#220 平成30年7月
マイケル・ニコル・ヤグラナス著
「Flight of the Hummingbird」
このページは女将が毎月更新して
唐津のお土産話やとりとめもない
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このたびのアメリカ
~2人のけんか旅、そして、いろんな人生をみつめる旅~
  みなさま、こんにちは。
 5月、6月の50年前のアメリカに続き今回もアメリカ(現在の)で恐縮ですが、このたびは私も同行しましたので、自分で書いております。
18日間の旅でした。私にとって、メインランドは初めてです。アメリカ全土に幾人かの知人友人がいますが、西海岸にしぼりました。脚の悪い私に強行軍は無理ですから。
 観光旅行とはいえ、知人友人を訪ねての旅の記録はとても個人的なものになりますが、よろしかったらおつきあいください。80代半ばと70代半ばの二人旅は、エージェントを頼らず飛行機、ホテル、すべて主人のインターネット予約で、疑い深い私はいつもほんとに予約が取れているかしらとはらはらしながらチェックインするのですが、なんと奇跡的に飛行機もホテルも一つも間違いなく取れていました。
 二人だけで動くときには、目的地に歩いて行きながら、「あら、こっちじゃないですよ、あっちじゃないかしら」 「お前が何がわかるか、黙ってついてこい」 「だってスマホのマップで見ると反対方向のような・・・」 「うるさい、そんなら勝手に行け」 「はい、そうします。ではのちほど現地集合で。お先に」
 現地集合すると盛大な負け惜しみが・・・。「あっちにまわったおかげで、こんな面白い物を見てきたぞ」 「へ~、そうですか、そりゃよろしゅうござんした」
 知人と一緒の時は、もちろん仲むつまじく、ふたりだけの時は仲むつかしく、どうやらやっとこさでこなしたけんか旅は、同時に幾人かのひとの人生をじかに見つめる旅となりました。
 では、どうぞご一緒に。



 サンフランシスコ  
   サンフランシスコといえばまず連れて行かれるのがゴールデンゲイトブリッジ。ツインピークに登って霧で一瞬のうちに橋が隠れたり、霧が風に流されてあっという間に全貌が現れたりするのを見たり、橋の下まで行ってみたり。この海に、写ってはいないけど、あしかがヒョイヒョイ顔を出していました。ここはヒッチコックの映画『めまい』で、キム・ノヴァクが海に飛び込んだところだ、と聞きました。あしか君たちは、美人女優に会ったかしら?
   ゴールデンゲイトブリッジの南端の真下には歴史的な要塞があります。フォート・ポイントは18世紀後半、サンフランシスコ湾の一番狭い部分、ゴールデンゲイトの防備のために建てられ、結局一度も実戦には使われなかったそうです。橋の建設のときには設計を変更してこの歴史遺産は守られました。国の史跡に指定されています。砲門があったり、見張り台があったり、中には兵士の寝るところなどあり、一人一人ベッドがあるわけでなく、長い台の上に詰め詰めに並んで寝ていたようです。幅60cmくらいの粗末なせんべい布団が展示してありました。
   サンフランシスコといえば、坂道とケーブルカーでしょう。実は、200人くらい並んで待っていたので、気が短い誰かさんが「よし、歩いてノブヒルを登るぞ」と言って、脚の悪い誰かさんはなきべそをかきながらえっちらおっちら。それでも登りきってそれなりの達成感は味わったのだけど、帰りも歩くはめになり、その夜は膝がうずいたのでした。
ノブヒルの頂上で「I left my heart in San Francisco」を口ずさみ、我ながら、うまいなあ。チャイナタウンを見た時は「サンフランシスコのチャイナタウン」を歌いました。渡辺はま子!古いねえ。ご存じないでしょうね。
   ゴールデンゲイトブリッジを渡った向こう側のサウサリートに、ありましたよ!なんと!
