#221 平成30年8月 |
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唐津藩において多くの医師を教育した
橘葉医学館跡(現・唐津市 札の辻公園)
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唐津のお土産話やとりとめもない
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仁の系譜
~草葉の陰~
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8月になりました。あいつぐ自然災害に、苦しみの中に日を送っていらっしゃるかたも多いことでしょう。心よりお見舞い申し上げます。唐津市でも7月の大雨では冠水や土砂崩れ、電車脱線、逆走台風までもが相次ぎ、人に会えば嘆きあうばかりでした。
さて、8月号は、例年亡くなった人のことを書いていますが、今回はずっと気にかかっていたテーマを書きたいと思います。十分準備がととのっていなくて、力不足であることを自覚していますが、長く引き伸ばしていたことでもあり、思い切って書いてみます。皆様の御教示をおまちします。
ここでは唐津藩橘葉医学館(きつよういがくかん)の推移を縦糸とし、かかわりのあった3人のお医者様(江戸、明治時代より)を横糸として取り上げます。
薄田泣菫の詩『ああ大和にし あらましかば』に出ることばに、「赤ら橘、葉がくれに・・」というのがあります。明るく輝く橘の実が葉に半分かくれつつたわわに実っている様子に大和の美しさを頌しています。橘葉館のことを調べてみると、ここにもそこにも、輝くお医者様たちが見え隠れしますが、今回は、たまたま知りえた情報があるかたを書いています。いつの日にかどなたかが葉隠れの実たちを顕彰してくださることをねがいます。 |
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保利文溟(ほりぶんめい)とその血脈 |
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平松儀右衛門道中記 |
肥前唐津町(当時)の材木町年寄・平松儀右衛門という人が1865年(元治2年)春に茶、俳句仲間と連れだって長崎に旅することを思い立ち、7人で出立したが、儀右衛門の筆はいきいきと、7人、途中で9人になって、伊万里、有田、塚崎、武雄温泉、嬉野、彼杵、時津、長崎とまわる道中記を残している。俳諧趣味の仲間だけあって、各所に句や狂歌が出て、まことに楽しいものである。一行の一人は当時唐津藩医で、医学館守の地位にあった高名な医者・保利文溟であった。文溟医師が伊万里の宿で酒肴を注文しておいてから湯に行って戻ると、たいへんなごちそうがしてあって翌朝の勘定がえらいことになって、これはしまった、予算を限って注文しておくべきであったと後悔したというくだりは、厳格な医学館主のイメージとはことなり、気の毒ながらおかしくもあり、私がその宿の女将であっても、高名なお医者様ならとびきり神経を使って最高級のお膳立てをするだろうな、と、感じたことだった。これも文溟医師の、趣味を同じくする友たちとの暖かい交流をしのばせて、親近感を覚える。
さて、保利文溟とは誰であるか。まず郷土先覚者列伝から引く。以後、引用文は茶色文字とする。
◎保利文溟 (ほりぶんめい) 医学者 文政八年ー明治三十八年 (1825-1905)
名は貢、字は享甫、松浜と号す。佐志村神官宮崎但馬正の二男。弱冠にして儒を筑前今宿亀井雷首に学び、二十二才で唐津藩医保利文亮の養子となる。父に就て医を学び、父没後、秋月藩江藤養泰に師事。安政二年帰郷医学館主護となる。元治元年御医師に召抱えらる。明治三年橘葉医学館都講に任ぜられた。医業のかたわら書画、詩歌、俳句を能くし著書に戎衣論あり、賦するところ鶴城八景は広く世に伝わる。(保利哲郎)
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順序が逆だが、養父の保利文亮のことにも触れたい。
◎保利文亮 (ほりぶんりょう)寛政十年ー嘉永三年 (1798-1850) 藩医
