#179
平成27年2月

唐津のこんぴら様         
このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や
とりとめないオシャベリをお伝えします。
他の方に書いていただくこともあります。



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 玄界灘に寒風吹きすさぶ2月です。今月は温かい室内でゆっくり歴史ものを読んでいただきたく、松下麗(まつしたうらら)氏に原稿をお願いしました。唐津藩の水軍の系譜を守って、今も松浦川河口に近い金毘羅様の足元に住む、誇り高い大船頭の後裔は、おだやかな温かい笑顔です。
 歴史に遊ぶひとときをどうぞお楽しみください。




唐津の水軍
松下 麗
 

唐津の水軍(船手)を語るには、まず松浦党の存在を少し知る必要がある。

 波多 久の6男・調が佐志の浜田城を拠点にして、唐津湾を出入する船の管理をしていたと思われる。

 浜田城跡

玄海灘から東西を見渡すと船舶の動静を知るには最適な港で一番安全な場所は唐房である。平安時代から南北朝にかけて、佐志氏がおおいに活躍できた理由は港の良し悪しであった。前記の唐房の地名については、九州大学の服部英雄先生の調査によると、九州の北、西の海岸部に唐房、唐坊、当方が点在している。これはチャイナタウン(大唐街)に由来するとの事であり、各地の唐房は相互に本店、支店の関係を作り、中国との貿易で利権を競っていたといわれている。




従って当時唐津で一番栄えていたのは佐志、唐房付近ではないだろうか。時代は安土

 
 唐房

桃山時代に入ると豊臣秀吉の朝鮮出兵で名護屋湾が利用された。奥深い良港であるが、今一つ地理的な面で将来的な展望が期待できなかったのか、文禄慶長の役が終わり、徳川家康は寺沢を唐津にとどめて、九州西側の基地とした。

寛永十四年(1637)天草一揆、島原の乱が起り九州各地から、天草、島原へ船団を送る事となり、寺沢志摩守も二千人程の軍勢を出した。寺沢は二代で終り次の藩主が決定するまで一年間幕府領となった。次の藩主は兵庫の播磨明石から譜代の大久保忠職が着任した。前の寺沢が将来を見すえて、田、畑の開発、港湾の整備、河川の改修をすすめたので、大久保はすぐに藩の政事にとりかかれた、又大久保は明石で瀬戸内水軍の関係ある船頭、水主を藩に組み入れていたので、幕府は今後の外国からの海防等を考慮して最適と考えたと思われる。明石から唐津までの船団の規模は次の通りである。

 

乗船惣合八十二艘

    内二十六艘軍船小早

     二十七艘水船荷船

     二十九艘荷船

 此船頭水主惣合千百三十二人

    内五十壱人船頭、二十九人手船頭

     百六十八人御加子 九百十三人浦加子

 

船奉行として進士(ニイガタ)杢右衛門、松下金右衛門の二人を付けた、浦加子(水主)九百十三人は当時の漁村である、湊、呼子、名護屋、波戸、高串、京泊、駄竹、晴気、波多津、黒川等各漁村に数十人ずつ配置したと思われる。今後の上方への年貢、及び物資の輸送、搬入、搬出は寺沢の松浦川開発により可能となった。

松浦川を利用して、上流から河口迄物質を運ぶための水流の状況は、南は黒髪山を源

 
 佐用姫岩

流として、伊万里の宮野瀬川を経て相知久保で支流の厳木川と合流する。

そこから北西に流れ鬼塚の川原橋で波多川と合流する。川幅も急に広くなり北に流れ、半田川と合流、河口近くで町田川と一緒になって唐津湾に注ぎ玄界灘に広がっていく。

松浦川佐岸に佐用姫岩がある。今は堤防の内側、和多田にあるので、虹の松原からは見えづらい。

 
 金毘羅岩

 



 そこから更に五五〇メートル程下ると、松浦橋の袂付近に満潮時でも大きく露出した花崗岩の塊が屹立している。地元の人でもそれが佐用姫と信じている、南方の山手に金刀比羅神社があるので、勝手に金比羅岩とよんでいる。更に下ると唐津城と満島漁港の中央より少し沖に約三〇〇〇㎡の花崗岩で出来た大きな瀬がありこれが姉子の瀬で、漁港の東側に三箇程の岩がある。これは妹の瀬と呼ばれている。唐津城が出来るまでは、満島と城内は潮が引いた時は陸続きとなり、満ちた時満島は孤立するのでこの名称がついたといわれている。