主人が50年前に行ったナイトクラブ「Trident」が建物そのままでレストランになっていました。当時、キングストントリオの経営だったここには、今も壁にトリオの写真が掛けてありました。
主人は感激してました。その頃、トリオのボブ・シェ-ンと友達で、ここに招待をうけたのでしたから。私たちはここで昼食を食べたのだけど、何を食べたか興奮して覚えていません。大繁盛の店でした。
   フィシャマンズウォーフでは道端でドラムを叩きながら歌う人がいて、道行く人が参加して踊り出す、という陽気さ。国籍をとわず、人種をとわず、次々に踊りの輪にはいっては出て行く、という感じ。
脚がうずいていた私は、自由行動の主人をここで待って1時間くらい座って見てました。ははあ、さっきからずっと踊っていて皆を誘い込む陽気なビッグママ(写真左はしのほうの、横縞のシャツを着ている)は、さては歌ってお金をもらっている人の奥さんだな、と見破ったりして。写真は「YMCA」を踊っているところ。私もベンチに座ったままで腕だけ参加。この頃死んじゃったヒデキを偲びながら、ワ~イエムシーエイ!
   サンフランシスコ郊外のパシフィカ市に住むまあこ・ディバインさんが主人の古い友人。
50年以上も前に、親の反対を押し切ってアメリカ陸軍の将校と結婚しこの地に根をおろしたまあこさんは軍の病院で長く看護助手として働き、今は一人になって海の近くの高台の家に住んでいます。彼女の人生は小説のよう。一人息子のウィリーと中国系アメリカ人の妻バージニアは少し離れた町中に住んでいます。このおうちに4日もお世話になりました。世話好きのまあこさんは、近所の人からも好かれていて、しあわせだと言っていました。
左からバージニア、ウィリー、まあこさん、わたくし。
   ウィリーに招待されたパシフィカのレストランは太平洋を目の前に見て、絶景です。クジラやアシカがすぐそばまで泳ぎより、浜からの投げ釣りで、鮭やシーバスなど、担いで帰るほどの大魚が釣れるそうです。
写真は10時近くなってようやく沈む太陽。この向こう側が日本です。
   サンフランシスコを去る日は、メモリアルデイの前日でした。南北戦争以来、戦死した人々を記念するこの日はアメリカで一番大切にされる祝日です。
この軍の広大な墓地の何万という墓碑の前には、小学校生徒たちが一本一本旗を立てる作業をするそうです。
ここの埋葬者の中には第二次世界大戦の二つの祖国の戦いで犠牲になった日系人もたくさんいると聞きました。まあこさんのご主人がかわいがっていた日系兵士もベトナムで戦死しここに眠るとか。明日は混むからと早めにお参りする遺族をたくさん見ました。
わたしたちは小さな祈りをささげて、この地を去りました。次はポートランドへ。
 ポートランド・オレゴン  
   Powell's City of Booksというのは本屋の名前ですが、一つのブロックを全部一軒の本屋さんが占めています。フロアは全部がフラットではなく、おそらくひとつのブロックの中にあった十軒以上のビルを次々に買っていってつなげて改造したものではないでしょうか。入り組んでいて、色分けをたよりに歩きます。子供の本はオレンジルーム、ミステリーは紫色、とかです。世界一の本屋さんだそうで、中にはカフェや文具店もあり、100万冊の新・古書を蔵しています。ここで記念に本を一冊とノートをひとつ買いました。アメリカ人は今の日本人よりよほどたくさん本を読むような気がします。本を家の飾りとして使います。
   ポートランドの観光名所ワシントンパークには、動物園や水族館、博物館、植物園、日本庭園、バラ園など一日かかってもまわれないほど見どころがありますが、私たちは日本庭園とバラ園を見ました。
日本庭園は見事なもので、5つのブロックに分かれていてよく管理されていました。