寛政十年保利春益の次男として生る。文渕、鹿門と号す。家業を継いで医者となり、始め筑前鹿家に住し、医業の傍ら子弟を集めて医学を教授していた。天保三年小笠原長会(ながお)侯に知られ、召されて唐津呉服町に移る。同七年三月、橘葉医学館が京町に設けられると、その守護を命ぜられた。その傍に家居し藩中の医師を教育した。時に三十九歳。嘉永二年藩医に登用された。翌三年五十三歳で病没、子無く文溟が養子となって後を嗣いだ。墓は西寺町大聖院*(註)にある。*註 大聖院の寺域の一部ではあるが、神道である保利家と親戚筋にあたる他の神職3家と一緒に一区画があり、神式で供養されている。
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狩野永岳画 保利文溟賛 |
文亮は、鹿家(筑前・現福岡県糸島市二丈鹿家いとしましにじょうしかか)にて医業を営む保利春益の二男で、鬼子嶽(唐津市北波多の岸岳)城主波多三河守の家臣、保利三左衛門の4代を経た子孫である。文亮は春益に発した家業を継いで医者となり、唐津藩医にまで上がった。藩医は地位としては御殿医の下だそうであるが、藩主小笠原候の信頼厚く、しばしば召されたらしい。この医業は養子・文溟に引き継がれて、以来、脈々と仁の系譜は200年以上、今日の八代にまで続いている。
◎ふたたび文溟について
文亮の養子文溟もまた橘葉館の都講という地位につき、多くの若者を医者に育て上げた。
文溟は書画、俳諧、詩歌を能くしたとあるが、相当の趣味人であった。
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保利家蔵 |
今宿の儒学の師、亀井雷首とは、趣味の画や詩をともに楽しんだようだ。二人の合作の掛け軸などたくさん残っていたようである。歌人としては、槇園文溟の名で歌学の研究書を著し、のちに唐津の和歌の第一人者となる宮崎雅香に与えた一巻が現存している。(雅香は戸川家の生まれで、佐志の神職宮崎家に養子に入っている。文溟はその前に宮崎家から保利家に入っていた。雅香は実兄の戸川俊雄(唐津神社宮司)とともにのちに短歌の唐津国風会を興し、郷土の文化を牽引した人である。)
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左写真の覚書の中身1ページ目 |
右上の写真は文溟の賛になる掛け軸である。号、松濱とある。当時、唐津城東側の満島村の虹の松原だけでなく、西側・唐津町側にもりっぱな松林が続いていた。現在も御子孫が病院を営まれている地に程近い。その浜に佇み句作にふける文溟師を想像するのも楽しいものである。明治の新聞に見ると、名士投票!で、風雅家に選ばれている。後述の草場見節などとともに、唐津の町のいろいろな場面に登場する。
安政6年には明山公(小笠原長行)が親しく橘葉館に臨まれ、教育の現場を視察された。その折の文溟の備忘録(写真左)が残っている。(明山公は時の小笠原藩の世子で、安政4年からは藩主の代行として積極的に改革を行い、特に教育に力を入れた。後には幕府の老中に上がった人物である。)
この覚書の内容は、輪講の順番と氏名、出席学生の氏名と席順、傍聴者氏名、明山公の随行者たちの役職と氏名、御褒美にいただいた金弐百疋、とかお赤飯を頂戴したことなど、また「御達書写し」には、’よく人命を救助’という文言がある。
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保利家々憲表紙 |
文末署名 |
私はこのたびの資料集めで、幸運にも保利文溟医師の書き残した「家憲」なるものを拝見することができた。
その内容は、「子々孫々医業の系譜を絶やすな」ということに尽きる。こまごまといろいろな場合を想定し、いかなる場合にも医業の後継者をつくるべしという強固なる申し置きであり、裁判所の証明と奥村五百子刀自ほか数人の名士たちの証人署名まで添えてある。また、有事の際の協議相手として、次男・保利真直(後述)、一族の医師・保利磯次郎(後述)など数名を指定してある。私は最初これを見たときにはここまで書くものだろうかと少々驚いたが、何度も見返してから老医の心情をいくらか理解できた気がする。
