#208 平成29年7月

このページは女将が毎月更新して
唐津のお土産話やとりとめもない
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アー マヰラウヤナーア
パライゾーノテラヘハ マヰラウヤナーア
パライゾーノテラトハ マヲスルヤナーア
ヒロイテラトハ マヲスルヤナーア
ヒロイセバイハ ワガムネニアルゾヤナー

           生月島 歌オラショ


~馬渡島のカクレキリシタン、そして西海へ~


 皆さん、こんにちは。お元気ですか?
私は今月もなんとかこのページを更新しようと老骨に鞭打ってるところでございます。
今回は、カクレキリシタンのことを少し書いてみようと思います。もちろん、学者ではありませんので、専門的な論文ではありません。あくまでも、ひとりごとと思ってくださって、おひまつぶしにおとどめくださいませ。
  唐津市鎮西町の沖合、馬渡島(まだらしま)につきましては、以前に松尾邦久氏によるレポートをご覧いただきました。『馬渡島写真紀行』
今回、増本古書店様より、貴重な本を入手いたしました。昭和10年に、島の小学校長・彌富忠六氏が書かれて馬渡島尋常小学校から発行された50ページの冊子『馬渡島』です。そこから、キリシタンの部落、新村に関する描写を抜粋します。
 

 
 冊子 『馬渡島』 昭和10年刊
 昭和10年当時、この島の人口は1150人(ただし、後述の部落別人口を足し算すると、ふしぎにあわないのですが。)部落別にいえば、本村と呼ばれる仏教徒の住む宮ノ本区には71戸414人、新村の天主教徒の住む二タ松区、野中区合わせて116戸、746人。すなわち、この当時この島には仏教徒よりはるかに多い天主教徒が住んでいたのです。部落は二つの宗教ではっきり区別され、ほとんど付き合いもなかったようです。
 
  年中行事なども新村では太陽暦で元旦の早朝よりミサにあずかり聖体を拝領します。家には門松、しめ縄などはなく、雑煮あるいは「ふくらかしまんじゅう」などを食して祝います。
 毎日曜日は主日といって、天主堂に集まりミサがあります。日曜日に働くときには神父の許可がないといけないという祝日です。
 4月21日 復活祭 
 5月30日 主の昇天された日。
 8月15日 聖母の昇天と復活を祝賀する日。
 11月1日 諸聖人の祝日。
 12月25日 主の御降誕。
 2月23日 聖マチア使徒の前日など、年34回ほど小斎日として、鳥獣類と魚類を一緒に食するのを許されないそうです。
 
 また、罪となることをした場合は、教会に参って「告悔」をなして罪の許しを受けます。

 婚姻は仲人をたてて申し入れ、相談がまとまれば神父に届け出て、神父は詳しい戸籍を管理しているので近親でないことを確認し、日曜のミサの後に布令をだします。日曜日ごとに3回布令して異議がない場合は許可され、天主堂にて神父の司式のもと結婚がととのいます。昭和10年のこの冊子に、「新郎は新婦の指に指輪をはむ」と書いてあって、決して豊かな暮らしでなかったでしょうに、ずいぶん進んでいたんだなと驚きもしました。神が結びたもうた縁なので、離婚は決して許されないのは、今のカトリックと同じですね。
 
 出産には親戚の女が加勢し、生まれて3日以内に赤子を抱いて天主堂に参り、洗礼を受けます。抱く人は赤子の将来を世話する人で、「抱き親」と言われます。当日は赤子の霊名を神父に届け出るそうです。
神父からつけてもらうのでなく、自分の方でつけるということには少し驚きました。

 
 
 馬渡島 
病人が危篤になると神父を迎えて最後の告悔をして心安らかに死に赴きます。葬式には信者ほとんどが喪家に赴き、道々十字架を先頭に立てて祈りを捧げ、天主堂に入って葬式を行います。火葬は決してせずに土葬します。家の墓というものはなく、墓地の中央に道があり、左は女、右は男で亡くなった順に埋めていくので、親子夫婦一緒ということにはならないそうです。