   バラ園は世界の珍しい品種を網羅し、新種のコンテストなどがあり、ここを町の人がいかに誇りに思っているかわかります。ポートランドは「バラの都市」という別名を持っていますが、若い娘さんたちが腕や首に真っ赤な一輪のバラのタトゥーを入れているのを多くみました。自分の町を誇りに思って生き生きと地元で働く若い人の多い町だなという印象を持ちました。「住みたい町、全米一」という人気をほこるこの町の人々はとても親切で、道を訊ねると周りの人がみな寄ってきて一斉に教えてくれて結局わからくなるという楽しい町です。ハンバーガーを二個頼むと、それでは多すぎるから一つだけにして半分ずつ食べろ、とウエイターが言う。なるほど、それでも食べきれなかった。
   日本庭園ゾーンの上の山頂に数年前に切り開かれて作られたおもてなしのスペースに立つ建物は、隈研吾の設計によるものです。日本文化の体験教室やギャラリー、売店などがあり、御線香やうちわ、風鈴など売っていました。この建物の向かい側には同じく隈の設計のレストランがあり、30分待ちでようやく入れました。
ポートランドには知人はなく、ホテルで2泊しました。それで誰にも気兼ねせずに大いにケンカしましたさ。そっちじゃないでしょ!さっさと歩け。おひとりでどうぞ!おれは肉を食いたい、わたしはドンブリを食べたい。そんなもの、あるか!ところがあったんですよ。味は?御想像にまかせます。
次はシアトルへ移動。
 シアトルとヴァションアイランド  
   テリー・ウエルチは50年来の親しい友人です。弁護士になるはずが、二十代初めに日本に遊びに来て洋々閣に3か月いたために日本庭園建築家になってしまった人です。長い間のシアトル生活からフェリーで20分のヴァションアイランドに移住しました。島とはいえ、広いもので、うっそうと茂る針葉樹林が高さ4、50メートルにもそびえる中に広大な敷地を買って、森を切り開いて日本庭園を作って、家の中はまるで美術館。主に日本の美術品の収集で、ホノルルの美術館には彼が寄付した屏風や掛け軸がたくさん展示してあります。
私たちがいる間、毎日屏風と掛け軸を変えてくれました!
   盆栽にも趣味があり、毎年秋の京都の盆栽展には必ず顔を出します。
もみじが好きらしく、この木は「シンデショウジョウ」という品種だ、なんて私に説明しますが、そんなことにうとい私は「あら、そうなの」というばかり。
   広い日本庭園をくだって行くと急に土地が下がり始めて急傾斜になり、海へと続きます。この海は入江のピュゼットサウンドです。太平洋からずいぶん奥深く入ってきているこの入江は、氷河がもたらした地形です。
   泉水に見えるこの池は実はスイミングプールです。寒いのにテリーは訪れてきたベンと二人で泳いでいました。人工の滝から落ちる水は循環されていつも澄んでいます。どうやればこんなにきれいに管理できるのか、洋々閣の池で手を焼いているわたしたちはいぶかったものです。これだけ周りに木が多いのに、枯葉一枚落ちていないのです。
   このモミジは盆栽から移したものでしょう。弱った盆栽は地植えすると勢いを取り返すそうです。こうやってテリーは何百年もの命をつなごうと努力しています。
   テリーは以前はシアトルの近くのベルビューに住んでいましたがそこの山の中に30エーカーの広い日本庭園を作っていました。その頃、その地が原住民のスノカルミエ族の聖地だったことを知り、それからはネイティブアメリカンの歴史やアートに興味をもち、今ではノースウエストの民族の、木の皮を裂いて編むバスケットなどもミュージアム以上のコレクションです。
この写真は古いトーテムポールで、スノカルミエ族の守護神ビーバーを現わしています。玄関を入るとこのビーバーが出迎えてくれるのです。
ベルビューの家は気候が寒くてこたえるので、20年まえから造園していたヴァション島の別荘に数年前に引っ越ししました。それでも冬は雨ばかりでうっとおしいので、メキシコにも家を持って冬の間はそちらで暮らします。その間、盆栽守のひとを頼むそうです。
   これは一緒に住むスティーブの菜園です。毎朝ここで野菜を摘み、サラダにします。お花もたくさん。牡丹が見事でした。百合も2メートルくらい背が高い。鹿やラクーンが入ってこないように敷地全体を金網でかこってありますが、愛犬が下を掘ってエスケープをするそうです。むこうは崖なので危ないのに。実際、愛犬ベアが金網の下から崖っぷちへ出てしまって、テリーは足を血まみれにしながら必死で救出しました。