保利文溟はこれを書く4年前に長男・聯(後述)に先立たれている。当時79歳の文溟がこうまでして子孫に望んだものは何であったか。家門の栄華ではあるまい。当時、医は仁術であり、医業が必ずしも富貴を意味していなかった。まだ中学生である家督相続者の孫・鐡雄(後述)への仁の継承そのものがこの儒医の切なる願いではなかったろうかと私には思える。次男・真直はその時すでに軍医として中央で高い地位にあり、唐津へ呼び戻せる状態ではなかった。文明開化したとはいえ、いまだ封建思想が色濃く残る明治である。特に「家」という概念は日本人の思考の中心を占めるものであったろう。文溟が世を去る2年前に書き遺したものである。
大聖院の文溟の墓には小笠原長生公の弔歌が刻まれているが、時を経て読み取りが難しいそうである。
では、文溟医師の後継者たちを見てみよう。先に述べた、早世した長男・聯と次男・真直に会ってみたい。
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国会図書館蔵 |
◎保利聯(ほりつらね) 安政五年-明治三十二年 (1858-1899)
保利文溟の長男。一高を経て東京帝国大学医科大学を明治20年卒業後、東大医科助手を務めた。その後東京牛込にて内科を開業。卒業証書や、内務大臣山県有朋伯爵の印
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保利家蔵 |
のある医術開業免許状が現存している。(日本政府は明治8年より医師に開業試験を課す制度を設けていた。)
惜しくも42歳で早世したが、ペンツォルド博士やベルツ博士のドイツ語医学書の翻訳という功績が残っている。
江戸、明治初期には蘭学者によるオランダ語からの翻訳のみであったものが、明治中期には帝国大学の学生たちなどにより英仏独の学術書の翻訳の時代が到来した。当時の学生たちの語学履修能力には舌を巻くものがある。明治政府は医学についてはドイツを範とすることに決定していて、お雇い外国人教師も医学者はドイツ人のみであった。聯のドイツ語能力もまた相当のものであって、後輩の医師たちにドイツ語を教えたりもしたようだ。
写真右の鼈氏とは、エルヴィン・フォン・ベルツのことであり、ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。保利聯の恩師にあたる。27年にわたって東京大学で西洋医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及んだ。
写真左上の検尿法の翻訳については、明治二十年十一月だから、卒業の半年あとになる。ペンツヲルドについては、ドイツのエルワンゲン(Ellwangen)の医師で1886年に第二版として出版されたものを翌年には翻訳しているということだけしかわからないが、内容を見ると他の数名の医師の学説に検証を加えているので、おそらく日本に来ていた医師ではないようだ。明治のお雇い外国人の中には、この名は見られない。医学書翻訳のさきがけの一人である保利聯が早世しなかったら、近代の医学界にどれだけの貢献をしただろうかと、残念に思う。
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保利聯の卒業証書 明治20年5月(保利家蔵)
各教科の教授の署名あり。
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保利聯の医術開業免状 明治20年8月(保利家蔵) |
◎聯の長男・鐡雄(かねお)は、父の死去に伴い、12歳にして母、弟妹を連れて唐津京町の祖父・文溟宅に帰家した。祖父文溟が世を去るのは、鐡雄18歳の時である。鐡雄は唐津中学、長崎医学専門学校を卒業後、昭和元年、大名小路に産婦人科を開業した。昭和36年卒去。そのあと保利哲郎が外科、現在は保利家当代・保利喜英が整形外科と総合病院、老健施設等を展開、御子息、御息女も医師として父君の病院に入られ、医業七代は次の八代目に続いている。
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保利真直 |
◎保利真直(ほりまなお)万延元年ー昭和四年 1860-1929
