#184
平成27年7月


このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や
とりとめないオシャベリをお伝えします。
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 7月の唐津の海は輝いています。今年もまた昨年に引き続き、唐津湾ではヨットの世界大会が行われます。今年は420級の二人乗りのディンギーが玄界灘の波を切ります。420というのは船体の長さだそうです。

 今月は、ヨットの世界大会にちなみ、ヨットマンである江頭義輝さんにお願いしました。
 江頭さんには、以前に韓国・済州島へのセーリングを書いていただきました。今回は、宗像大社の沖の島を含む玄界灘の三つの島です。神の島への、大変貴重なセーリングのレポートです。
みなさん、船酔いは大丈夫ですか?海図は画像が重いのでゆっくり出てきますから、一番下につけています。では、夏の海へ乗り出してください。行ってらっしゃ~い!



 
玄海3島探訪セーリング
江頭義輝

  洋々閣に泊まられたらちょっと早起きして裏の東の浜から唐津湾を眺めて下さい。西にすり鉢型の 高島、沖には姫島がきれいな形で眺められるでしょう。でももっと素晴らしい島々が玄界灘には浮かんでいます。少し沖に目をやってください。水平線に烏帽子島を、小呂の島も半分水平線に沈んでいるのがかすかに見ることができるでしょう。今日は古代から近代まで歴史に富んだ玄界灘の三つの島を紹介します。
 
  
出航平成27年4月28日

その名の通りの烏帽子島 唐津より25km
 

標高48m 塔高15m 光到達距離20海里 周囲800m
(1海里は1850米です 海里からメーターへの換算は2倍して1割引きます。
 ということで20海里は約36キロになります。後の表示はキロで書きます。)

 唐津から20kmの烏帽子島です。 頂上の白い灯台は玄界灘の大事な目印です。 この灯台の工事は明治6年から始まり8年に完成しています。イギリス人ブランドンにより設計建設されました。30代の若さだったようです。当時全国で15か所ほど作られた日本最初の洋式灯台の一つで、石材はもとより机に椅子、水洗トイレまで本国から運んできたそうです。そのためサイズが日本人に合わず、特にトイレは座った職員の足が地に着かず苦労したそうです。くだらない話でも中学生の頃の話は今でも覚えているものですね。とにかく明治政府は西洋に追い付こうと相当無理をしたのですね。
 昭和51年からは無人で点灯するようになりましたが、それまでは灯台職員が交代で生活をしていました。 明治9年には呼子から交代に出た手こぎ舟が天候急変で転覆して9名の犠牲者が出たそうです。ご覧の通り草一つ生えていない孤島です。

 
烏帽子の灯台 東面 唐津より25km
  唐津から見れば名前の通り烏帽子型ですが東に回れば三角形のとがった形です。地中から噴き出たマグマが左右からせめぎあって盛り上がった様子が見て取れます。玄武岩の柱状節理が美しいです。タイが良く獲れていた漁場でしたが今釣れるのはアジくらいだそうです。


  小呂の島に向かいます、烏帽子から25km
 
 
小呂の島  標高109m 人口200人 唐津より50km
 烏帽子を過ぎまた25キロほどのセーリングで福岡県小呂の島に着きます。この日はよく晴れていてかすかに前方に見えていました。進路はそのまま北へ0度で進みます。唐津からは烏帽子、小呂、そして沖の島は一直線上にならんでいます。

 
ヨット「美郷号」と「破天荒号」の仲間です 左から松浦 梶山 江頭 諸岡 富永 前田

  七福神社  境内にソテツやガジュマルが茂っていました。[対馬暖流]に囲まれた島です。昔は[あおしお]と教わりましたが今は使いませんね。石碑には小呂の島のいわく因縁が書いてありました。福岡藩の流罪の島でかの貝原益軒も3年間流されていたそうです。
 
 
  正保2年(1645)博多湾入り口の西の浦から4名が移り住んだと書いてありました。  島には小さな畑しか無く家の軒にはとれたての玉ねぎがどの家にも吊るしてありました。島から博多まで45km、唐津も同じ距離です。
 
 
 島を歩いて売店と魚を探したが何もなかった。民宿もなく魚を買うつもりの当てが外れ、漁師さんからヤズを1匹分けてもらいました。
 
  陸軍砲台跡 円形の高射砲台跡、右下の石が砲座らしい。兵隊が300人程いたそうです。

 
火薬庫 高さ4mくらい
 昭和20年8月6日にこの砲台を目標にした爆撃を受け1軒を除き村内の家の全部が焼けてしまったそうです。 その時戦死した兵隊さんの墓が今も残っていました。
この日は小呂に1泊して翌日沖の島に向かいました、今晩のおかずはもらったヤズの刺身です、売店も何もなく困った島でした。