   テリーの友人のクリストファーさんは数年前にテリーに同行して日本旅行に来て、洋々閣にも泊まりました。それ以来日本文化に開眼した彼は裏千家シアトル支部に通いお茶を習っています。今回も私たちをお茶に招待してくれました。
水指は中里隆先生の種子島、主茶碗も隆先生作でした。お手前も見事なもので、感服つかまつりました。お菓子も生菓子の紫陽花でした!島には和菓子やさんがないので、本土の遠くまで買いに行ってくれたらしい。
   インターネットが普及して、どこにいても仕事ができるようになると、この島にも事業家が越してくるようになったそうです。その一人、マイクさんは、とてもとても広い山林を買って実に素敵な家を作り、家具などもデンマークものの最高級。この写真は、彼が自宅から山道をずっと入っていって、少し開けたところに建てた月見台です。野鳥にくわしく、何十種類もの鳥の声を聞き分け、また口笛でまねして、本物の鳥と会話されます。私も聞かせていただきました。マークさんが呼ぶと、遠くのほうから返事が聞こえました。熊も来るそうですが、クマ語を話されるかどうかは聞きそびれました。
   マイクさんは趣味でピアノを弾きますが、セミプロです。島の社交界でオペラのグループやクラッシックのオーケストラやら演劇グループやらができ始めていて この島はいまやセレブの島です。次の週にはマイクさんのコンサートがあるというポスターを街中でみました。
島にはもちろんネイティブアメリカンや日系の方もたくさんいるそうですが、地域が微妙にずれているらしく、ダウンタウンに出なければ道であうこともありません。道であうのは、鹿、リス、森に入ると、熊、ラクーン、クーガーも!
この写真はマークさんのピアノで、19世紀のものです。メイソン&ハムリン!
   テリーはプロ級のバイオリニスト。私たち夫婦のためにコンサートをしてくれました。70歳を過ぎたテリーですが、躍動感あふれるジプシーの曲を弾く時は、50年前、洋々閣の庭の松の間でストラディバリウスを弾いていた若き日のテリーをしのぐほど力強く、バイオリンの調べは森の中で神秘的なほどにうねりました。
   これはマイクさんの菜園。お金持ちは畑さえもデザイナーに設計させるのだと初めて知ってびっくり。野菜はマイクさんが自分で育てます。ディナーも作ってくださいましたが、これもプロのシェフ級でした。デザートのラズベリーパイ!忘れられない味でした。
   やはり島に住むウォーリーとキャシー夫婦は昨年洋々閣に泊まりました。キャシーはいろいろの味のポプコーンを開発して大当たりをとった女性実業家です。ウォーリーもどはずれた金持ちです。この邸宅にはテリーの設計した見事な日本庭園があります。もちろん、泉水のようなプールも。
   富士山のような雪をかぶった山が写真中央にみえますか?名山・マウント・レーニエです。ウォーリーの家の居間から真正面に入江とこの山が見えます。オリンピック山脈も。この景色を気に入ってサンフランシスコから越してきた二人は自然のなかで豊かに、おだやかに暮しながらも、毎日大きなお金が入ってくるそうで・・・ ああ、うらやましい。
   ヴァション島にもいくつかの美術館があり、その一つではたまたま日系人の苦難の歴史を取り上げていました。ここは普通はおそらくネイティブアメリカンを扱うのでしょう。
   どうぞ、ご自分でこの展示の趣旨をお読みください。戦時中の強制収容所に入れられた日系人やその後のこの島で暮らす人々の話です。
   ここでは私は熱心に一人一人の話を読んで、いかに日本人が異国の地を耕して見事な作物を作り上げ、また開戦になるとすべてを取り上げられて収容所に入れられ、劣悪な環境で亡くなるひとも多く、生き残った人たちで日本に帰らずこの地にとどまることを選んだ人は一から畑を耕しなおしたことを知りました。幸いに勤勉な日系人はイチゴ栽培や牧場経営で成功をおさめていて、社会的にも尊敬されているそうです。写真右下の二人の男性はともに苦学しながらも大学で最優秀賞を取り、世界的な活躍をするに至った島出身の日系2世です。