保利文溟の二男。兄・聯と同時に上京し、東京帝国大学を明治20年卒業、眼科を専攻して軍籍に入り、ドイツ、オーストリア、フランスに留学駐在、29年帰国。軍医学校で森林太郎(鴎外)校長の副官をつとめ、のちには軍医学校校長や大正天皇の侍医を拝命した。著書多数や検眼機器の創案など日本の眼科学界第一人者であるのみならず海外でも高い評価を受けた。
大正天皇が眼鏡を使われるのを元勲たちが威厳を損なうものとして反対した時、医学的見地から断固、眼鏡着用を主張したり、昭和天皇御成婚のおりにも堂々と眼科学的に論じている。
真直の長男・清は戦時中東京にて日赤病院長をつとめた医師である。その子息たちもそれぞれ最高学府に学び、東京においても医業は継承されている。
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草場見節の見果てぬ夢 |
このページの4月号で「舞鶴荘」を書いたときに予告編として草場見節にふれたが、それは陶芸家としての姿であった。今、本来の医業に邁進していたころの見節を見てみたい。郷土先覚者列伝より引く。
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◎草場見節(くさばけんせつ) 医師 弘化元年-明治三十九年 (1845-1906)
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草場見節 |
世々医業の草場家の第六代で、第二世見節をいう。十七才にして熊本の旧藩医深水玄門に裁て七カ年漢法医学特に内科を修業して帰国、明治元年唐津京町で開業。同三年橘葉医学館の盟主に任じられている。翌四年、藩の命によって肥後玉名の田尻宗彦に就て産科の修業をして帰郷。当時、産科医として九州一円に名声高く、繁忙を極めたが、財力は日増しに豊かになった。唐津焼の復興を試み「見節窯」の名いまに残る。茶人としてもその名が知れわたった。(草場幸雄)
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見節焼の手あぶり(立花家蔵)
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さらに『佐賀医人伝』によると、『末盧国』よりの引用として、見節が水原流産科の探頷術の免許皆伝を受けて難産時に母子ともに救う技術に熟達し、また産前産後の家伝薬も創案して名声が近隣に広がったことに触れてある。御子孫に聞いたところでは、京町の産科病院(現在の古賀家具店の位置)の前の道には、妊婦たちがむしろに座って列をなして診療を待ったとの話が伝わっているそうである。
遠州流の茶人としても高名であり、さらに途絶えていた唐津焼の復興に尽力した。62歳で隠居して唐津町西の浜の、上述の現・「舞鶴荘」の位置にあたる広大な土地に居を構え、窯を築いて「見節焼」と呼
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草場見節(笑山居士)夫妻の位牌 |
ばれる唐津焼の一時代を作った。(それ以前より大名小路の小笠原藩の屋敷で窯を焼いていたが町中であるために反対があっていたようである。) その折には、小笠原長生、保利文溟などが出資している。見節焼は残念ながら二代に入ったところで途絶えた。唐津焼が真の復興を見るのは昭和に入ってからのことである。
見節の見果てぬ夢の窯跡は、今のところ調査がされていない。おおよその位置を推測されるばかりである。
保利文溟と草場見節は20才の年齢差があるが、肝胆相照らす友であったのではないだろうか。 ともに当代きっての名医であり、ともに京町に住んだ。見節が橘葉館の盟主に任じるのは、文溟の誘いによるものであり、ともに若い医者の養成にあたった。趣味も似て風雅の道である。 また、不幸にもともに長男に先立たれている。見節が62歳で突然医師をやめて隠居するのには、先に医業後継者の長男を失っていたことと関連がないとは言えないと思う。
見節は文溟の一年後に逝去している。
見節の墓は西寺町の長得寺にあったが鐘楼建設の折りに同寺の納骨堂に位牌を安置された。草場本家は常安家とともにこの寺の中興の祖と言われる。草場本家の位牌堂を見ると江戸期から明治にいかに栄華を誇った豪商であったかがわかる。
