みなさま、こんにちは。
11か月の御無沙汰をいたしました。11月号は唐津くんちシリーズですから、なんとしてでも更新したいと、唐津くんちの泰斗・京町の吉冨寛さんに助けをもとめまして、立派な論文を頂きました。
憎っくきコロナのせいで、2020年の唐津くんちの神幸祭、曳山巡行が中止になるなんて、まことにゆゆしき事態でございます。関係者御一同の決定までのご心痛と落胆はいかばかりかと、拝察申し上げます。市民としても残念でございます。でもほんとうは、中止でなくて、「居祭り」というべきものだそうですね。「ステイホーム」でくんちをやるわけです。神様も町中を巡行なさらず、ステイホームなさいますそうです。神事は唐津神社でちゃんと執り行われます。
吉冨さんは、過去をふりかえって、ゆゆしきことどもを解説してくださいます。せめて、失われたくんちを悼みつつ、先祖のヤマ曳きたちの背中を見つめてください。
(ヤマ関係の写真は1992年のくんちに雑誌の取材で東京より来られたカメラマン・鈴木勝氏よりいただいていたものです。この28年前の写真のヤマ曳きの背中が自分だと思われる方はお申し出くだされば、原画を差し上げます。では、秋の夜長にゆっくりお勉強なさってください。)
唐津神社秋季例大祭
吉冨 寛
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10月に入ると各家の奥様方はくんち料理の準備に奔走する風景があるはずですが、今年は金木犀が空しく薫っています。
唐津神社創建以来、令和2年は初めて神輿のお出まし無しの秋季例大祭の居祭が決定しました。
神幸祭が始まったのが寛文年間と申します。1661年から1673年までの期間を指す徳川家綱が将軍の時でした。唐津はと言えば島原の乱の後、寺沢が改易になり大久保の時代になります。幕藩体制も成立し諸藩とも少しずつ平和な世の中になり、神幸祭が全国的に始まるのがこの寛文年間のようです。
木犀の夜の香りや祭村 大谷句佛
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唐津神社の由緒は次の通り
御祭神
一ノ宮 住吉三神
底筒男命(ソコツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、表筒男命(ウワツツオノミコト)
二ノ官 神田宗次(コウダ ムネツグ)、相殿 水波能女神(ミズハノメノカミ)
神功皇后三韓を征し給ふや、西海茫々として一望際なく舟師向ふ所を知るに由なし。時に皇后「願くば一条の舟路を示せ」と住吉の三神に祈り給へば間もなく風波治まり、凱旋の後神徳著しきを感じ松浦の海浜に鏡を捧げて三神を祀り給ふ。然るに其後数百年を径て漸く衰頽し社殿自ら廃滅に頻せんとする時恰も孝謙天皇の御宇地頭神由宗次一夕神夢を得て海浜に至れば、一筐の波に浮び来るあり。之を採りて開けば一宝鏡なり。これ正しく皇后の祀り給ひし宝鏡ならんと驚き敬ひて時の帝に奏聞す。朝廷神徳を感じ詔命を下して「唐津大明神」と賜ふ。時に天平勝宝七年九月二十九日なり。爾来郷党の崇敬加はり文治二年神田広に至り社殿を再建し、祖先神田五郎宗次の功を追慕し其の霊を合祀して二の宮とす。文安六年領主波多三河守親田地を寄進して尊崇す。
昔の社殿の前で米屋町の勢ぞろい
(古舘家写真) |
慶長七年寺沢志摩守広高唐津築城に際し現在地に社地を設定し、社殿を改築し領内守護神として崇敬せり。且つ城下の火災鎮護として水波能女神を相殿に勧請す。その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、広く領内の総社として益々崇敬せり。
明治六年郷社に列し唐津神社と改称す。其の後境内拡張、社殿の総改築成り昭和十七年県社に昇格す。
戦後杜他社殿旧に変ることなく四時祭礼も怠ることなく、杜頭愈殷賑なり。
(唐津神社社報 第1号 昭和35年10月1日参照)
つまり天平勝宝7年(西暦755年)9月29日に、唐津大明神の御神号を賜って創祀されてより現在まで1266年間欠かすことなくこの日をお祭りし続けてきたそうです。
慶長7年に寺沢広高公が唐津築城に際して現在地に社地を設定し、社殿を改築し、領内の総鎮守として崇敬し、新たに火伏すなわち火防鎮護神として水波能女神を勧請したものです。
唐津のとある宮司さんの慶應4年から大正2年までの日記を読む機会を得ることができ、半年ほど填って読んでおりました。その中で曳山をくんち以外に再々出していた日記が出て来て驚きました。
