#207 平成29年6月

目出鯛
当日の料理の一つ
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唐津のお土産話やとりとめもない
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~その言や 善し~
中里隆先生の傘寿


 梅雨の季節となりました。ジメジメをからからと笑って吹き飛ばすページにしたいと思います。楽しんでいただけると幸いです。



 
 我等が中里隆先生はこの5月で傘寿を迎えられました。
親交のある能楽師・大槻文蔵先生(人間国宝)が云い出されて、5月13日に洋々閣で祝賀会を催すことになりました。昨年の11月から準備してついに迎えた本番は、お天気に恵まれ盛大な会になりました。

 いちばん印象的な言葉は隆先生が謝辞で云われたことです。
「親父(故・十二代中里太郎衛門=人間国宝、中里無庵)が80歳のときには、人畜無害の生き物になっておったけれども、僕はまだ、野に放たれれば人畜無害たりえず、何をするかわからんのです。暴れるかもしれんです」
大きな喝采が起こり、笑いが渦巻きました。なんだか皆、幸福な気持ちになりました。いかにも老人の格式ばった挨拶より、「何をするかわからん」という危険な発言は、げに痛快じゃございませんか。「其の言や、善し」という言葉を思い出しました。

 では、写真をたくさんつけますので、一緒に隆先生の傘寿を祝ってください。
撮影はプロカメラマンの飯田安国氏です。ラッキー! ただし、会が進むにつれてヤスクニ氏が酔っ払って、カメラが目が回っているのもあるかも知れませんが。ファイルが重いので写真がすぐに出ない場合があると思いますが、気を長くしてお待ちください。人生は長いんです。80になってもまだまだ暴れていいんですから。




 
 
 今回の「中里隆先生傘寿祝賀会」の会場は私ども、洋々閣を全館貸し切りです。
 
 玄関の迎え花は前に花守をやってくれていた陽子さんを久しぶりに引っ張り出して活けてもらいました。
花器は30年ほど前の隆先生作の南蛮大壷で高さが55cm、径が50cmあります。
花材はイタヤカエデ、シャクナゲ、コデマリの3種です。
 
 渡り廊下を渡っていちばん奥の大広間「金波楼」へ行きます。
あれ、よく見ると、これは西日が当たっていて、金波楼へ行くのとは反対方向でした。ごめんなさい。方向転換して下さい。
 
 廊下の隅の棚には、井上明子作の博多人形「仕舞」を飾ってみました。
青竹の花器は私の手作りです。花はリキュウソウとハツユキカズラ。
 
 会場入り口の看板。

 金波楼の舞台上にかざりつけられた能衣装3点と能面が10点。扇が4点。

 舞台と反対側には青竹の結界で仮設舞台を作りました。座イスの間からちょっと見えますか?真竹のこの太さを見つけるのが大変だったようです。

 開会の挨拶は発起人代表の大槻文蔵先生。うしろに並ぶのが発起人一同。
向かって左から、「つく田」の松尾氏、「洋々閣」の大河内、「川島豆腐」の川島氏、右端が「銀すし」の阿部氏。
もう一人発起人の能楽師、多久島先生は次のプログラムの支度でお召しかえ中。

 観客席はこのように。まだいっぱいにならないうちに写真をとりましたが、すぐに席は埋まりました。
 
 仕舞 「松風」 多久島利之氏
 
 仕舞 「山姥」 武富康之氏 

 対談 中里隆先生と大槻文蔵先生
大槻先生の聞き上手で、隆先生の80年の人生が浮き彫りになりました。
ほんとうはデザイナーになりたかったそうですが試験がむつかしく、無試験のおやじのところに入った、種子島に行く話が来た時は、親兄弟でやってる窯元の環境が窮屈で、チャンスだと思って皆の反対を押し切って行った・・・などなど。

 次に「能面、能衣装の話」ということで、武富康之氏が古い能面を見せながら解説して下さいました。
小面(こおもて)」を動かしながら、能面が見る角度によって悲しんだり喜んだりと表情が変わることを説明されました。
「能面のように無表情」という表現は正しくないそうです。能面は表情豊かなんだそうです。なるほど。
 