(なお、草場見節に関しては詳しい資料が山内薬局のホームページ内に見られる。)
私は、このたび、保利家において、見節焼のうさぎの手あぶりが4個並んでいるのを見た。保利文溟と草場見節の厚誼を示していて、このうさぎたちは歴史の証人でもある。うさぎたちは同じようでいて、微妙に表情がちがう。献上唐津のやわらかい黄白色の土である。
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古川俊が唐津に遺したもの
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ここまで橘葉館の最盛期の二人をみてきたが、時代は下って、橘葉館の終焉にかかわる医師を見てみたい。草場見節より15年あとに生まれた古川俊である。
◎古川 俊 (ふるかわしゅん) 医師 万延元年ー大正十二年 (1860-1923)
筑前福岡黒田藩士として代々続いていた古川家に生まれた俊平(古川俊医師の父)は江戸末期、藩の命令により長崎出島で化学、とくに写真術を学び、明治維新後武人から写真
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古川俊 |
師へと転身し、日本の写真界の黎明期を生きた人である。司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』にも登場する。
明治維新で困窮した黒田藩は明治四年、藩ぐるみの贋金つくりをもくろみ、それが発覚して罪に問われ、化学者として連座していた俊平も獄にくだった。身分財産を剝脱され、一家は困窮する。俊平は明治七年に免罪となり、その後写真の世界で日本の頂点に立つ。
その長男・古川俊は幼い時に父の失脚にあい母の実家で育った。若くして父の先輩の医師に託され、医学に志すことになる。苦労を重ねたがいくつかの出会いに助けられて、22歳で東京大学医学部別課に入学した。この別課はドイツ医学を導入することを目的とした明治政府が、早急に西洋医学を修得した医師を養成するために開設したものである。
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東京帝国大学医科 明治13年の写真 |
明治十八年に卒業、医術開業免状を取得。助手として東京大学第一医院勤務。明治十九年には、外務省の募集に応じてインチョンの日本領事館内に私立病院を開設。最新の医学を駆使して日本人のみならず、貧しい朝鮮の患者の診療にあたり、おおいに信望を得た。明治二十年には黄海を航行中に難破した清国の船より救助された乗組員9名を不眠不休で治療し全員を救命し、のちに袁世凱より感謝の扁額を受けている。
契約満了後、明治二十一年、俊は福岡に帰り、福岡県立福岡病院外科に勤務した。九州大学医学部の前身である。ここで俊は明治二十二年より「杏林の栞」という会報を発行し、福岡病院を去る明治二十七年まで続けている。この中で、特記すべきは、医師の社会的地位の確立を目指して団結する必要性を強く訴えていることである。医師会の設立の構想はここに始まっていた。
明治二十八年、古川俊は招かれて唐津町立唐津病院に院長として赴任した。
唐津病院の前身は天保七年に小笠原藩によって開設された橘葉医学館であり、明治四年には西洋医学の教育も始
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町立唐津病院跡 新大橋より撮影 |
めている。学校としての橘葉館に付属して治療を施す病院があったようだが、明治九年には経営不振となって長崎県立病院唐津支所(当時、唐津は長崎県に属していた)となり、明治十一年に東松浦郡が誕生するにあたって東松浦郡立唐津病院となった。明治十八年に大名小路の、現在の電電公社の位置に移転している。明治二十二年に町村法が定められて唐津町が正式に発足すると東松浦郡唐津町立唐津病院となった。当時の院長桜井三之助が長崎に移ったあとに、古川俊が院長に就任したというわけである。その後仲間の医師たちを説得して明治三十年東松浦郡医師会を設立、初代会長に選任された。医師会長は大正八年、保利磯次郎(*註)に譲るまで二十余年を務め、医師会の発展のために尽力した。(*註 二代目医師会長・保利磯次郎は、厳木に開業した保利文臺の子であり、春益の曾孫にあたる。地域の小学校に看護婦を常駐させるなど、学校衛生思想を全国に先駆けて提唱した。)
