#197
平成28年8月


このページは女将が毎月更新して
唐津のお土産話やとりとめもない
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 猛暑の中、いかがお過ごしでしょうか。 戦後71年目の夏を迎えました。
例年8月号は死者を語り継ぐ鎮魂のページにしたいと思っています。
よろしければ、お付き合いくださいませ。
 今回は唐津出身の海軍少佐・坂本幹彦氏について宮島傳兵衛氏の唐津東ロータリーでの卓話資料を引き写させていただきます。宮島氏は御高齢ながら矍鑠として地域のためにご活躍なさっていますが、昨年11月、わざわざ諫早の山中まで追悼式に参加してこられました。
私は襟を正してお話しを拝聴したいと思っています。みなさまもどうぞよろしくお願いします。
 
 
諫早ロータリークラブが語り継ぐ相知出身の海軍少佐・坂本幹彦氏
昭和19年11月、諫早上空でB29に体当たりの勇士
宮島傳兵衛パストガバナー卓話資料

 
 坂本幹彦中尉は東松浦郡相知町(現在は唐津市)出身で熊野神社宮司の長男。唐津中学を経て(昭和15年卒)、海兵71期、享年21歳、死後2階級特進で少佐となる。

 中国の奥地成都より発進した米国の「超空の要塞」ボーイングB29爆撃機61機は昭和19年11月21日、大村海軍工廠を空爆した。大村の352海軍航空隊は月光8機、零戦43機、雷電16機をもって邀撃し、大本営は「撃墜確認せるもの14機(うち1機は体当たりによる》…右戦闘に於いて体当たりを敢行セルは海軍中尉坂本幹彦なり」と発表した。

 B29の編隊が午前10時すぎに大村の方から東に向かって諫早市街の北方、多良山麓上空を飛行していた。これに向かって、日本の戦闘機がキラキラと何機も群がって攻撃した。するとB29の編隊の最後尾機が次第に遅れだし高度も低下してきた。B29はフラフラとゆっくりした木の葉返しの状態で諫早市小長井町井崎沖約500メートルの海上に墜落した。空中で破壊されぬまま火を吐くこともなく、またパラシュートによる脱出者もいなかった。

 一方、坂本中尉の零式戦闘機は諫早市長田町白木峰キャンプ場を中心に飛散した。遺体はすぐには発見されなかったが、奇しくも四十九日の忌日にあたる昭和20年1月8日、海岸より7キロ登った現在の諫早市高来町深海の榎堂の東北割石の山中で当時15歳の少女山崎マサノさん他2名が薪取りに来て遺体を発見した。遺体は消防団員によって深海蓮行寺に運ばれた。

 慰霊碑の建立
 平成4年に坂本少佐慰霊碑が県有林の戦死の地に荒川さんらによって建立。翌平成4年、B29の墜落の海岸を望む小長井小学校横の私有地に元陸軍中尉馬渡廣雄氏が米軍搭乗者の名を連ねる鎮魂碑を建立された。最近協力者を得て米軍搭乗者の当時の連絡先や遺族が少しずつ判ってきた。

 33回忌にあたる昭和52年11月21日、深海天初院で荒川氏らにより、平成17年は戦後60年目にあたり、この両慰霊碑の前で命日の11月21日に日米友好慰霊祭を行った。

                                 ◆
 この記録は、毎年行われている日米友好追悼式の資料によるものです。その実行委員長は諫早ロータリーの犬尾博治氏です。この話を公式訪問で聞いた佐伯岳歩地区幹事と一緒に、戦後70年の今年(平成27年)、11月の追悼式に参列してきました。

 
 坂本少佐慰霊碑  鎮魂碑


 次に諫早ロータリーの犬尾様の資料(昭和60年)より写させていただいて、坂本少佐の履歴を紹介します。


坂本中尉は、大正111123日秋分の日生まれ。佐賀県東松浦郡相知町出身。父君は、同町熊野神社宮司、厳

 
 当時の唐津中学(旧制)

男氏。出生時、神社は祖父の真澄氏の代で、父君厳男氏は当時、朝鮮(現在の韓国)の慶尚北道興海小学校の教師であり、幹彦氏はそこで生まれた。母親はミユキさん。大正十五年、幹彦氏三歳の時、父、厳男氏が相知に戻り、宮司を引き継ぐ。幹彦氏は少年時代から海軍に憧れていたが、体格が少し小さかった。小学時代から剣道が得意で、中学では理科、英語に秀で、級長をしていたという。

現在の唐津東高校、当時の唐津中学に入って、5年生から海兵に入学した。海兵七十一期生として昭和1711月に卒業し、艦隊勤務につく。軽巡「川内」に乗り込み、昭和1821日より始まった、ガダルカナル島撤収の支援部隊としてニューアイルランド島カビエンに出撃。昭和18年、飛行学生となり、8月に少尉に任官して大村航空隊付となる。193月中尉。同年9月に一度だけ休暇で帰省したのが最後となった。戦死時、満22歳。勲功は二階級特進して少佐に昇進。従六位勲六等功四級旭日中綬章を受ける。

 
 相知町 熊野神社

幹彦氏は、出身地の相知町や元の本籍地唐津にも戦死者として合祀されていないことがわかっている。皮肉にも相知町の戦没者碑は熊野神社境内にある。多数の戦没者名がこの碑の裏側に刻まれているが、坂本幹彦の名は見当たらない。佐賀県の厚生部援護課の兵籍には記されているが、その他には顕彰されたものは、何ひとつ残されてないという。坂本家の先代は、唐津市鏡の出身であり(熊野神社は鏡神社と親類の神社)、当時は鏡に田畑も所有されていたが、神職としては相知熊野神社に転出されて久しく、いわば不在地主という立場にあった。昭和21年の冬、農地改革の波が押し寄せて、不在地主は不利となり、一家は鏡に移住された。しかしここでも不在地主として扱われ、しかも昭和221111日、父厳男は病死され、再び一家は相知に転出されている。このような移住の合間に戦没者としての名の記載が欠けたままになったものと言われている(佐賀県先覚者顕彰会常務理事、井手保氏による)。そのようなわけで、出身地や戦死現場のいずれにも慰霊碑はおろか、一片の表示板もなく、その名は残っていない。


 いかがでしたでしょうか。坂本幹彦氏の写真を探していろいろお電話してみましたが、見つけられませんでした。今は宮司様も何代か替わられて坂本家ではありません。神社には何の記録もないそうです。
 
 世界中で今も戦いは続いています。内戦、テロ・・・バングラディッシュの犠牲者も記憶に新しく、そうでなくても自然の脅威による犠牲者がこんなにも多いのに、さらにヒトがヒトを殺戮するなんて・・・。やりきれない思いです。
 

 どうぞ理解しあえる世界になりますように。
 また来月お会いしましょう。ありがとうございました。



 今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。

                             洋々閣 女将    大河内はるみ

                               mail to: info@yoyokaku.com