最初に登場する番外は明治6年の雨乞いでした。
明治6年6月
8日 本日より二夜三日黒崎濱に於て祈雨
10日 本日結願に付き一区中の者参集徹夜
本年は春以来降雨なく山林草木葉色を変じ人は水渇に及ぶ所もありて実に百年以来の大干魃なりと云う
11日 沖ノ瀬にて祈雨
13日 衣干山并塩屋古城に於て祈雨 唐津は西の濱にて仝断大賑
16日 菖蒲村常安原にて仝断 唐津も仝断西の濱へ神幸神事仝様
17日 常安原に総寄
22日 唐津志道舎へ入塾 当時筑前には百姓一寄あり其勢凡そ二五万人なりと云う
27日 本日より三日三夜祈雨此度は縣廰よりの事にて一区内一社宛之を祈う依て予は田島神社へ出張 仝所は大賑
29日 仝所より退散の農民野中原に集り何事をか議す依て呼子の町は大騒動然も其夜退散す
30日 昨夜退散の農民又菖蒲村に集る
7月
1日 本日より二夜三日一区中の祈雨を佐志に於てす
16日 伊万里行として・・・・・・・
これで解るように明治六年六月の大干魃は明らか。
明治六年までに完成した囃子ヤマ(現在の曳山)は米屋町まで。京町は踊り屋台、江川町は赤鳥居。水主町はまだ唐津神祭に参加していたかどうか不明。
次に神社の分霊をお迎えするのに曳山を出していました。
明治13年9月23日 午後三時太神宮御分霊御着輩 鬼塚に出で奉迎 市民は船宮まで引山にて奉迎 本日より一週間昼夜祭典 并説教 毎日晴天人手最多し
そして明治35年・40年は乕烈剌(コレラ)鎮定で曳山を曳いています。
その両年を見てみましょう。
明治35年
9月24日 火曜 曇 乕烈剌禁解除
10月7日 金曜 晴 乕疫解禁に付き市中山引 旧重九に当たる
10月25日 木曜 晴 旧九月二九日唐津神祭に当たる 満島も本年は本部に乕烈剌病ありたるため例年の神祭を延期し本年を以て神事客をなしたり依って満島校は休業したり
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35年の関連した佐賀新聞の見出しを見ると次の通りです。
6/10東松浦郡唐津村でコレラ患者1人が発生、以後各地に蔓延
6/12東松浦郡内のコレラ患者は17人に達する
6/13石丸佐賀市長はコレラ患者3人が発生したため、告論を発して予防を喚起する。
6/13香川知事はコレラ発生のため、民家を借り上げなどにより隔離病舎を急設するよう関係機関に訓令を出す(県訓令)
6/14唐津警察署長はコレラ予防心得を訓示
6/14佐賀警察署長は市内の貸座敷、料理屋などを集め、刺身などを一切出さない事など8項目を訓示
6/14コレラ発生のため松浦川、玉島川水系の游泳を禁止(県令)
6/17初発からコレラ患者は32人、うち死亡は13人
6/18唐津警察署はコレラ発生のため繁忙を極め、他署から巡査19人が応援、さらに教習所卒の11人も派遣
6/20県内のコレラ有病地からの船舶に対して検疫を実施(内務省訓示)
6/20佐賀、久保田、牛津駅で列車到着毎に検疫を開始
6/20東松浦郡の湊村は対岸の神集島に仮隔離病舎を設置など
6/21内務省からコレラ予防接種が東松浦郡民5万人を対象に実施
6/25県は検疫委員の医師4人を検疫官に任命
6/26唐津地方のコレラは終息し唐津避病院は閉鎖
7/18東松浦郡ではコレラ流行のため、海水浴客が激減、浜崎祗園祭など各地の祭礼が中止
7/27県内のコレラ病患者は初発から80人、うち死亡47人、全治31人に達する
8/5唐津鉱業組合支部はコレラ流行のため旧盂蘭盆を廃止し坑夫らに一切賃金をしない、暴飲暴食や不摂生をしないよう各坑主が注意することを決める。
8/10福岡県のコレラ病は初発から真性430人、擬似80人、21日には858人、うち死亡469人
8/16今年の盂蘭盆は、盆祭禁止の県令が出て万事控えめ、商況も低調、佐賀市今宿の精霊流しは例年通り
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8/20佐賀市の某料亭の女将がコレラに罹患、直ちに市立伝染病院送り、のち死亡。料亭は内外を大消毒、芸酌婦は5日間の外出禁止、下流は一切使用禁止。周辺に出張所を設け、警官と市吏員が監視、25日には周辺住民を検疫官が巡査立会いで健康診断
8/28唐津焼は廃藩後衰退し、4、5年前草場見節が御茶碗窯の中里某を援助して再興させたが、一時中止となる。草場は唐津出身の陶工福田直行が帰郷したことを機に、福田による唐津焼の再興を計画
