#185
平成27年8月



光明寺守護大仏様
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8月になると、いつも思うことです。死者たちは、どのように今の私たちを見ているのか・・・。
毎年、このページの8月号は重いものになりますが、ご理解いただけると思います。
今回は唐津市の西のほう、肥前町にある光明寺のご住職様にお書き頂きました。
どうぞ心静かにお読みくださいませ。




大鶴炭鉱供養塔が語り続けるもの
                         佐賀県唐津市肥前町入野
                           光明寺 住職 川原 浩心


◎唐津市肥前町の紹介
私の住む肥前町は、玄海灘に面して佐賀県の最北西端に位置し、橋を渡って長崎県鷹島が西隣にあります。今から900年程前に西行法師が、この地で「松浦潟 これより西に山もなし 月の入野や限りなるらん」と詠まれたように、農漁村が点在する僻地です。周囲を湾に囲まれたリアス式の地形で、弘法大師が筆を投げて絶賛した「いろは島」の風景は、誰をも感動させるビューポイントです。
昭和33年に入野村・切木村の2村が合併し「東松浦郡肥前町」となり、当時は、人口15,000人を超えていました。平成17年の大合併で唐津市に編入され、現在の人口(平成27年7月1日現在)は7,478人で、町制が施行されてから半分以下に減少した過疎地域です。学校は、小学校4校、中学校2校でしたが、3年前に中学校1校が廃校となりました。
この地区は、上場台地と呼ばれ、昔から水資源が不足していました。現在では、開発事業が完成し、全地域に農業用水、上水道が完備されました。農水産業では、畜産業が盛んで、全国的にも知られる「佐賀牛」の約7割は、この地域で肥育されています。乳用牛や養豚も盛んで、イチゴや柑橘類のハウス栽培もあります。また、傾斜の土地を利用した棚田が広がり、早場米と言われる極早生の品種は、ブランド化されています。葉たばこの栽培も残っています。
漁業も盛んで、近海の活魚が都市部へ運ばれていますし、真珠の養殖も営まれて、大切な地場産業となっています。

◎浄土宗光明寺
肥前町入野地区に荘厳山光明寺があります。
 

1601年慶長6年に開山された浄土宗の寺院で、糸島は深江正覚寺第4世寂誉上人によって創建され、元は殿木場地区にありましたが、第10世の時代に火災で焼失後、2キロ離れた現在地に移転建立されました。現在の本堂は、1904年明治37年に建立され、基礎・柱組は、当時のまま今に残ります。境内には、位牌堂兼納骨堂、庫裡、戦没者英霊堂、守護大仏、永代供養堂「慈照廟」、歴代住職納骨堂等の伽藍が整備されています。現在の住職は第29世で、地区住民の方々の篤い念佛信仰によって、400有余年守られてきました。

◎大鶴炭鉱と朝鮮炭鉱夫
明治から大正にかけて石炭の採掘が始められましたが、佐賀県でも最盛期には63の炭鉱がありました。そんな中、昭和11年に、肥前町大鶴地区にあった二つの炭鉱を杵島炭鉱が買収し、杵島炭鉱大鶴鉱業所として、「黒いダイヤ」の採掘が本格化しました。背景には、戦争による燃料需要の増加等があって、国の政策により次々に炭鉱が開発されました。軍需工場も拡大され労働者が不足していく中、昭和13年の「国家総動員法」によって、当時日本の統治下にあった朝鮮半島から、労働者の派遣、強制連行が行われました。
昭和14年には97人の「朝鮮炭鉱夫」が大鶴にいたとあります。その後、人数は増加し、翌年には100人が集団的に連行され、主な出身は韓国慶南の昌原、陜川だったようです。
昭和17年までには、756人。昭和18年には、449人が連行され、戦争末期には、佐賀県内に朝鮮炭鉱労働者は約6千人いましたが、県内でも最大規模の朝鮮炭鉱労働者数だったそうです。(移入朝鮮人労務者状況調による)朝鮮炭鉱夫は、落盤や爆発事故を伴う比較的危険性の高い仕事に当てられ、賃金等待遇の格差もあったようです。日本に来て待ち受けていたのは、過酷な労働と厳しい生活でした。
 
最盛期には、大鶴地区の人口は約4千人で、映画館等の娯楽施設や、小学校の分校もありました。しかしながら、朝鮮戦争での石炭需要が終わり、エネルギーが石炭から石油へとシフトして行く中、昭和27年から炭鉱の合理化が進められました。朝鮮炭鉱夫も祖国へ帰ったり、他の炭鉱へ移ったりして、年々減少して行きます。相次ぐストライキの影響もあって、昭和31年12月には閉山することとなります。
現在の住民は約50人、 5年程前には最後の炭鉱住宅も取り壊され、往時の面影を残すのは、草に埋もれた坑口が一つ残るのみとなりました。





