鍵の開け方は、中から壁についているボタンを押すだけでしたが、私達は、ドアノブあたりをいろいろ触っていたのでした。ボタンには何の説明も書いてなかったし、第一、ドアから1メートル以上離れたところについていたのです。トホホ。

4月には唐津ボランティアガイドの総会を洋々閣でやりました。懇親会は、私達の家の前庭で火鉢バーベキュー。
昔の大きな火鉢三つが役に立って、みなさんにお腹一杯たべてもらったようでした。ちょっと寒かったけど、みな火の回りにかたまっておしゃべりが賑わいました。

5月には、私達の50年来の友人、テリー・ウエルチがメキシコから来てくれました。毎年6月の私の誕生日にきてくれるのですが、今年は彼のコレクションである日本の文人画が、メキシコで初めて展示されるので、6月に来れないからと、先に来てくれたのです。50年以上前、ロイヤーになるつもりのシアトルの学生は、休暇で日本に来て、洋々閣に3か月いて、松の庭の手入れを眺めていましたが、法律の勉強をやめて、アメリカ西海岸一の日本庭園設計士になった人です。深く日本美術を愛好し、そのコレクションはホノルル美術館をはじめ、シアトルや、今回移住したメキシコに初めて日本美術を紹介する運びとなったものです。

 
 牛久シャトーを見るのに、空は晴れ渡り、とても美しかった。
6月には、念願の牛久シャトーを見に行きました。私が30年来研究している唐津出身の建築家・岡田時太郎の設計で、国の重要文化財になっています。牛久シャトーの社長様と、牛久市の文化財課のかたが待ち受けてくださって、普段は見れないところまで見せていただき、ご説明を受けました。岡田時太郎は、唐津で辰野金吾の生家の向かい側で生まれ、5歳下ですが幼馴染、辰野のもとで技師となり、辰野の日銀建設のための視察旅行に随行し、日銀建設の技師長をやった人です。独立して、牛久シャトーと旧・三笠ホテルの二つの重要文化財を設計しましたが、日露戦争後満州で活躍し、その地で亡くなりました。唐津に忘れられた建築家です。思い出してほしいものです。
翌日は、初めて東京ステーションホテルに泊まって、私にはすばらしい誕生日となりました。


7月、姉の誕生日を太宰府日帰りで祝いました。久しぶりに都府楼史を訪れ、いにしえの政庁の礎石を踏みながら、山上億良や大伴旅人を偲びました。「蓬萌ゆ億良旅人に亦吾に」(竹下しづの女)

8、9、10月には、次々に韓国からの友人がきてくれて、忙しかったです。

 
 4年ぶりに大騒ぎになった洋々閣の唐津くんち
11月! 4年ぶりの唐津くんち!常連客が減って、寂しい面もありましたが、町は賑わいを取り戻しました。
洋々閣には新しいお客様も増え、私はなんとかコロナを乗り越えた実感がわいて、感無量でした。

11月22日から旅行に出ました。彦根、熱海に泊まって、今回の目的地の伊豆高原へ知人を訪ねて。2泊して、最終地横浜へ。
26日には、横浜の小さなジャズバーで、弟、山口眞文のライブ。そのあと、弟夫婦を入れて6人で中華料理をたべて、今回の予定を終了。
翌朝、港のほうへ行って、帆船「日本丸」(国の重要文化財)が、商船大学の練習船としての長い役目を終えて、歴史の証人として、日本丸記念公園に係留展示してあるところを見ました。(残念ながら月曜日のため、船内はみられなかったのですが) 若い時、縁あって、日本丸の一等航海士だった方の家にお世話になっていた関係で、日本丸の式典に連れて行ってもらって、東京晴海埠頭から出航、横浜を出たもう一艘の
 
 国指定重要文化財「日本丸」
練習船「海王丸」と東京湾の真ん中ですれちがいざま、一斉に帆を張るところを見たことがあり、なつかしく、うれしく、今度の旅を終えました。

12月には、団体客もいくつかあり、忙しかったです。客のない3年半を経験した身には、まことにありがたいことでした。

12月7日に、主人が左眼の手術をしました。3年前に白内障の手術を受け、その時に挿入されていた人工レンズが、眼底に落ちかかり(レンズ脱臼というのだそうです)、失明状態でしたが、「レンズ縫着手術」という、新しいレンズを直接眼の内側に縫い付けるという、ややこしい手術を受けました。年末には、だいぶ回復して、ぼんやりとは見えるようになりました。右目が健在だったのが、ありがたく、左もある程度回復してくれたのがありがたく、私たちの一年は「ありがたや」の気持ちで終了しました。

2024年は、何が待ち受けているか分かりませんが、私には子供の時から、”私はいつも運がいいんだ”という、何の根拠もない信念があり、それが私の強みだと思っています。信念一つで、ひとは生きられるものですね。

では皆様もこの一年をご自分なりの信念を持って生き抜いてくださいませ。お互いに頑張りましょう!

お読みいただいて、ありがとうございました。

 

今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                              洋々閣 女将 大河内はるみ

   
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