9/23東松浦郡唐津町の旧城内に新築予定の高等尋常小学校の設計は辰野金吾
9/26東松浦郡呼子村の柴田甚三郎は同村の貧困漁民の集落にコレラ病が発生し蔓延の兆しがあるため、私財で消毒用に数百俵の石灰を購入して分け与える。
9/30佐賀市内のコレラが鎮静化、伝染病院を閉院
10/6コレラの流行が沈静化してきたため、西松浦郡を除く各郡市の興行、祭典、供養の禁止を解く(県令)
10/11コレラが下火となり、佐賀市の松原神社、小城町の祗園祭など各地で秋祭を行う。
11/28東松浦郡唐津港、鳥栖駅、有田駅の検疫は11月末限り廃止する。
明治36年
1/10コレラが真冬に東松浦郡唐津村妙見で発生、3人が死亡。同郡内に流行、15日には患者7名、うち死亡4人。
それ以来明治40年までコレラの記載がありません。
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再び明治40年の9月からの日記を紹介しましょう。
9月25日 晴 金谷寄留人にコレラ病あり四時間にして仆る
9月27日 曇 金谷病人同船の者仝病にて治療中の処是も死去
9月29日 日曜 晴 材木町に於いて矢野岩太持参の動物を見る
10月1日 火曜 晴 材木町動物会に生徒引率 体操講習始め
10月2日 旧8月25日 晴 夜大石天満宮木綿町天満宮へ参拝 山下に乕烈剌病あり死去
10月3日 晴 中町に乕病新患者発生
10月5日 雨 新患者2名又発生
10月7日 晴 新患者4名発生
10月8日 曇 新患者1名
10月9日 曇 新患者又1名 水野レイ朝鮮にて卒中病にて死去遺骨は本日午後五時鏡村に着の筈にて11にち午後二時葬式の旨多治見より通知
10月10日 晴 同心町に新患者4名
10月12日 曇 前々日小学校にて1年生の中に吐したる者あり病症不明なりして発生地同心町の者なれば直ぐに帰らしめ後を消毒し其の教室は明けたりしが其の生徒は今朝に至り死去せり病症不明なるも時節柄に付き尚警戒せり
10月19日 曇 高取氏より本日は旧9月13日に付き観月会を兼ね謡曲会を催すとて案内ありたり承諾したれども差し支え出来不参、市中は乕烈剌鎮定祝賀として今明両日曳山笠を催せり
10月20日 日曜 晴雨不定 本日も市中山笠曳
10月21日 前雨后晴 流行病鎮定に付き本日より市中人出多し
10月25日 晴 午后校外教授を兼ね大草ノブ子の墓所に生徒を引率 本日は妙見神祭案内ありたれど行かず
10月28日 曇 乕烈剌病新患者あり大石町鍛冶屋
11月3日 日曜 曇 時々雨 天長節に付き午前は学校にて祝賀
11月4日 雨 押々神幸相済、病気流行後につき無客岡本新一田中正治両君已
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明治40年の佐賀新聞をピックアップしてみました。
2/5奥村五百子が京都帝国大学付属病院で死去、享年62歳。葬儀は10日京都東本願寺で執行、3000人が参列。21日に東松浦郡唐津町の高徳寺に埋骨、1000人が参列。
6/3橋本県第四部長は長崎県佐世保などにペスト発生のため、予防対策を通知
6/10ペスト予防の為三養基、唐津、伊万里地方では殺鼠に着手。鳥栖町は1匹2銭で買上げ。
7/10唐津線の鉄道料金で、海水浴客用に3日間通用5割引、期間13日通用などを発行
7/25東松浦郡唐津町の海水浴シーズンの旅館代は、1泊2食で1等1円50銭~5円55銭
8/4文芸同好会が唐津の近松寺で開会、与謝野鉄幹ら数人が講演。参加者100人、うち女性は7、8人
8/12東松浦郡唐津の特設電話の申込は約70人に達する。
8/15東松浦郡唐津町は、盆祭を従来通り旧暦で行う。
8/23真性コレラ患者1人が藤津郡南鹿島村に発生、翌日死亡。伝染経路は門司、県内に厳戒態勢が敷かれる
8/23旧唐津藩主家の小笠原長生子爵・海軍中佐の東京の生活は、質素。家扶1、家従1、書生3、車夫1、門番1、屋敷番1など17人。相談役は天野為之ら4人
8/26東松浦郡内に赤痢が流行、患者46人、死亡8人
8/25福岡県門司港に乕烈剌が発生したため、県は諸富、唐津、呼子、楠久、住ノ江の各港で検疫を開始、警察署も各駅に巡査を派遣し、警戒を強化
8/26県と佐賀市は、福岡県下のコレラ発生に際して告論を発し、県民に衛生上の注意を喚起
8/28神埼郡西郷村はコレラ予防のため、当分の間