 
 姉子の瀬

松浦川から玄界灘への船の出入りに際して、支障になるのが姉子の瀬である。前記の通り初代藩主寺沢志摩守によりここが開口された。今の土木技術なら簡単に撤去出来たが、当時の力では無理であった。現地確認すると、かなり深まで岩が嵌入しているので仕方なく両側の岩を取り除き処理して船舶の出入を可能とした。歴史に『もし』はないがこれが撤去されていたら、松浦川河口、唐津の街は大きく変わったものとなっていただろう。

唐津藩水軍(船手)の職務としては御座船(主に藩主の乗る船)の管理、運行で参勤交代の時一行は門司の大里まで陸行し、下関まで御座船を利用する。又長崎出役、寺社参詣(田島神社、鏡神社)、正月初乗り等にこの御座船を利用していた。一般業務としては難破船対応、大阪、江戸、長崎への迴米輸送、松

 
 満島番所跡

浦川河口における船改め(満島番所)、領内商船の把握、税徴収、漁船等の把握、水主の動員、船舶の刻印、更に公儀出役として唐船曳航、朝鮮通信吏対応、役人送迎など、現在なら海上保安庁、税管、入管、船主、船長、海員養生所等多岐にわたっていた。

長崎出役については、長崎奉行について少し述べる必要がある、秀吉から最初に長崎の支配を命ぜられたのは、代官として佐賀の鍋島直茂であった。長崎奉行としては文禄元年(1592)寺沢広高が最初であった。長崎は町の行政官、司法官であるとともに外敵の侵入および、キリスト教に対する警備司令官であり、貿易を管轄する商務官でもあった。又幕末は開国を要求してくる外国人を迎接する外交官としての側面もあった。そしてキリスト教対策が西国一般に及んだことからすると、長崎だけを管轄する奉行というより、むしろ西国一般に眼を光らしていた奉行といえる。長崎港の警備は福岡の黒田藩、佐賀の鍋島藩が一年交代で沖両番所の警備をしていた。又長崎には長崎奉行配下の者とは別に九州諸藩および、長州藩の設けた聞役があり、対馬、小倉、平戸の諸藩が常駐し、更に鹿児島、長州、久留米、柳川、島原、大村、五島および唐津の八藩は特に異国船の来崎する五月中旬から九月下旬までの間在勤することになった、その駐在所は各藩が設けていた蔵屋敷を利用した。

 
 長崎御用意御船割帳

ここで一つ述べたいことがある。寺沢が二代で絶えた後唐津藩は大久保、松平、土井、水野、小笠原と名だたる譜代を相次いで藩主にしたのは、唐津藩を長崎監務()や西国の外様大名の監視役として重要視したとあるが、これは身贔な見方であると思う。なぜなら九州の幕府領を支配していた日田郡代があり、長崎奉行が西国大名の動静を監視していたとあるので、譜代といえどもそれ以上の負担をさせたとは思えない、貞享(1685)長崎御用意御船割帳を見ると、島原の乱を想像させる程の大掛かりな準備をしている。

当時海難について幕府はどのような対策をしていたか、船舶が航海中または碇泊中、積荷および乗組員、乗客の全部または一部が被る海上の危険に遭遇する事がある。織田豊臣時代は統一事業進展とともに自他国船を問わず、遭難船の保護を厳命して、海難救助の精神を芽生えさせた。江戸幕府は積極的に海難救助政策を取り、元和七年(1621)八月寛永十三年(1636)江戸~大坂間航路の沿海漁村に海難救助を義務付け、救助した荷物のうち浮荷物は二十分の一、沈荷物は十分の一の救助報酬を与えた(遭難物占有権)

