#189
平成27年12月


ヒースが花盛りだった。
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嵐が丘の冬を想う
ーブロンテ姉妹の跡を訪ねて

 
 
 
The moors, for the moors where the short grass
 Like velvet beneath us should lie!
 For the moors, for the moors where each high pass
 Rose sunny against the clear sky!

                                          
Emily Bronte



 九月に私たち夫婦はイギリスを再訪しました。ヨークシャーに行ってブロンテ姉妹の足跡を訪ねたいというのは、50年来の私の夢でした。ここに、ブロンテ姉妹に関する写真を少しお見せします。おおよそは自分で撮った写真ですが、ブロンテ・ミュージアムと牧師館の中では撮影禁止でしたから、ミュージアムで買った本からのものもあります。どうぞ、若くして世を去ったけれども永遠に世界文学に名を残した3人の姉妹を偲んでください。
 
   
ハワースの町は丘の上にあります。町の中心部を上ったり下ったりして見学しました。魅力的な小さな町です。三姉妹の弟、ブランウェル・ブロンテが傷心を癒すために飲んだくれた200年続くパブや、死の遠因となったアヘンを買ったといわれるドラッグストアを見ました。現在もむせかえるような薬草の匂いが充満して石鹸などが観光客に飛ぶように売れている店でした。
   ブロンテ牧師館への入口。
まず、ミュージアムへ行き、入場券を買います。そこから牧師館へ行けます。ここでブロンテ家はつつましい生活を送りました。写真の左端に青い時計のある塔がみえますか。姉妹の父・パトリック・ブロンテが奉職した英国国教会です。
   
   三姉妹の一番上、シャーロット・ブロンテ。この肖像画は、シャーロットの死後、弟ブランウェルの友人であるJ.H トンプソンにより描かれました。

Charlotte Bronte 1816-1855

姉妹は多才で、シャーロットは小説のほかに絵をたくさん描いています。
   残念ながらエミリー・ブロンテの肖像画は本に載っていませんでした。公式なものでなく後の人が想像で描いたものはネットで見たことがありますが。この犬は、エミリーの愛犬キーパーで、エミリーが20歳の1838年に描いたものです。1848年にエミリーが29歳で没したときにはキーパーは何日もエミリーのいなくなった寝室のドアの前でうなり続けたそうです。
Emily Bronte 1818-1848
   
シャーロットが描いた妹・アンの肖像水彩画。

Ann Bronte 1820-1849


   一家のダイニングルーム
小さなへやです。
   牧師館の正面
当時の庭の草花を再現してあります。

右手前の京鹿子に似た花のやさしいピンクが印象的でした。
   証拠写真として私を写してもらいました。この玄関から牧師館の中に入るのですが、世界中からの見学客で混み合い、30分以上も待たされました。ブロンテ姉妹の人気がうかがわれます。特にアジア各国の言葉が飛び交っていたのが印象的でした。
   
牧師館の裏庭には三姉妹の像があります。どれが誰だかの説明はまわりをいくら見ても見当たりませんでした。で、勝手に、向かって右から、シャーロット、アン、エミリー・・・かな?
   
リトルブックスと呼ばれる、姉妹の手作りの本は、ほんとうに小さいもので掌にすっぽり入るくらいです。
遺品のペン、封筒、便せんなども展示してありましたが、まあ、小さいこと。姉妹は芥子粒のような小さい字をよく書いたそうです。
   教会への道。この道にそってシャーロットとエミリーが教師として勤めた学校の教室が見えます。二人はここで働いて、収入の少ない父を助けました。16、7歳頃の話です。
   ハワース教会
この絵はブロンテ・カレンダー2016年版よりお借りしました。教会のすぐまわりを家々が取りかこんでいて、教会の全体像をカメラにおさめるために後ろに下がることができないのです。よその家の屋根にのぼれば撮れそうでしたが、まさかそんなわけには・・・。あきらめました。