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私立唐津病院の新館落成式 明治31年 |
明治三十一年、俊は契約満了にあたり、町立病院を譲り受けて個人経営に移した。契約書を見ると、2428円7銭7厘で敷地、建物、設備、一切を買っている。本人の年俸の2、3年分ほどの費用であり、高い買い物ではなかったと古川家には伝わっている。 ここに至って、橘葉館の歴史は幕を閉じた。
俊は改築した病院で、腫瘍摘出などの、当時はまだ新しかった開腹手術に腕をふるうなど、外科医としての名声は東松浦郡内に鳴り響いた。
古川俊は大正十年、六十二歳のときに脳軟化症にたおれた。病院は唐津病院の名のままで、酒井並次郎医博に任せて、大正十二年に没した。その後の唐津病院は、大正十二年本城利春(眼科)、昭和四年丸田三好(耳鼻咽喉科)、昭和七年に坂田庸人(眼科)、昭和十三年に岩崎邦夫(眼科)が引き続き開業した。
そののち、唐津病院の敷地の中を新しい道路がとおり、中央橋がかけられた。古川家の土地は市に譲られ、南側の柳濠の土地はいくつかの変遷を経て今また市の土地になり辰巳櫓が建てられ、道路より北側の土地は電電公社のビルが建っている。そのさらに北側の古川家自宅の建物は、服巻医師に所有され今も立派に面影をとどめている。俊の4男4女の子供たちが幸せに成長したこの川べりの家がいつまでも残ってほしいと対岸からながめながら思ったことだった。
古川俊の長男俊勝は明治二十七年に生まれ、二歳より唐津で育ち、唐津中学、五高を経て東京帝国大学医学部入学。大正八年卒業、同時に母校の佐藤外科に入局。大正十一年に大分県立病院外科部長に招かれて東大を去った。昭和八年に県立病院を離れて開業に踏み切った。順風満帆だった時代が戦争によって大きく変わる。昭和二十年に爆撃により病院自宅は焼失。戦後バラックで病院を再開、大分県医師会長に就任したがGHQによるパージで昭和23年退任。
俊勝の長男俊隆も東大医学部卒業だが、結果的に埼玉県岩槻市にて医業に就くことになったので、俊勝夫婦も岩槻に身をよせ、その地で昭和57年に没した。古川家の当代は、医学博士、法学博士のふたつの道に進み、現在は参議院議員として活躍されている。岩槻に医業の系譜は続いているが、古川家の菩提寺は今も唐津市弓鷹町の浄泰寺である。
古川俊が唐津に遺したものは何だったのか、それは私ごときが答えられることではない。おおいに発展を遂げた唐津東松浦医師会に所属される数多くのお医者さま方が御存知のことであろう。
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ヤマトタチバナの実
「古事記」に現れる’ときじくのかぐのこのみ’であり、果皮に薬効がある。
絶滅危惧種になっている。
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今回私は「橘葉医学館」の流れに沿って、保利文溟、草場見節、古川俊各医師を追跡してみたが、資料を探すうちにはからずも多数の今昔の医家たちと出会ったような気がする。料亭も兼ねる宿屋の女将として、医師会のお客さまのお席をつとめさせていただくことも時にあり、唐津、東松浦郡の開業医の先生方は多くを存じ上げている。二代目、三代目のお医者様とお会いすることがあると、いつも先代のお顔が浮かんで来る。また、ご自身の努力で新しく医家を興し、高名を得て、次に継承しようとなさっている方々を見ると、どうぞ末代までも栄えていただきたいと思う。
このたび久しぶりに札の辻公園を訪れた。入口の立て看板に橘葉医学館がここにあった、との簡単な記述があるが、内容の説明がないのが残念である。ここに、碑が建ち、かたわらにヤマトタチバナの木が茂っているなら、どんなにいいだろう。保利文亮、文溟、草場見節、そしてここで学んだ多くの医学徒たちが草葉の陰で喜ぶだろうに。
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