   テリーの家のディナーでスティーブのサラダをたくさん食べました。摘みたてのいろんなハッパを口いっぱいに頬張りながら、自然とともに暮らす豊かさに満ち足りた気持ちでした。テーブル中央の梅の盆栽は江戸時代のもの!うるしのお膳は明治です。サラダ、旬の鮭、アスパラガス、デザートはストロベリー。ワシントン州はイチゴやチェリーで有名ですが、それには日系人が大いに貢献しています。
   夜10時ちかくなってもまだこの写真のように明るいのです。騒音のまったくない、鳥の声だけが空に響く別天地です。
   一夜、島のレストランを貸し切りで、パーティを開いてくれました。皆さん、この何十年の間にテリーが数人ずつ連れてくる日本ツアーで洋々閣に泊まられたかたたちです。なんともセレブで、もうほんと、どうしたらいいか・・・。ワタクシは、おろおろ。お金持ちに慣れていないんですもの。
ほんとうはテリーが計算してみると50人くらい連れてきたそうですが、そのうち20人くらいはもう亡くなられていました。
   シアトル最後の夜はベンのお母様のレアさんのうちにお招ばれ。
高級住宅地の閑静な丘の上に点在する美しい家々。70過ぎてもあでやかなレアさんの審美眼で整えられたおうちは、ためいきをつきながら観て回るほどステキ。見て、見て。一枚板の長いテーブル。自分で材木を選んで作らせたのですって。普段は一人で暮らす未亡人のレアさんが、毎日12人でもすわれるテーブルで、ちゃんと着替えて、キャンドルをともして、フルコースを作って召し上がるのですって。大笑いしたことは、レアさんの日本庭園の松がとなりの家からよくみえるのだそうですが、隣の奥さんが、「あなたのところの松はクネクネしていて姿が悪いから、切ってまっすぐした松に植え替えたら」とおっしゃったそうで。
ちなみにベンは15年ほど前に、テリーの紹介で中里隆先生に弟子入りした青年です。頭が良くって、事業もやり、スタンフォード大学でも何かやり、焼き物も趣味で作っています。ここには写っていないです。写すほうだったので。左からスティーブ、わたくし、中央がテリー、レア、主人です。
次の朝、飛行機でバンクーバーに飛びあっという間に着きました。
 カナダ、バンクーバー  
   ヴァションを一日短縮して6月4日にバンクーバーに入ったのは、その夜にマイケル・オンダーチェさん(写真左)のお話があると知らせていただいたからです。
バンクーバー市の読書週間の催しで、若い作家との対談でした。
「The English Patient」でブッカー賞を20年前に受賞されたのですが、今年、ブッカー賞設立50年記念としてこの50年間の受賞者の中からゴールデンブッカー賞を選ぶのに、5人の最終候補に残られたのです。地元カナダでは人気が沸騰中。
対談は、もちろん、むつかしくて分かりません。わかったふりして、時々フンフンとうなずいたり、聴衆が笑うときには一緒に笑いました。この雰囲気がとても楽しかった!教会で催されましたが、300人以上の聴衆でした。
   ポートランドで買って行ったオンダーチェさんの新刊『Warlight』にサインをいただきました。19年前に洋々閣に泊まられたことを覚えていてくださいました。オンダーチェさんにいただいた石の鳥の彫り物を今も大切に飾っています。
『Warlight』は今話題の小説だそうです。20ページほど読んだところです。戦争を背景としたミステリーのようです。
このトシになると、原書を読むのはくたびれる。早く翻訳が出るといいけど。旅行カバンだけ残して消えた母親はどうなったのか?気になる。少年と一緒に泣き叫びたいわたしです。
   バンクーバー市は近年、さびれた工場地帯を利用して巨大な市場を作りました。工場の建物をうまく利用し、マーケット、美術館、いろいろな教室・・・、レストラン、カフェ、何でも売ってないものがない・・・。無機質だった、錆びてさえいた、工場の建物群に、アートが施され、しゃれた改装がなされて、歩くだけでも楽しい町になっています。
大人気で、去年一年の集客数はナイヤガラを上回ったそうです。地元客を見込んだ市場だったのが、うれしい誤算で、世界中からの観光客がいっぱいだそうです。よその国の生活を見るって楽しいですものね。
   バンクーバーにも孫文の足跡がありました。記念館の碑です。
