次に諫早ロータリーの犬尾様の資料(昭和60年)より写させていただいて、坂本少佐の履歴を紹介します。
坂本中尉は、大正11年11月23日秋分の日生まれ。佐賀県東松浦郡相知町出身。父君は、同町熊野神社宮司、厳
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当時の唐津中学(旧制) |
男氏。出生時、神社は祖父の真澄氏の代で、父君厳男氏は当時、朝鮮(現在の韓国)の慶尚北道興海小学校の教師であり、幹彦氏はそこで生まれた。母親はミユキさん。大正十五年、幹彦氏三歳の時、父、厳男氏が相知に戻り、宮司を引き継ぐ。幹彦氏は少年時代から海軍に憧れていたが、体格が少し小さかった。小学時代から剣道が得意で、中学では理科、英語に秀で、級長をしていたという。
現在の唐津東高校、当時の唐津中学に入って、5年生から海兵に入学した。海兵七十一期生として昭和17年11月に卒業し、艦隊勤務につく。軽巡「川内」に乗り込み、昭和18年2月1日より始まった、ガダルカナル島撤収の支援部隊としてニューアイルランド島カビエンに出撃。昭和18年、飛行学生となり、8月に少尉に任官して大村航空隊付となる。19年3月中尉。同年9月に一度だけ休暇で帰省したのが最後となった。戦死時、満22歳。勲功は二階級特進して少佐に昇進。従六位勲六等功四級旭日中綬章を受ける。
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相知町 熊野神社 |
幹彦氏は、出身地の相知町や元の本籍地唐津にも戦死者として合祀されていないことがわかっている。皮肉にも相知町の戦没者碑は熊野神社境内にある。多数の戦没者名がこの碑の裏側に刻まれているが、坂本幹彦の名は見当たらない。佐賀県の厚生部援護課の兵籍には記されているが、その他には顕彰されたものは、何ひとつ残されてないという。坂本家の先代は、唐津市鏡の出身であり(熊野神社は鏡神社と親類の神社)、当時は鏡に田畑も所有されていたが、神職としては相知熊野神社に転出されて久しく、いわば不在地主という立場にあった。昭和21年の冬、農地改革の波が押し寄せて、不在地主は不利となり、一家は鏡に移住された。しかしここでも不在地主として扱われ、しかも昭和22年11月11日、父厳男は病死され、再び一家は相知に転出されている。このような移住の合間に戦没者としての名の記載が欠けたままになったものと言われている(佐賀県先覚者顕彰会常務理事、井手保氏による)。そのようなわけで、出身地や戦死現場のいずれにも慰霊碑はおろか、一片の表示板もなく、その名は残っていない。
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