 いよいよ念願の沖の島へ向かいます 小呂の島から45km
  

 沖の島 南より 標高243m  人口神官のみ1名 4月28日夕方4時ごろ

 今回のセーリングに当たり前もって宗像大社にお伺いを立てたらあっさりと上陸は断られました。 「神事のある5月27日に200名のみ許可しています」とのことでした。
さも有りなん、古代よりここは由緒正しき神社なのだから。そもそも宗像大社の辺津宮には市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を、筑前大島の中津宮には湍津姫(タギツヒメ)、そして沖の島の沖津宮には田心姫(タギリヒメ)のそれぞれ宗像三女神をまつってあるのです。 そして不思議なことにこの沖の島と先ほどの小呂の島を結んだ一直線にある唐津市呼子の田嶋神社にも同じ宗像三女神を祀ってあります。唐津と宗像とは古代海洋族として何かつながりがあったのでしょうか。

 入港するにはチョット迷いましたが夕方になり風も出てきましたし、近くにいた漁船も母港に帰り始めていました。ヨットは足が遅いので沖の島に「避難」することにしました。法律的にはここは国際避難港に指定され、荒天の場合は外国船でも入港できます。ただし避難は可能ですが上陸はできません。
 沖の島は玄界灘の真っただ中に位置し、下関と対馬の最北端比田勝を結んだ線の丁度中央にあります。対馬からも下関からも見えません。海上の要衝の島で海上交通を行っていた宗像族に とり企業秘密の島で存在自体が「お言わずさま」と言い隠されていたのです。
 
 
沖の島 東面
 この島は出土した遺物から海の正倉院と呼ばれています。島に向かうに当たっては敬意を表しいろいろと歴史を調べてきましたので写真とともに紹介します。
 
ホンダワラがペラに絡まり動きがとれなくなりやむなく入港することになった。
  接岸したら真っ先に社務所に挨拶に向かいました。神官さんはすでに待っていられました。「禊ぎをしたら上陸してもかまわない」との許可をいただきました。
 
 
私には山の中腹で田心姫が衣を振っているように見えました。

   左の頂上に灯台が見えます。明治38年5月27日(1905)殷々たる砲声を聞いた神官はここに駆け上がり日本海海戦を観戦し神殿に戻り必勝を祈念したそうです。この日だけが一般人が参拝できる記念の日になっています。
 
沖の島上陸心得
  全島がご神体であること 禊ぎをすること 一木一草たりとも持ち出しを禁止すること 女人の上陸禁止などが書いてあります。
 ひとりで島を守っている宮司さんからいろいろ注意を教わりました。
心得は絶対に守るように念を押されます。神官自身も真冬でも毎朝みそぎをして沖津宮まで登る参道を掃き清められるそうです。山自体がご神体である旨何度も念を押されました。神官の交代は10日に1回本宮から来られるそうです
 
 この島が宗像大社の奥津宮であることなどが書いてありました。

 
カンムリウミスズメ オオミズナギドリの保護と動物の持ち込みを禁止しています。
 防波堤はこの地図の一番下の水域です。 ハングルでも書いてあります。この地図の右下に書いてある小島には(沖の島から1kmほど離れています)コミズナギドリ営巣していましたが漁船から逃げ出したネズミにより絶滅してしまったそうです。

 
禊ぎ場と登り口の鳥居と大岩 鳥居の左の茶色の細い道を登ります。

  
左が私、隣は梶山君
4月の海水はもうぬるく感じられました。 沖津宮まで登る3名がみそぎをしました。  禊ぎは糸一本つけてはいけないそうです。つまり褌もだめだというこ とです。
 
遣唐使の船つなぎ石? 小野妹子も眺めた岩かも。
 
 禊ぎ場に大きな岩が鎮座しています。  海水につかっていると私にはこれが8世紀のころこの島で航海の無事を祈った遣唐使船のもやい綱を結んだ岩に見 えました。ロマンですね。
 遣唐使船の成功率は50%だったそうです。かの菅原道真も次に行くようになったとき「もはや唐に学ぶものなし」と宣言し派遣を中止にしたそうです。大宰府に左遷されたり、よほどうとまれていたのでしょうか。
左から前田 木村 江頭 梶山
  