 能面の説明があっている間に、屏風の後ろの楽屋では大槻先生の衣裳が着付けられていました。

 次に中里太亀氏の「唐津焼の話」で、中里家の歴史を語ってくださいました。
人前で話すのは一番苦手という太亀氏は時々両親のほうをチラリと見ながら、おおてれにてれて、それでも15分の講義を無事終えられました。人柄の表れたほのぼのとしたお話でした。御苦労さまでした。

 いよいよ、大槻先生の「半能 屋島」です。
向かって左から。
シテ 大槻文蔵(人間国宝)
太鼓 白坂信行
小鼓 飯冨章宏
笛   相原一彦
地謡 久保誠一郎
    多久島利之
後見 武富康之
 
 源義経の亡霊がはげしく舞います。
面は先ほど武富氏が説明してくれた「白平太」というものをつけておられました。「平太」には赤平太という面もあって、そちらは白より少しいなかの素朴な雰囲気だそうです。大槻先生には白平太がお似合いですね。

 能上演の後は、隆先生に記念品、奥様に花束を贈りました。
傘寿の色は黄色と紫の二つの説があるそうですが、今回は黄色の花でまとめてみました。紫は米寿でお贈りしましょう。

着物姿がわたくし・女将で、頂いているのではありませんよ、差し上げているところです。お間違いなく。

 贈った記念品はオリジナルの木型で作られた靴。隆先生が野に放たれて暴れ回るにはちょうどいいかも。

 いったん皆さんに庭園に出ていただいて、食前酒タイムを30分ほど。この間、女将はネジリハチマキで皆を叱咤激励して、大広間の設営を公演会場から宴会場に変更。
庭の設営は前日の大雨でハラハラハラしましたが、晴れ男の大槻先生のおかげか、午後から見事に晴れました。

 庭園に降りずに別の待合室で座って待っていたかたもあるので、この記念写真は半分くらいですね。

 宴会場の設営ができたのでお客様に金波楼に戻っていただいて、6時半から第二部をスタート。
乾杯の音頭はフルート奏者の有田正弘先生。バロックと隆先生のかかわりを話してくださいました。隆先生は長い間古楽器の奏者たちを支えてこられました。
では、みなさん、カンパ~イ!

 お料理は広間の三方に並べて、セルフで取っていただき、座れるようにテーブル9台置きました。ドリンクもコーナーを作り、好きな物を取っていただきます。のんべえさんはその前から離れない人もいたりして。
同じテーブルについた知らない人同士で代わりあって料理を取ってきて分け合って食べる、など、わきあいあいとした雰囲気、そのうちまた別のテーブルに空いた席を見つけて座り込む、などという、私の想定外のパターンで食事時間が進行し、思った以上にうまく行きました。新しい出会いがあちこちであったようです。
 
 テーブルスピーチの皮切りは、「川島豆腐」の川島義政氏。すでに酔っていて、自分が行儀が悪いことをしたから隆太窯へのお出入り禁止をくらった話をして、でも、今日「川島豆腐」があるのは隆先生のおかげだ、と、ちゃんと立派に締めました。
この日も、ワインやざる豆腐をたくさん差し入れていただきました。感謝。
 
 スピーチの二番手はすしの「つく田」の松尾雄二氏。
明日早く出張だそうで、中座されましたが、棒寿司をたくさん差し入れてくださいました。私がそのコーナーに行ったときにはすでに遅し。皿だけ鎮座していました。泣きたいのをこらえてお接待をしましたよ。
ここにこう書いておくと、ひょっとしたら、あとから・・・・・、ね、親方!

 「銀すし」の主人、阿部展久氏は、いくら説得しても、「イヤイヤ、絶対、ダメダメ、人前では話しきらん」、と逃げの一手。その分、すしにもの言わせんとばかりに握り続けて、カウンターの前は人だかり。
でも、どうやら、閉会してお客様が誰もいなくなってからひとりお立ち台に上がってマイクを握って何か叫んでいたような証拠写真をあとから見つけました。
銀チャン、言いたいことは言えましたか?
 