うちに孫文の書がある関係で、孫文といえば行ってみるのです。
   孫文記念庭園は中国式のみごとな庭園です。
   写真左から2番目のメラニーさんは、映画会社につとめています。大の日本好き。スコセッシ監督が遠藤周作の『沈黙』を最近撮られた時には、下調べに長崎西海地方をメラニーさんが廻って写真で報告したそうです。カナダでは映画産業は今でも盛況です。この日はメラニーさんが自宅でのディナーに招待してくださいました。お料理上手で、写真に写っている赤カブのスープは絶品でした。おかわりがほしいくらい。正面にいる男性はジム・バーンズさんで、カナダで有名なブルース歌手です。アメリカのセントルイス出身。数年前事故で両脚を切断されましたが、立ち直ってツアーにも行ってこられ、ニューアルバムも出されたところです。シブイでしょう? 日本でもCDが買えます。
   バンクーバーでは2泊はホテルに泊まりました。主人がネットで探したこのホテルは、政府と何かの協会が資金を出してネイティブカナディアンの支援をしています。ハイダ民族の人々がホテルを運営し、1階が売店ギャラリーとレストラン、談話室、ホテルフロント。2,3,4階はアパートになっていて、支援を受けるネイティブのアーティストたちが住みこんで、木彫、絵画、染色、織物などを学んだり制作したり。5,6階だけがホテル客室で11室のみ。ひとへやひとへやがハイダのアートでデザインされていて、詩的な名前がついているのです。私たちの部屋はクジラがモチーフで、私はクジラの群れに囲まれて深海で不思議な安眠を得ました。ギャラリーでハイダアートのショールと、グリーティングカードを数枚買いました。木彫りのクジラが欲しかったけど、重くて持って帰れません。
   UBC(University of British Columbia)のMOA(Museum of Anthropology)人類学博物館では、ネイティブカナディアン、主にハイダ民族の展示を見ました。ボランティアらしい白人高齢女性がガイドをしておられて、優しい語り口で、昔この人々がどのように暮していたか、また、白人が入ってきてからは略奪を受け、どのような生を強いられたかを淡々と話してくださいました。つらい話を静かに話されると、かえって胸に迫りますね。今は先住民族への理解も高まり、ハイダの人々が住む島も、クィーン・シャーロット島からハイダ・グアイと名前が戻ったそうです。
   この巨大な木彫は、ハイダ民族の国造り神話です。ある時、大ガラス(レイブン)が飛んでいると砂浜に大きな貝が見えたので降りてみたら中にたくさん人間がいて、これがハイダの祖だそうです。
杉やヒノキの巨木がうっそうと繁るノースウエストのネイティブたちはカヌーを作り海に出て豊かに過ごしていたのでしょう。クジラ、オットセイ、鮭、熊、大ガラス、などがハイダアートのモチーフに多いようです。死者を埋葬すると高さ何十メートルもあるメモリアル・ポールを建てました。白人が来る前は、しあわせだったんだろうなと思いました。
   マイケル・ニコル・ヤグラナスさんは、ハイダ民族の血をひいた画家であり、詩人です。ずいぶん前に日本で「ハチドリ」という本を出して、評判になりました。近年は日本のマンガの手法を使って、絵をつないでいって吹き出しでセリフをつけてストーリーを表す「ハイダ・マンガ」で世界的な評価を受けておられます。人類学博物館にも彼のハイダ・アートのパネルの展示がありました。右端のポールについているハンドルを回すことでパネルが回転してちがった絵が現れます。
   バンクーバーでは主人の友人、坂田道子さんのご自宅に2泊泊めていただきました。道子さんは50年以上前に単身渡米して国際連合で働かれました。アメリカ人と結婚され、国連に永く勤務されて、日本から国連に来る要人たちをアテンドされました。退職後カナダに移られ、バンクーバーの森の中に不思議な木造の家を建てて住んでおられます。道路から入った玄関が実は最上階で、そこから急斜面の崖に建った家が下に下に4層になって渓谷近くまで降りていくのです。一夕、上述のマイケル・ヤグラナスさんをお迎えしてとても楽しいディナーでした。ヤグラナスさん御夫妻が洋々閣に泊まられたのはつい昨年のことです。私がハイダホテルで買ったショールをかけていましたらすぐに気がつかれて喜んでくださって、この絵は鯨だよ、と教えてくださいました。