 
海難の悲しい伝説の残る妹の瀬も今は砂に埋もれている

救難処理と顚末および難船中抜荷をした船が入港したときは、実否を糾明し、残荷物について浦証文(海難証明書)を発行すること。管轄の代官、奉行はこれを監督することを命じた。寛文七年(1667)閏二月さらに漂着、漂流物の処理規定を加えて全国に公布し、正徳元年(1771)五月および翌年八月には御城米船救助の規定を加えた。この幕府法は政策の大綱を示したもので、その実施は各地の慣行に任せたので、諸藩はこれを受けて施行細則的藩法を制定し、救助担当者である諸漁村はこれにもとづいて実施にあたった、代官、奉行をしてこれを監督させたのは、海難に事寄せた船員や船員と漁村民との共謀、各々の不法行為を取締りかつ抜荷を監視するためであった。これらの犯罪が摘発されたときは、犯行の現場でみせしめのため極刑に処した。漁民は海難救助を天職のように心得ていた。これは救助義務担当村がその海域の漁業権を所有するという慣習法が容認されていたので、義務不履行のときは、漁村権を失うことになる。

これを如実に物語っている例が文政六年(1823)にあった、30cm×6.0mの和紙で約三千字の能筆の報告書が現存している。概説すると、ある藩が商人の注文により薩州(鹿児島)の万神丸に黒砂糖(棒状にしたものを樽詰)を約五十トン(金額で一億二千万円位)を積み、鹿児島の山川港を出て、途中阿久根と長崎県大村の松島に寄港、五月十六日真夜中の凪にもかかわらず、小川島の前にある折瀬に乗上げた。何とか離礁努力するが成功せず夜が明けてしまった。それを小川島の人が発見し人足と船を出して助けた。荷物の砂糖は小川島に揚げて囲いを作り保管した。連絡を受けた唐津藩の船手の役人が来て、万神丸の上乗り(船長兼荷物を監督)に遭難時の状況と荷物が不正なものではないか調査し、問題ないと解ったので万全の管理をした。その内薩州から役人がきて、唐津藩との談合により売却することに決まった。各浦、漁港へ触れを出し高札を立てたが、入札は不成立で持ち帰ることになった。よって前記の法通り、この場合は浮荷物として二十分の一とした。上砂糖は百八十三貫(四貫=一両=約十万円)約四百六十万円、下砂糖(三十六.五貫)約九十万円、合計五百五十万円が小川島に払われた。この証文は沖船頭と上乗り二人の諸事情を薩州の役人が聞き取り確認の上、島で受取り島中に渡すと、小川島庄屋、名頭が唐津藩の役人に認めたものである。

 
昔を伝える船宮橋の石

次に船手の組織について、唐津には船宮といる地名がある。寺沢時代は船頭町と言っていたようであるが、大久保の前任地の明石に船宮があり、何日からか同様の名になったようである。今の十人町、船宮町、東町には船手の者が百二十人程従事していたので、家族を入れると五、六百人程住んでいたと思われる。大久保の時から藩主が転封になっても、船手の者はそのまま残るようになっていた。これを『立切り』と称していた。大船頭以下は慶安四年(1649年~明治初めまで)約二百二拾年居付いたことになる。現在でも五、六軒その時の子孫が残っている。

当時の住民台帳の様な記録があり、その内容は病気療養の為塚崎(武雄温泉)に行くので七日間暇が欲しい、参詣の為大宰府、英彦山へ行く、結婚、離縁の届け、老齢になったので仕事を辞めて息子に譲りたい等多事に亘っている。従ってこの地域は内町、外町とは違って、船手だけの自治組織として機能していたようである。

 
 御船手分限帳

又船手の仕事は徒弟制、世襲的なもので見習から少しずつ経験を積み重ね専門的なノウハウを身に付けていった。階級と仕事の内容は下から
①御手職人
(毎日役所に出る。船作事見積り作成。船材料検分)
()艪口は御召船の綱とり、碇上げ下ろし、揖取代役、()乗組は奉行所御用人、()平組は大坂、長崎に出向く時の船中見習) 栂番所=材木置場、橋口番所=船官橋入口にあった、船煬りの夜の燐木抜き。
③内詰
(隔日勤務で奉行所泊番)
④唄上(船入江、満島番所駐在、大坂入港の際奉行行所出向・毎夜船唄の稽古、唄の内容については調査中)満島番(旅船の積荷改め、他藩の御手船が入港時役所への連絡)
⑤楫取(朝夕船の見廻り・毎夜艙番所・船作事・道具虫干・満島出火の時和多田村の人足を艙番所で待機させる・小船頭の代役)
⑥山立小船頭(航海中に山の位置を確認する)
⑦物書(幕府からの回状を沿岸の浦村へ伝える・江戸廻航の際浦賀関所への書類提出・海難報告書作成・小船頭の代役)
⑧小船頭(船の見廻り・毎夜洲崎=『満島の北端か』から柳堀巡回・道具虫干)
⑨小船頭目付(昼夜見廻り・船作事の現場見廻り・領内の船舶帳簿管理・御法度の穀物差し押え)
⑩蔵方小頭(船舶出入・往来切手交付・藩購入材木の代金支払い・浦水主扶持米支払い・新造船売買船の帳簿管理)
⑪割方小頭(業務の割り振り・船道具の把握漂着物・難破船について奉行所へ注進)
⑫大船頭(毎朝出勤・船見廻り・旅費出役費の出納雇職人への作事料支払い・遭難船の事故処理・灘状発行・片道切手交付など) 因に大船頭になるには約四十年位かかっている。
 又船奉行は藩主直属の者しかなれず、特に船舶の技術等に関しては一切関係ないようである。江戸後期には搗屋奉行が出来たので、大船頭は代官次席までなれたのが最高位である。江戸前期には島原の乱があり、中期には特に大きな事件はなかったようである。後期には朝鮮通信吏来聘があった。
 

