唐津くんち10番曳山「上杉謙信の兜」
明治二年(1869)製作。
今年、令和元年八月、平野町町内にて、ある誕生日会を開催致しました。
曳山「上杉謙信の兜」は8月で150歳の誕生日を迎えたのです。
平野町には他町内ほど、我が町曳山自慢的な話や逸話は少なく、昔は蓮根の様なツノがあり、レンコン曳山と呼ばれていたとか、獅子頭の色が黒っぽい小豆色から金箔に変わったとか、その程度の話しかなく、今回の投稿のお話を頂いた時、どのような話が良いのか、頭を悩ませてしまいました。
冗談が好きだった、今は亡き明治生まれの私の祖父との会話を思い出します。
平野町は何故、縁もゆかりもない武将「上杉謙信の兜」を作ったのか?幼少期の私の素朴な疑問でした。祖父が話すには、木綿町が9番曳山として「武田信玄の兜」を製作するとの事で、次に続く曳山は
「上杉謙信」やろうもん。単純に川中島の戦いの発想で話し合われたようです。曳山の獅子頭の兜については、現存する兜と違い、上杉家資料に存在した兜の絵をモチーフに創作された事が考えられます。
他町の曳山の造形についてもそうですが、私も一度、その上杉謙信の兜の絵を本で拝見した事があります、先人達が、形なき物を創作する発想には大変感心する処です。
9番曳山の木綿町が唐津神社に奉納してから5年後、続く曳山として、平野町「上杉謙信の兜」が完成するのですが、時を同じく曳山を製作していた米屋町「酒呑童子と源の頼光の兜」が先に完成していたらしく、製作順が米屋町の方が実は早かったとの話でした。しかし、
「武田信玄」「上杉謙信」が並んだ方が良いだろうと、米屋町の皆さんが、快く製作順を譲ってくれたとの逸話を聞いた覚えがあります。
製作時の資料など存在しない為、本当の話なのか、今となっては確かめる事は出来ませんが、真実は別にわからなくても良いのです。
そんな話を聞いてか、私の中に、特に木綿町、米屋町と前後の曳山には特別な思い、感謝の気持ちが幼少期から芽生えていたのは確かです。
「上杉謙信の兜」「酒呑童子と源の頼光の兜」共に明治二年製作の同じ150周年。
「じいちゃん、本当ね?」
子供の頃に聞いた曳山の話は興味深く本当に楽しいものでした。
町内の曳山の事。
他の13台の曳山の事。
消滅した紺屋町、黒獅子の事。
学校の勉強などそっちのけで大好きな唐津くんちの話ばかり。
幼少期の町内の人も古い町並みも、ずいぶんと変わり記憶も薄れてきました。
曳山の組織も時代と共に、ずいぶんと近代的に変わりました。
昔の文化と現代を知る私自身も、ずいぶんと変わったのでしょうね。
しかし曳山は原型を留めたまま、これからも継承しなければいけません。
気がつけば後輩に、変わりつつある伝統や、しきたりを伝える立場になりました。
現代では、ありとあらゆる楽しい娯楽が選べる中、制限ある伝統文化の世界を、興味を持ち、これから曳山行事を引き継いでくれる子供たちにちゃんと伝える事が出来きるのか不安があります。曳山本体よりも、それらに関わる人々の方が大事な事に最近気づいたのです。
先日、なにげに近所の子供が話しかけてくれました。
「おいちゃん、囃子の練習いつから?」
昭和3年 唐津神社前 |
昭和35年 |
祖父 寺村才吉
|
平野町正取締役 林 武彦
|
|