 「プログラムを見たら、謝辞というのが書いてあるので、仕方がないから言います」というご挨拶。
今回の祝賀会は大槻先生からのお申し出だったので、「宮中からお嫁に来てくださいと言われたような気がして、思わず、はは~っ、謹んでお受けいたします、と言ってしまったのです」というケッサクな御あいさつでした。そして、冒頭に書きましたように、「今でも野に放たれれば何をするかわからない、暴れるかもしれない」との結びでした。
なんとすてきな80歳ですこと。
さあ、隆先生を野に放ちましょうよ。
 
 閉会の挨拶と万歳三唱は能楽師の多久島利之氏。氏は唐津の方です。
隆先生の窯では以前、長い間芝能が開催されていました。夜露の降りた芝生の上で、能装束が濡れるのをものともせずに、演じられた数々の演目を思い出します。
後ろの山に鼓の音がこだまして数秒あとにポーンとかえって来るのがとても印象的でした。ある時は台風が来て、急きょ会場を旧・高取家住宅(重要文化財指定を受ける前で、まだ高取家の家族がお住まいだったころ)に変えて、高取家の土蔵から燭台をたくさんお借りして、「蠟燭能」が演じられたのも大切な思い出です。雨戸の外は嵐が吹き荒れて、ゆれる炎のむこうに装束が幽玄の光を放っていました。

 解散後に、夜食を準備しました。ロビーに屋台のうどんやを開業して、1時間だけの営業。お泊りの方だけ40名様限定サービス。女将が屋台のおばちゃんになって、若女将が手つだい。
最後に残った一杯を、さて、自分で食べようかとハシを握ったとたんに若者がひとり息せき切ってかけつけて、「ああ、間に合った」と、横取りされました。
その日は私はなんにも口に入らず。うらめしい。
写真は夜泣きうどんに喜ぶフルーティスト・有田正弘教授。

 散会のあとも隆先生は残って遅くまで大槻先生と語られました。

 10時半になって、それでは、と帰られる隆先生。今日は、ほとんどお酔いになってなかったようです。お疲れ様でした。
 
ピ~プルギャラリー
 会の間にスナップでキャッチした表情のかずかずを、at randomに。
 
 中里隆先生。
傘寿祝賀会開会前の待合室にて。

 庭園での食前酒タイムに家族と。
左から、プレイリーさん、隆先生、邦子夫人、長女こおさん、次女花子さん。

 次女花子さんはmonohanakoという窯元をやっていて、この春10周年を迎えました。アメリカと日本でと半々に活動している人気作家です。
さっぱりした人柄は隆先生譲りで、笑い声も負けないくらい大きく、からからと。

 中央の田辺英雄氏はハムソーセージの「燻や」のご主人で、この会にもたくさんの差し入れを頂きましたので、食前酒タイムにアペタイザーとしてお出ししました。ありがとうございました。

 隆先生長男の太亀氏の長男、健太くんは、将来を嘱望されている陶芸家です。
サラブレッドにエールを!

 隆先生の横は、太亀夫人の亜津美さん。

 今回、裏方に徹した洋々閣五代目・大河内正康。

 正康の妻・若女将の奈穂。
初めての大仕事。

 さて、本日のベスト・ショット。
肩を組む隆夫妻。
あとでこの写真を見られたら、隆先生は「身に覚えが御座いません」とおしゃること間違いなし。

  いかがでしたでしょうか?なんとまあ、ぜいたくな、まさに「値千金」の至福の時でございました。右の能面は、当日舞台に展示された10のうちの一つです。隆先生の額のしわにそっくりだなあと思ってここに一枚だけ写真をお見せします。他の面は、大槻能楽堂(大阪)の宝物ですから、遠慮します。どうぞ機会がありましたら、大槻能楽堂で観能をお楽しみください。
 
それでは、梅雨時の健康にお気をつけて。また真夏におあいしましょう。

 

 
 今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                             
洋々閣 女将 大河内はるみ
                              mail to: info@yoyokaku.com