画:パム・ジョーダン
  教会内部はこのようになっています。今は牧師のいない教会で、ブロンテ協会が運営していて、寄付を募っていました。イングランドのあちこちで見た有名な教会に比べると、うんと小ぶりで地味です。でもここで姉妹の父と、のちにシャーロットの夫となる副牧師のアーサー・ニコルズが働いたと思うと、感無量でした。
スコットランドでは教会が閉鎖されてバーやレストランになっているのをいくつも見て驚きました。ブロンテの教会だけは守ってほしいものです。
   パトリック・ブロンテと妻マリアは6人の子を持ちました。初めの二人の女児は夭折し、あと三姉妹と息子を産んだ後にマリアもこの世を去りました。マリアの姉が子供たちの世話をしに来て、パトリックが再婚するまでのつもりでしたが、再婚話はうまくまとまらず、結局この姉は亡くなるまでこの家にいました。三姉妹に大きな影響を与えた女性です。
姉妹のうちでは、一番上のシャーロットが一番長生きしました。父の下で副牧師を勤めたアーサー・ニコルスと結婚もして、家もそのために改装しています。けれども幸せな結婚生活は一年も続かず、妊娠初期に亡くなりました。高令の妊娠が禍したのでしょうか。
牧師館には、シャーロットの晴れ着がかざってありましたが、ほっそりした小さい人だったようです。
左の写真はパトリック・ブロンテの老齢の写真です。やっとこのころ、写真技術が出てきたのですね。
妻と、6人の子供全員を喪ったパトリックのそばには、1861年に84歳で亡くなるまでシャーロットの夫・アーサーがとどまって世話をしたということを知って、わたしは安堵をおぼえました。「ありがとうアーサー」と、シャーロットにかわっていいたいです。

  .牧師館に隣接する教会の墓地。ここには長くブロンテ家に仕えた忠実な女中さん二人が葬られています。一度に二人でなく、二代にわたって、ということです。
   ブロンテ家族の墓は教会の構内にあり、解説板に従ってお墓をさがしました。
アン・ブロンテだけは勤め先のスカバローで亡くなりそこに葬られたために彼女だけがここにはいません。さびしいでしょうに、かわいそう。
   
ブロンテ協会がブロンテ・ミュージアムを運営しています。小さいながら素敵な空間です。
   ミュージアムの通路の壁には4つの漢字の額があり、驚きました。中国の書家が姉妹の小説のエッセンスを表す言葉を選んでこのミュージアムに寄贈されたそうです。
左の「無言」は、『嵐が丘』の主人公・ヒースクリフの寡黙さを、二番目の「嗚咽」は『ジェイン・エア』、3番目と四番目も『ジェイン・エア』からです。
ああ、あの場面をあらわしているのだな、とまるで再読しているように場面が蘇ってきて、感動しました。
   
ここは、ムーア(荒地)に続く入口です。デコボコの岩地で、車も車イスもだめです。嵐が丘のモデルとなったトップ・ウィゼンズの廃墟までは徒歩で往復5時間の道のり。10分以上歩くとうずき出す私の老化した膝には、とても耐えられそうにありません。50年も夢見てきた「嵐が丘」を目前に諦めるのは無念の限りでした。みなさまはこの地を訪れるのはぜひ70歳前になさってください。
    この写真はミュージアムで買った本に掲載されているムーアです。この写真を何度も眺めて、行って来たつもりになりました。幸いなことに、先に訪れたスコットランドのハイランド地方によく似ているし、9月はちょうどヒースの盛りの月で、あちこちで十分に見ましたから、写真を見ると香りさえ漂ってくるように思えます。

右の絵も2016年版ブロンテ・カレンダーからお借りしました。『嵐が丘』のモデルとなった家の廃墟です。屋根はすっかり失われ、間取りの壁だけが残っているようです。航空写真を見ましたが、結構な豪邸だったようです。

私たちがハワースを訪れたのは、まだ日中は空に夏の名残りが感じられる9月初旬でしたが、いま、12月。ムーアには冬が訪れたことでしょう。冷たい風が吹き荒れ、羊たちはどこに隠れているのでしょうか。キャサリンの悲痛なむせび泣きやヒースクリフの呻吟を思わせる嵐が丘の風を思いつつ、今年はこれでお別れします。

来年もいい年でありますように。




 



    今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。

                             洋々閣 女将    大河内はるみ
                               mail to: info@yoyokaku.com