 では、そもそもどうしてこの馬渡島がカクレキリシタンの島になったかということについてのこの冊子の説明はこうです。

 昭和10年(この冊子の著された時)より104年ほど前に、有右衛門という人が移住してきました。長崎の黒崎村の出身で、田平、今福を経てここに移り住んだそうです。妻と、子の勘兵衛、その妻ナセ、孫・元助ほか2人、計7人の移住であったよし。その後有右衛門を頼って次々に移住者があり、孫には極秘で信仰をつたえたが、神主の娘であった嫁のナセには死ぬまでキリシタンの秘密を通したとのこと。
当時、小笠原藩はうすうす感じながらも寛大であったらしい。名護屋の波戸に呼び出されて踏絵も踏まされたが、踏んで、島に戻ってからお詫びの祈りをささげたそうである。そんなこともあったんですね。
 「信仰を維持するためには一切無抵抗で、いかなる圧迫も迫害も忍んだ。知らずに信ぜざる者の罪は軽いが、知り且つ信じて後に棄てる罪は特に深いからインヘルノ(地獄)の極罰を免れない。無限の呵責苦患が一時的迫害殺害に逢うのと同日の談でないことを信じているので、マルチル(殉教)の覚悟は信者の遵奉する最後の信念である。マルチルとなるのは畢竟デウスの御思し召しであって光栄をになうのであるから、謙孫で常に信と善とに励むものが選ばれるのである。それゆえに迫害に逢うときは一心にゼウスを念じて一切を神慮にお任せするのが肝要である。・・・・・」 と、こういう記述であります。

 明治6年2月24日には明治天皇の御仁政により信教の自由をゆるされ、天主堂を建てて公に礼拝せし時、「彼らは何物にも例えようのない喜びであった」とこの冊子は述べています。
 
 幸いこの島では拷問を受けて棄教させられたり、殉教してパライゾーへ旅立った信者についての記録はないようです。長崎から距離があり、パードレやイルマンの
 
 馬渡島 カトリック教会
潜伏もなかったために何とか追手を逃れたのでしょうか。また誰かの方便で、踏絵はいったん踏んで、あとから神に謝るという生きる知恵があったからでしょうか。



 私は船に弱いため、いまだにこの島の土を踏んでいません。美
 
 二十六聖人記念碑 (長崎)
しい教会が明治になってからできているのですから、そのうち、ぜひとも行ってみたいものです。20年来の念願です。ちなみに2017年5月末の島の人口は354人だそうです。カトリック教徒の人数はわからないとのことでした。

唐津には他に、近松寺にキリシタン燈籠といわれる織部燈籠が2基あり、もっと以前の寺沢の代には城主の弟、半三郎が二十六聖人の殉教のみちのりの途中に唐津に寄った時に監督官として長崎まで送って行った話や、その時になにかと好意的に待遇した様子があり、何が何でも潜伏したキリシタンを見つけ出して迫害したという感じではないようです。寺沢の時代に起こった島原の乱のときには、天草が唐津藩領であったために、残党が名護屋城跡にたてこもるのをふせごうと、城の石垣が切り崩されました。近年修復されるまで、大きな石がごろごろと地すべりのように落ちていました。寺沢家がとりつぶされる一つの原因にもなった事件です。

 馬渡島に行けない私は、かわりにこの6月に西海(長崎県西海市)に行ってきました。リアス式の海岸と小さな島々がロザリオの珠のようにつながるいくつかの湾にそって、多くの殉教の物語が残っています。遠藤周作の『沈黙』と、濱口賢治著『西海の聖者・小説・中浦ジュリアン』の2冊を手に、主に西海市の殉教の遺跡を回ってきました。
 どうぞご一緒にパライゾーの寺を探しに行きましょう。写真は私の携帯で撮りましたので、上手でなくてごめんなさい。



   殉教碑の立つ山の上から小干浦の湾が見える。この海で殉教した人たちがいたことが信じられないほどおだやかな海だ。(西海市西彼町小干浦)
海の中に杭を立てて磔刑にし、潮の満ち引きで何日も苦しみ、息絶えて行った人々がいたのだ。

「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです。」遠藤周作『沈黙』より
 1624年7月17日、小干浦で殉教したトマス四五郎左衛門72才と、その子ドミンゴ与介37才の二人については、昭和40年に長崎市郊外で竹藪の伐採のときに発見された青銅板にスペイン語で書かれた内容から詳細がわかり、昭和45年7月17日、死後、346年のちにこの碑の中に遺骨を埋葬された。殉教のキリシタンの遺骨が確認されたのは、この二人が初めての例である。
青銅板は長崎の二十六聖人記念館に展示してあるそうだ。

「果報なる哉。今よりデウスのために死する者・・・」
 
   西海市西彼町平原郷のキリシタン墓地の登り口。
遺跡はたいがい山の上にあり、苔むした登り道はあまり人がいかないようだ。私も杖をたよりにあえぎながら登った。
 平原開拓の相川家一族のうち、相川勘解由左衛門尉藤原義武の墓とされている。
花菱のような紋・花クルスの上に I.N.R.I. と刻されていて、
Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum
ユダヤの王、ナザレのイエスという意味だそうだ。
まだ迫害がはじまる前はこのように堂々とキリシタン墓碑を立てた時代があったのだと、感慨深く眺めた。