  
 
沖津宮神殿
 
 鳥居から30分ほど登ったところが神殿です。あたりは掃き清められて30分ほどの山道もここに着くまで木の葉がほとんど落ちていませんでした。

後ろの岩の下が古代の祭祀所
  右の大きな岩の割れたところの下が古代の祭祀所です。ここら一帯からたくさんの遺物が出土したのです。一番古い遺物は4世紀後半だそうです。その頃の遺物では勾玉に三角縁神獣鏡、5~7世紀はペルシャのカットグラスの破片や黄金の指輪、7~8世紀からは幡(ばん)といわれる旗差し物の頭に着ける金銅製龍頭、唐三彩の壺 たくさんの杏葉などです。初期は岩蔵といわれる 巨石の上、中期は岩の陰、後期は露地と場所も変化しています。
 不言様(お言わずさま)と言われ島の事は一切口外してはならないという掟がこれらの宝物を守ったのです。
 昭和40年から50年にかけて韓国や中国の船が入港しているとの事で島が荒らされるのを心配した宗像出身の出光佐三氏(1885~1981)が私財数億円を拠出して大掛かりな調査団を派遣し出土品を宗像大社に運んだと聞いています。国宝8万点といいますから驚きます、これらは正倉院の御物に匹敵するような品々でここが「海の正倉院」といわれる所以です。これらの品は宗像大社の神宝殿で展示されています。 


 沖津宮に詣でた帰り港内のヨットを背景に

  
マストより高いテトラポット マストは海面から12mです。

 日が暮れた頃漁船が数隻入ってきたのでどこに着けるかと見ていたら全隻港の真ん中にドボンと錨を降ろしてそのまま停泊してしまった。掟を守り上陸どころか接岸さえしなかったのには驚きました。
 夜ギャーギャーとかなりうるさい鳥の声に目が覚めました。オオミズナギドリのようです この鳥は水鳥の癖に水かきに爪があり平地に着陸した後は水かき中指の爪を使い木に登り害獣から身を守っているそうです。 隣の小島のコミズナギドリは漁船から逃げ出したネズミによりすでに絶滅してしまったそうで残念なことです。

 上陸に当たって神官殿が一番強調されたのが「ここは島全体がご神体です。絶対に陸地では小便などされないように」との事。
「トイレは必ず海にしてください」と何度も念を押されました。
 夜はかわいくもない水鳥の声を聞きながらヨットからの放水で済みましたが。さて翌朝はどうしたものか、トイレを借りればと社務所に伺ったらまたしても「海にしてください」とのこと。どうもご神体になる島にはトイレは存在せぬ様子、「大でもでしょうか」と念のため尋ねたら、「ハイ、海にどうぞ」ということで素直にお言葉に従いそれぞれにテトラポッドに登り海に向かいました。その日は順風を受けて壱岐の芦辺温泉に向かい、3日ぶりの風呂を楽しみ唐津に帰りました。

 

 
鳥居を背に記念写真

 今回お世話になった「美郷号」オーナーは80歳の富永隆太さんです。歳は取っても元気そのもの、今年70の私より若いくらいです。 他のクルーもおなじ年齢で前田國臣68歳。もう1隻「破天荒号」はオーナーが諸岡壽68歳 クルー梶山徳治68歳 木村眞一郎68歳 江口敏行66歳です。万年青年たちの沖の島探訪のセーリングでした。

 美郷号 艇長 富永隆太(80)
                 前田國臣(68)(写真担当)
           江頭義輝(70)  
 
   破天荒号  艇長 諸岡壽(68)
               梶山徳治(68)
               江口敏行(66)
               木村眞一郎(68)
                   
 以上「お言わずさま」の掟に少しふれそうなことも書いていますが、楽しんで読んでいただけたら幸いです。

 
 お願い

沖の島は宗像大社の管轄地で神聖な島ですから無断では上陸できません。
今回の航海は天候の変化とペラに藻がまいてしまい、やむなく入港させてもらいましたが、このブログを読まれた方が簡単な気持ちでゆめゆめ寄港されないようにお願いします。





義輝さん、ありがとうございました。
クルーの皆さん、お疲れ様でした。
この方たちの若さには敬服ですね。この次は、女護が島へでもいらっしゃいませよ。
どこにあるのか知らないけれど。


読者のみなさまもお楽しみいただけましたでしょうか。
では、またいつか。





 ありがとうございました。また来月お越しください。
 
                            洋々閣 女将  大河内はるみ