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殉教碑の立つ山の上から小干浦の湾が見える。この海で殉教した人たちがいたことが信じられないほどおだやかな海だ。(西海市西彼町小干浦)
海の中に杭を立てて磔刑にし、潮の満ち引きで何日も苦しみ、息絶えて行った人々がいたのだ。
「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです。」遠藤周作『沈黙』より |
1624年7月17日、小干浦で殉教したトマス四五郎左衛門72才と、その子ドミンゴ与介37才の二人については、昭和40年に長崎市郊外で竹藪の伐採のときに発見された青銅板にスペイン語で書かれた内容から詳細がわかり、昭和45年7月17日、死後、346年のちにこの碑の中に遺骨を埋葬された。殉教のキリシタンの遺骨が確認されたのは、この二人が初めての例である。
青銅板は長崎の二十六聖人記念館に展示してあるそうだ。
「果報なる哉。今よりデウスのために死する者・・・」 |
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西海市西彼町平原郷のキリシタン墓地の登り口。
遺跡はたいがい山の上にあり、苔むした登り道はあまり人がいかないようだ。私も杖をたよりにあえぎながら登った。 |
平原開拓の相川家一族のうち、相川勘解由左衛門尉藤原義武の墓とされている。
花菱のような紋・花クルスの上に I.N.R.I. と刻されていて、
Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum
ユダヤの王、ナザレのイエスという意味だそうだ。
まだ迫害がはじまる前はこのように堂々とキリシタン墓碑を立てた時代があったのだと、感慨深く眺めた。
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西海市中浦町の中浦ジュリアン出生の地を訪ねる。
大村氏の家臣、小佐々氏の一族で中浦の領主であった中浦甚五郎の子・甚吾少年は1579年に日本に来たアレッサンドロ・ヴァリアーノ神父の開いたセミナリオでキリシタン大名の子息たちとともにまなんだ。
まだ迫害される前の話である。
中浦ジュリアン (1567頃-1633) |
ヴァリアーノ神父はローマへの使節団を計画し、3人のキリシタン大名の名代として千々和ミゲル、伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアンの4名が選ばれた。13歳から15歳の少年たちは使命に胸を膨らませて出発したことだろう。
使節団は1582年2月20日に長崎を出航し、長い危険な航海を経てヨーロッパに到着、いくつかの国を訪問してローマに至った。音楽や印刷技術などを学んで帰国の途につく。
15歳から8年にわたる旅でジュリアンは大きく成長し、信仰を深めた。1590年7月21日に長崎に戻る。
画像は、中浦ジュリアン記念館の中の壁画で、ヴァリアーノ神父とセミナリオで学ぶ子供たち。
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「天正遣欧少年使節団」の一人としてローマに到着したジュリアンは伝染病に罹り教皇への謁見があやぶまれたが、かえって一人だけ先にお目通りがかない、教皇グレゴリウス13世は病気のジュリアンをいたわり、その直後のご自身の死の床でもジュリアンを案じられたという。
同じく、記念館の壁画より。 |
天正18年(1590年)、日本に戻った使節団は1591年に聚楽第で秀吉と謁見。洋樂を演奏している。
その後秀吉の仕官の誘いをことわって天草の修練院に入り、1601年にはマカオのコレジオにて神学の高等課程を学び、1608年に司祭に叙階された。
1613年にキリシタン弾圧が始まり、地下に潜伏して九州各地を回って迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていた。1632年、ついに小倉で補縛され、長崎に送られ、穴吊りの拷問を受け、4日目の10月21日に殉教した。65歳であった。棄教を勧める役人に最期に言い残した言葉は、「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」という毅然たる言葉であった。同時に拷問を受けた数人の司祭たちのうち最高位のフェレイラ神父は『沈黙』の主人公・ロドリゴ神父が後に日本に潜入して来て探しまわった師であるが、このときフェレイラ一人が棄教している。なぜ、フェレイラはころんだか、それは、『沈黙』をお読みください。 |
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国道202号、通称サンセットロード沿いにある中浦ジュリアン記念公園の中の記念館。上掲の壁画が資料館の中の四方の壁を飾って、ジュリアンの一生を説明している。西海市西海町中浦南郷2048番地。 |
中浦ジュリアン顕彰碑。丸い台は地球をかたどり、ヨーロッパ諸国、ローマやマカオなど、ジュリアンがたどった足跡を刻してある。上部は帆のように見えるものの中に十字がある。
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記念館の屋上に登れば、遠くを指さすジュリアン少年の像が唇を引き結んで立っている。指し示すのはパライソだろうか。 |
記念館横に紫陽花と枇杷の実が盛りだった。
平成29年6月8日訪問。入梅の直前。
中浦の枇杷ひとつ摘み碑に置きぬ
殉教の喉うるほし給へ |
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