◎ベストセラー「にあんちゃんの日記」
「にあんちゃんの日記」は、昭和28年の大鶴炭鉱が舞台で、
 
昭和33年に初版された本はベストセラーとなり、ラジオドラマ化や今村昌平監督によって映画化までされました。作者は小学校4年生の十歳の少女で、9年前に母を亡くし、父まで亡くした4人兄弟の末っ子です。父が亡くなって49日を迎えた日から始まるこの日記は、在日朝鮮人一家が、極貧生活ながらも家族の絆を大切にし、お互いを思いやる気持ちを大切にしながら、純真な心と自愛に満ちた感性をもって、希望を捨てずに前向きに力強く生きて行く様子を綴った日記です。
 
平成13年には、作者の同級生が中心となって、炭鉱跡地に記念碑を建立し、「にあんちゃんの里」として、後世に残すことにしました。母校である入野小学校では、児童全員に復刻されたこの本を配布し必読書とすると共に、感想文を書かせて、現代では薄らいでいる、物の豊かさより心の豊かさの重要性を教育に取り入れています。

◎光明寺と大鶴炭鉱
光明寺と大鶴炭鉱の係わりは、先々代第27世才哲和尚の時代に遡ります。まだ、車が普及していない時代、下駄を履き、毎日のように5キロ近い道のりを通っていたようです。死者の葬儀、御供養は勿論の事、異国の地へ来ての過酷な労働環境・生活環境の中、日本人のみならず、朝鮮労働者家族の心のケアまでその役目は及んでいたようです。
 
炭鉱が閉山した翌年の昭和33年に、大鶴炭鉱で亡くなられた方々の霊を慰めるため、供養塔を建立致しました。「大鶴鉱業所殉職者之碑」には、炭鉱に従事し、亡くなって引き取られる方のいない無縁の日本人・朝鮮人炭鉱夫とその家族の遺骨が納められています。
 
以降、第27世才哲和尚から第28世正真和尚、そして現在へと供養が引き継がれています。
肥前町では、他地区に先駆けて、昭和62年から韓国との親善交流事業が行われ、翌年からは、定期的にホームステイを相互交換することになりました。平成2年には、肥前町国際交流協会が中心となって、供養塔に祀られている朝鮮人の名前を記した「法名塔」を建立致しました。法名塔には、51名の死亡年月日、戒名、俗名、年齢が記されています。2歳から63歳の方まで、創氏改名による日本名の方や朝鮮名の方がおられます。

平成3年には、ホームステイに同行された金海市文化院の栁(ユー)院長が、亡くなった朝鮮人を手厚く供養していることに感激され、慶尚南道知事に働きかけられ、感謝牌を頂戴することになりました。そこには、「その崇高な仏教精神をたたえ、感謝牌をおくります。・・・・」とあり、誠に有難く、喜びの極みでした。
その後も、年に2回、韓国からホームステイで来られる
 
学生は、必ず光明寺へお参りになられ、この供養塔に手を合わせて行かれます。ホームステイの学生の他に、「にあんちゃんの日記」の映画を見られた映画ファンの方々や、炭鉱時代の生活を調査される方、韓国と日本の交流の研修、また、人権学習の目的等で供養塔へお越しになられる個人・団体の方々がいらっしゃいます。








◎最後に・・・
韓国の方が供養塔へお参りになられる度に、韓国との親善交流の礎になっているのだと改めて認識させられますし、今後も友好への架橋の一端を担う事ができればと思います。隣国との領土や歴史認識で摩擦の多い昨今ではありますが、強制連行という負の歴史をありのままに伝えることで、真の相互理解が生まれてくるのだと思っています。国や人種・民族が違っても、一つの命という存在は平等です。お互いを尊重し合う中に、平和で安心な社会が生まれます。仏教の根幹思想である「明るく」「正しく」「仲良く」は全人類共通の精神だと思います。にあんちゃの日記に綴られた、お互いを思いやる気持ちを持てば、争いや、利己主義的な行動はなくなるはずです。
これからも、過去の出来事をありのままに伝えながら、供養塔に祈りを捧げて参ります。


 


 川原ご住職様ありがとうございました。私が前に一度にあんちゃんの里をたずねたことをこのページに書いていますが、その折に光明寺様を訪れて供養塔にお参りをしたときには、先の正真住職様がご生存でいらっしゃいました。先々代様、先代様、当代様の御努力に敬意を表して、このページを終わります。ご読了ありがとうございました。また来月このページへお越しくださいませ。