日本大好きなマイケルさんは、トンボ帰りで歌舞伎を見に行かれるそうです。今気になっておられるのが、青森のねぶたの絵と数代前に北海道で消息を絶った、ハイダアートをよくした自分の祖先の一人との関係です。絶対に関連がある、調べる、と意気込んでおられました。どなたかご存じでしたら教えてください。
   道子さんは70代後半とは思えないバイタリティーで、とても魅力的な女性です。カナダの名士たちと親しく、おつきあいの広いことは驚くばかりです。世界を飛び回っておられます。
私のほうが若いのに、母と娘に見えますでしょう。え?おばあさんと孫に見える?それはあんまり私がかわいそう。
   バンクーバー最後の日には北のほうに一時間ほどドライブしてスクワミッシュ民族の土地に連れて行ってくださいました。4,5年前に、ものすごい高い岩山にゴンドラがかかったそうで、そこからスクアミッシュの住んでいた土地を見晴らせます。
ゴンドラから真下を見ると森の中に熊が見えるそうで、探したけどこの日はくまさん、出てきてくれなかった。
入江にクジラも見える時があるそうですが、やはり、見えなかった。
   ゴンドラの頂上から隣の峰に長いつり橋がかかっていて、道子さんにはげまされてチャレンジしました。そろそろ、そろそろ、手すりにつかまって長い時間かかって渡りました。恐怖で心臓がバクバクして夜までおさまりませんでしたよ。だって、揺れるんだよ、しかも帰りも渡らなくちゃいけなかった。それを忘れてうっかり渡ってしまった。
   山上のこの説明によると1906年にはチーフのカピラノが沿岸のチーフたちを伴って、白人に奪われて植民地にされたスクワミッシュの領土をかえしてほしいと、国王エドワード7世に会いにロンドンまで行ったそうです。ここでも先住民の悲しみをみました。
次の日の朝、バンクーバーを去って韓国・インチョンへ。
 韓国・インチョン  
   トランジットでインチョン空港のホテルで一泊してから福岡へ帰ります。韓国人の息子・キム・テヨン(昔うちに11年ほどホームステイして学校に行った)と家族が迎えに来てくれてその日は一緒に泊まりました。夜は一日遅れの私のバースデイ・パーティー。誕生日は日付け変更線のために空の上で消滅したのです。7歳の孫娘ヒョビンは、言いたい言葉をホテルのパソコンでひとりで検索して発音まで聞いて覚えて、日本語で話しました。驚きますね、いまどきの子供は。
こういうふうに、この旅は終わりました。
いろんな人生を見て、生きるとは、民族とはなんだろうかと思ったりした旅でした。ありがとう、みなさん。
     
 

『ハチドリ』より
 
個人的な旅行におつきあいいただき、ありがとうございました。
私たちはのんびりと楽しんできましたが、その間にも世の中には大阪の地震などつらいことがあふれていて、自分が何の役にもたたないことが悲しいです。ヤグラナスさんの本、『ハチドリ』の中で、ジャングルの火事を消そうと、クチバシに含んだ一滴の水を何度も何度も繰り返し運ぶハチドリが描かれています。そんなことしても役に立たないといわれても、ハチドリは一滴の水を運び続けます。ハチドリが言ったことば。「私は私にできることをしているのです」(
I am doing what I can.)
偶然にもこの旅行でレアさんのうちの庭で花にたわむれる小さな小さなハチドリを見ました。思い出すたびに、何か自分のやれることをしろ、と言われる気がします。何もやれないとしたら、たとえば、ひとのために涙を一滴流すだけでもいいのではないでしょうか。
また来月、自分のやれることで書いてみます。

今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                             
洋々閣 女将 大河内はるみ
   
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