 
 朝鮮通信使

これは慶長十二年(1607)の修好、回答刷還吏に始まり十二回を数えた。朝鮮の漢城を出発して江戸日光まで五百人にのぼる大使節団とそれに劣らぬ日本側の出迎の大行列がおりなす豪華絢爛たる旅の様子は、沿道の耳目を集め、幾多の絵画作品が残されている。これらの財政負担はお互いにとっても莫大なものであった。諸般の事情に鑑み、江戸聘礼から易地聘礼、すなわち対馬において儀式を執行することにした。
 この変更は唐津藩にとっても思いがけない結果をもたらした。それは将軍の正使以下多くの人員が対馬に渡海することになり、唐津藩は呼子から壱岐までを担当することになった。その準備として一年有余かかることになった。これは文化八年
(1811)のことである。
 

 
 測量方諸事覚帳

更に次の年文化九年(1812)には測量方御用諸事覚帳壬申八月に伊能忠敬の測量の為船の準備手配の記録がある。高島、大島、神集島、小川島、加唐島、松島、馬渡島、片島の地形測量から、水深まで測っている。期間は八月七日から八月二十五日迄、船は、韋駄天丸十挺立、右進丸十六挺立、左進丸十六挺立初め大小数拾艘になる、又船頭、浦水主、及び町人足まで入れると数百人と大がかりなものであった。

 幕末になると、外国船来航に備えて玄海の各島に台場設置が必要となった。船手の日記によると、設置の状況や大砲が据えつけられている記述はないが、藩主を各島見廻りに案内している。又丁田(町田)の田原で西洋流の大筒焼玉を打ったとか、西の浜で地雷火の実験を行ったなど世の中が騒然としてきた様子が書かれている。

 
 船中日記

最後に私の家系を調べてみると、初代は大久保に従って一六四九年明石から唐津に移り、明治維新まで代々唐津藩の船手として仕えた。初代市兵衛(規達) 二代市兵衛(規孝 )三代市兵衛(規道) 四代市兵衛(規頑) 五代市兵衛(規清) 六代助太夫(勝規) 七代助右衛門(規光) 八代東平治(規達) 九代得兵衛(規道) 十代森治(規諧) 各々大船頭まで仕え上げた。
 明治になり役職も解かれ、船奉行は大属、大船頭は運漕廨となり位は権小属で運漕及び浦船等の掌口をした。
 十一代は私の祖父
(文久三年生)で高島小学校の校長でおえた。祖父の弟二人は海軍の軍人で中将、大佐をつとめた。私の父は東京高等商船学校から大阪商船に入り、外航の船長をし、終戦後唐津港で二代目の水先案内人(パイロット)をつとめた。私は現在七十一才、「さよひめ」(全長七メートル木造船三挺艪)で松浦川を仲間と一緒に走り回っている。

 
「 さよひめ」で仲間たちと

 

 

 
 いかがでしたか?松下氏はリアルマツシタという不動産の会社経営のかたわら、郷土の歴史をコツコツと調べておられます。たくさんの資料をお持ちです。またいずれ別のテーマで書いていただきましょう。
では皆様、寒い日がまだまだ続きます。お風邪に気をつけて。
 また来月このページへお立ち寄りください。


洋々閣  女将  大河内はるみ  info@yoyokaku.com