9/13西松浦郡伊万里町に真性コレラ患者1人発生。その後佐賀市など各地に拡大
9/18西松浦郡、長崎県北松浦郡内で演習中の長崎要塞砲兵隊は18人がコレラに罹り、隊長以下2人が死亡、演習中止。
9/24コレラ予防のため、諸富、唐津、呼子、楠久、住ノ江の各港で船舶の検疫を開始(県告知)
増田敬太郎巡査
明治28年高串のコレラで殉職
今では神と祀られている。 |
9/26県内のコレラ患者は初発以来33人、うち死亡は30人。
10/11県内のコレラ患者は真性48人、うち死亡40人、擬似6人、うち死亡24人
10/12小城、東松浦、西松浦、三養基の各郡医師会の設立を認可。11月5日には藤津郡医師会を認可
10/17北里柴三郎伝染病研究所長が来県、県警察部でコレラ菌の検査を行う。
10/18県内のコレラの流行が下火となり、伝染病院が閉鎖。祭が伊万里、唐津地方で再開
10/19東松浦郡のコレラ患者は49人に達し、うち40人が死亡
11/11コレラ患者は10月末現在で66人、うち死亡54人
11/13内務省は唐津港の常設検疫所設置を計画、予算は41年度
11/20コレラが佐賀市今宿、佐賀郡新北村、高木瀬村に発生
11/20県立商船学校の宿舎代わりの旧練習船に寄宿の生徒3人がコレラに罹患、1人死亡
11/25韓国釜山在住の秀島浩一らは韓国~唐津間の航路復活を計画し、県に補助を陳情。東松浦郡唐津町の岸川善太郎も陳情
11/30大阪市にペストが流行28日までの間に患者399人、うち死者355人
12/4佐賀郡内のコレラ患者は16人、うち死亡11人
12/12佐賀市内に真性コレラが流行する
唐津くんち以外に曳山を出した記録、番外編は次のURLで御覧頂けます。
http://tamatorijisi.web.fc2.com/bangaihen.html
唐津人はことある度に曳山を出して曳いています。それは今も変わりません。
明治40年に至っては鎮定祝いで二日間曳山を出して曳いて廻った8日後に気を緩めたのか再び新患者が発生しています。そしてその6日後におくんち本番。流石に用心したでしょう。
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現在は当時と比べものにならぬ程他所からの見物客が増えました。世界中から唐津くんちを見物しに来る様な時代です。巡行中止は英断と言うべき判断と思います。
居祭(いまつり)とも呼ぶべき今年の唐津くんち、神輿もお出ましにならず、御旅所への渡御は行わず、拝殿での神事のみ斎行されます。勿論14台の曳山も展示場内で静かにくんちを迎えます。唐津っ子にとっては開闢以来の事です。新型コロナウイルス感染拡大防止の為とは言え、唐津っ子はうずうずしています。しかし油断大敵。そこはグッと辛抱。
奥様方も今年の10月はくんち料理の手配や仕込みをしないでのんびり過ごして下さい。でもワクチンの安全性が証明され、治療薬も確立すればまた楽しい楽しいおくんちが出来ますから来年はよろしくお願いしますね。
最後に改めて唐津神社のご加護があります様に祈ります。
山内薬局 吉冨寛
唐津くんち特集: https://tamatori.sakura.ne.jp/index4.html
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いかがでしたか?ほんの100年ちょっと前のことなのに、私たちは何も知らなかったんですね。コレラが流行った時、ヤマの男たちは祈願のために曳き、鎮定されるとお礼のために曳いて・・・ 現在よりも、「神事」の意味合いがうんと強かったんですね。こうなれば、私たちも三密を避けて、三々五々、唐津神社にお参りして、おさいせんをうんと弾んで、”神様、昔コレラを退治してくださったように、コロナもやっつけてくださいませ”と祈りましょう。
どうぞ、一日も早く平和な日が来ますように祈りつつ、このページを閉じます。
吉冨さんにお礼を申し上げます。
今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
洋々閣 女将 大河内はるみ
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mail to: info@yoyokaku.com
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