 
   西海市中浦町の中浦ジュリアン出生の地を訪ねる。
大村氏の家臣、小佐々氏の一族で中浦の領主であった中浦甚五郎の子・甚吾少年は1579年に日本に来たアレッサンドロ・ヴァリアーノ神父の開いたセミナリオでキリシタン大名の子息たちとともにまなんだ。
まだ迫害される前の話である。
中浦ジュリアン (1567頃-1633)
 
 
ヴァリアーノ神父はローマへの使節団を計画し、3人のキリシタン大名の名代として千々和ミゲル、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンの4名が選ばれた。13歳から15歳の少年たちは使命に胸を膨らませて出発したことだろう。
使節団は1582年2月20日に長崎を出航し、長い危険な航海を経てヨーロッパに到着、いくつかの国を訪問してローマに至った。音楽や印刷技術などを学んで帰国の途につく。
15歳から8年にわたる旅でジュリアンは大きく成長し、信仰を深めた。1590年7月21日に長崎に戻る。

画像は、中浦ジュリアン記念館の中の壁画で、ヴァリアーノ神父とセミナリオで学ぶ子供たち。
 
   「天正遣欧少年使節団」の一人としてローマに到着したジュリアンは伝染病に罹り教皇への謁見があやぶまれたが、かえって一人だけ先にお目通りがかない、教皇グレゴリウス13世は病気のジュリアンをいたわり、その直後のご自身の死の床でもジュリアンを案じられたという。
同じく、記念館の壁画より。
 天正18年(1590年)、日本に戻った使節団は1591年に聚楽第で秀吉と謁見。洋樂を演奏している。
その後秀吉の仕官の誘いをことわって天草の修練院に入り、1601年にはマカオのコレジオにて神学の高等課程を学び、1608年に司祭に叙階された。
1613年にキリシタン弾圧が始まり、地下に潜伏して九州各地を回って迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていた。1632年、ついに小倉で補縛され、長崎に送られ、穴吊りの拷問を受け、4日目の10月21日に殉教した。65歳であった。棄教を勧める役人に最期に言い残した言葉は、「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」という毅然たる言葉であった。同時に拷問を受けた数人の司祭たちのうち最高位のフェレイラ神父は『沈黙』の主人公・ロドリゴ神父が後に日本に潜入して来て探しまわった師であるが、このときフェレイラ一人が棄教している。なぜ、フェレイラはころんだか、それは、『沈黙』をお読みください。
 
   国道202号、通称サンセットロード沿いにある中浦ジュリアン記念公園の中の記念館。上掲の壁画が資料館の中の四方の壁を飾って、ジュリアンの一生を説明している。西海市西海町中浦南郷2048番地。
 中浦ジュリアン顕彰碑。丸い台は地球をかたどり、ヨーロッパ諸国、ローマやマカオなど、ジュリアンがたどった足跡を刻してある。上部は帆のように見えるものの中に十字がある。
 
   記念館の屋上に登れば、遠くを指さすジュリアン少年の像が唇を引き結んで立っている。指し示すのはパライソだろうか。
 記念館横に紫陽花と枇杷の実が盛りだった。
平成29年6月8日訪問。入梅の直前。

 中浦の枇杷ひとつ摘み碑に置きぬ
            殉教の喉うるほし給へ
 


 私自身はカトリック教徒ではありません。でも、イエズス会が設立した学校で学んだためか恩師や友人に神父様やカトリック信者が多いのです。ですから、たしか大学3年の時に『沈黙』が発表されて、とても真剣にこの本を読みました。昨年ふたたび外国人監督マーティン・スコセッシ氏の手で映画化されたそうですから、どこまででも見に行こうと日本での封切りを待っています。

 2008年11月24日に、中浦ジュリアンは殉教後375年にして法王ベネディクト16世により「福者」に列せられました。これって、大変なことなんですね。聖人の次ですから。でも、西海町のジュリン記念館にはそのことが説明してなかったように思います。私が見落としたのかも知れませんが。その記念館でジュリアンが書いたポルトガル語の美しい筆跡の手紙を見ました。教皇への感謝と迫害の中で守り抜く信仰への誓いだそうです。原本はやはり二十六聖人記念館にあるそうです。

 2017年初夏、キリシタンの歴史と悲劇にみちた長崎西海地方を歩いて、忘れられない一日となりました。今回足を延ばせなかった遠藤周作記念館や、ド・ロ神父の記念館など、まだたくさん見たいところがあります。そのうち御一緒いたしましょう。 ご平安をいのります。
 
 今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                             
洋々閣 女将 大河内はるみ
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