#209 平成29年8月


2017.7.22唐津市和多田
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ある戦死
―永井幹幸氏の場合―


 毎年8月になると重いテーマで書いております。今回はある一人の兵士の戦死の公報のおはなしです。
海軍上等兵曹 永井幹幸(ながいもとゆき)というのがその戦死者です。
永井幹幸兵曹は唐津市呼子町(当時は東松浦郡呼子町)の永井酒店の息子でした。8男4女の10番目の子であり、7男。大正8年10月9日に生まれています。一番上の兄・等は東唐津の洋々閣の大河内家に養子に入っておりまして、在郷軍人の分団長などをしていました。主人の父です。ですから、幹幸氏は私の主人の叔父にあたります。
 戦死の公報が来たのは昭和二十三年三月十五日の日付けです。昭和二十年八月の終戦から3年近く経っていることにまず驚きます。それまで家族はどんな思いで復員を待っていたことでしょう。嫁取りもまだだった24歳の息子の死を老いた両親はどう受け止めたのでしょうか。
ではまず、公報の内容からご覧ください。
 
 世二復第四十九号
昭和二十三年三月十五日
                                  佐賀縣知事  沖森源一  印

永井磯五郎殿

御令息 永井幹幸殿には昭和十九年六月七日 東部ニューギニアに於いて戦死(認定)せられましたので茲に公報を差上ぐると共に謹んで御悔み申し上げます
 
                                 海軍上等兵曹 永井幹幸
第105防空隊附として「ニューギニア」方面の作戦に参加「ビアク」島に於いて昭和十九年五月上旬以来敵上陸軍を邀え勇戦奮闘したが戦況次第に不利に陥るに及んで連日肉迫斬込を敢行、部隊の殆ど全員戦死の為最後の消息は詳でないが、当時同方面の戦況に照し戦闘特に熾烈を極めた昭和十九年六月七日壮烈なる戦死を遂げたものと認定
  この公報にもう一枚知事からの手紙がついているのです。 句読点が少し今と違って読みつらいのと、旧字体が多いので少々むつかしいです。漢字の旧字体を探しきれなくて今の字で入力したのもあります。お許しください。

 昭和23年3月15日
  佐賀縣知事 沖森源一   印
永井磯五郎殿

御令息永井幹幸殿 昭和十九年六月七日 東部ニューギニア方面において御戦死と認定發表致しましたが毎日御帰還を待っておられた御遺族のお気持ちをお察し致しますと何と申上げようも無く特に最後の模様を確認し得ないことは洵に心苦しい限に存じております、當部と致しましては故人の奮戰振りなり最後の状況を御伝えしたいと思い手段を盡して八方調査致しましたが遺憾ながら最後を確認した者が生存せずこれ以上その実状を究明し得る見込も無くなりましたのでやむなく所属部隊の戦斗状況から推して御通知申し上た通り壮烈な最後を遂げられたものと認定公表致しました次第であります
戦没認定は法規に拠るものでありますが之を行うのは凡そ次の如きやむを得ない場合であります
 一 全員玉砕のため状況確認出来ない場合
 二 生存者があるが各個人としては全般の状況は勿論戦友の消息について記憶もない場合(非常に困難な状況の下では他をかえりみる余裕なぞ全然なく気がついてみたら自分だけが九死に一生を得ておったと云ふ例が極めて多いのであります)
此の様な部隊の処理をするために各部隊毎に生存者の中から残務整理員が決められ相集って各人の承知している点を綜合整理し戦友のため献身的に調査も致しております、これに当る様な適当の生存者のない部隊ではその上級司令部か或いはその部隊の事情に最も詳しい者が整理に当たりいろいろな方法で当時の状況を逐一究明致しております、当部と致しましては此の残務整理員の報告の外戦時中から今日迄に入手した一切の報告や情報を蒐集して調査に努め尚第二復員局主催の全国的な会議において資料の総合整備を行ひ各部隊個人別に調査を遂げた上でその都度認定公表致しておるのであります、もともと軍人軍属の身上については細大となく部隊長(部隊長が殪れたならば順次その任務を継承する者)から報告することになっており各人事部では何十萬という個人別の精確な履歴原票を備えて必要な一切の事項を記入して常に各人の身上を明らかにしておき、その取扱は慎重厳格に行はれておったのでありますが、戦争末期から玉砕或いは部隊の幹部全滅等のためその報告の出来ない部隊が出来て参り引続く敗戦後の困難な事態はいろいろな理由から人事処理をいよいよ難しくしたのであります、このため前述の様な方法をとって現在の我々に許される限りの手段を盡し慎重に処理しておるのでありますが敗戦後此の種の事務はあらゆる方面に於いて非常なる不便と困難に逢着し現地に於いて調査する等のことも勿論許されないため遺憾ながら部隊によっては尚不明の点が多く最後の情報を詳報出来ないのを洵に心外に存じます
御遺族の中には確認できる迄消息不明の儘にしておいて貰いたいとゆう御希望もありますが御承知の通り現地からの帰還は各地域別に逐次完了しておりますし残留者の氏名も特殊の地域を除いて判明して参りましたので前述のような究明を遂げた上で公表の手続きをとっておるのでありまして今後尚待っておれば詳しい情報が得られる見込の地域について過早の認定を行うことはないのでありますから御諒解を願います 早く発表することは大部の御遺族の御希望で御座居ますし復員関係事務の迅速完了は我国の特種な状態からしてもいろいろな点からこの要求があるのでありまして極力その趣旨で努力しております。唯事柄は極めて重大でありまして、かりそめにも慎重を欠いては英霊に対し申訳がありませんので出来る限りの手段をつくして実相の究明を期しそのため思ふ様に迅速に処理できかねるものがあることも御諒察願います 以上認定について一応の事情説明申し上ぐる次第であります  (終)



     呼子港

 呼子 つしまや酒店で生まれ育った。


 つしまやは築250年を超える建物である。


 ある夏の夕べの呼子港

永井幹幸アルバムより


友人と。



山東大学と書いてある。



昭和13年 新兵として
佐世保海兵団の帽子



 
父と。南京にて。昭和13年



この写真の時はもう
海軍上等兵曹だったろうか?




これは、演習?実戦?



若くて散った命だったけれども
仲間と一緒に芸者を呼んで遊ぶということもあったようで、
「楽しかった?よかったね」と言ってあげたい。


  いかがお読みになりましたか? どういう感想をお持ちになりましたことでしょうか。
 永井磯五郎・げん夫妻
もちろん、この手紙は名前と日時と方面名とだけを手書きで書きこみ、あとは印刷してあった形式ですから、永井幹幸氏だけのために書かれたものではありません。同じ文章をもらった佐賀県内の遺族がたくさんあったということでしょう。愛する者の戦死をこれで納得したのか、諦めが勝ったのか、その御時世では不服など言えなかったのか、どちらの戦没者遺族も無言でいらっしゃったことと拝察します。左の写真は幹幸氏の両親です。まだ幹幸氏が生存中の写真で、幹幸氏のアルバムに貼ってあったものです。
たくさんの若者が散華したあの夏は、もう70年以上も前のこととはいえ、また再び戦前が近づいてきていないといいきれるのでしょうか。
世界のあちこちに恐ろしい人たちがいて、深い考えもなくボタンを押すのではないかと、不安を感じます。

九州は7月に大雨の被害でたくさんの犠牲者がでました。大雨でさえも地球環境を変えたのは人間の罪かもしれず、蓮の花の開く夜明けにひとり普門品を誦む老女でございます。

来月またお目にかかります。猛暑を御無事で過ごされますように。






今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                             
洋々閣 女将 大河内はるみ

 

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