#173
2014.8.1



当時の釜山港
このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や
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引き揚げ

われは病み老母よろめきつつタラップをくだりてつひに日本の土踏む

太田遼一郎)

 

 8月は毎回戦争のことをテーマにしていますが、重い話題ですのでいつも悩みつつ書いています。
 今回は、亡き父の引出に深くしまってあった引き揚げと墓参団に関する資料を載せます。これは、5月にお会いした韓国人女性の研究者パク・ユハさんという、「引き揚げ」に関心をもっていらっしゃる方にコピーを提供したものですが、韓国人で日本人の引き揚げの苦労について調べられる学者は稀だと思います。いつか御本が出ると思いますが、韓国サイドからどう見えるのか、心配しつつも期待しています。もっとお互いが理解できることを望むからです。
 このページを読んでくださる方にも何かのお役に立てば幸いです。



                     釜山の日本人墓地

                     墓参団結成の趣意書

                 連絡先  長野県松本市○○○○   丸山 兵一
        
(個人情報ですので伏せましたが、原本には電話番号まで記載されています。)

 

 
        

は  じ  め  に

 終戦後いつの聞にか20有余年の歳月が過ぎてしまいました。(註 昭和42年当時)

終戦の時、釜山の地の墓地に遺骨を残され、または日本人寺院に納骨されて、遺骨に心を残しつゝ故郷に引揚げられました幾万の御家族の方々が日本全国に居られることゝ存じます。御家族にとり、一日として忘られないものは、海の遥るかかの地に、いまも淋しく眠れる遺骨のことであり、そして折にふれ時にあい、切々たる思いの20有余年を過されて来たことゝ存じます。
 こゝに釜山の日本人墓地について、はじめて、その全貌を下記のとおりお知らせすることが出来ます。


 

1.朝鮮よりの日本人引揚げ 

2..終戦時の日本人墓地と遺骨 

3.日本人墓地と遺骨いまやなし 

4..新しい日本人移籍墓地生まる 

5.慰 霊 の 道 

6.韓国政府との文書関係 

7.今後の方針

 

1.朝鮮よりの日本人引揚げ

 終戦により、釜山港は日本人の引揚げの唯一の港に指定され、釜山は朝鮮よりの日本人引揚げの中心地になってまいりました。釜山にある日本人の墓地と遺骨は、この引揚げと密接な関係にあり、これをはなれて語るわけにまいりません。また一面においては日本人引揚業務の一環であるとも考えられますので、この引揚げの実情を南鮮、北鮮別に簡単に述べてみます。
 南鮮には終戦時日本人519,600人居住といわれ、これの引揚げの終結は昭和21年3月末でありましたが混沌たる治安下において、その引揚げは終了いたしました。

 
 引揚船 興安丸

 その聞において終戦直後より9月23日迄は興安丸、徳寿丸の二雙による復員その他の輸送が旱いもの勝ちに行はれ、一般同胞の引揚げは無軌道でありました。しかるとき9月24日釜山埠頭は米軍政庁に接収され、日本人の埠頷立ち入りは一切禁止、日本人の引揚船への乗船並びに荷物検査が実施されましたので、それ以降引揚げの実態は一変して来ました。
 同胞は昼夜の別なく釜出に南下して来ます。厖大な人員の引揚げの円滑化は列車、収容所、船舶の一元化輸送です。一元化輸送のために正式の引揚船以外一切の機帆船による海上輸送は10月16日以降禁止されましたので、こゝにはじめて引揚げは計画化され、この計画輸送は昭和21午2月15日迄続行されました。

 南鮮の引揚げの最も活況を呈したのは昭和20年11月です。この-ケ月の運行船舶115雙、この月の引揚げ人員実に176,376人にて、さしも厖大な南鮮の日本人引揚げも12月末にはその大半を終了しました。

 明けて昭和21年3月8日米軍政庁による日本人総撤退命令が出ましたので同月末日南鮮の引揚げはここに全く終結し、4月には僅かに625人の引揚人員しかありませんでした。

 北鮮には、終戦時日本人290、300入居住といはれ、釜出港経由による引揚げの終結したのは昭和21年12月末でありました。 

 北鮮の引揚げは南鮮のそれと引揚げの方法、引揚げの経路、引揚げの期間等に非常なる差異をみます。すなわち38度線脱出という言葉が端的にこの意味を表しています。
 終戦直後の8月26日に38度線は閉鎖されました。この閉鎖の間に一部引揚げは行はれましたが、ひとたび国境が設定された以後は同胞の引揚げは不可能でした。
 厳寒とともに、咸興、興南、元山地区に集結していた同胞が、昭和20年12月上旬より38度線越えをして海路機帆船にて釜山港に逐月南下してまいりました。
 昭和21年3月気候の好転とともに、38度線越えが集団的に公然化され、3月10以降待つこと久し北鮮の引揚げがはじめて開始されてまいりました。 
 北鮮引揚の最高調は4月、5月、6月の三ケ月間で、咸鏡南北道の同胞のほとんどと、黄海道平安南道の同胞の一部で実に126,611人が目本に引揚げていきました。
 引揚げは、陸路は京城より引揚列車で釜山に、海路は注文津に集結、釜山港に南下して来ます。機帆船にて釜山港南下の最も多かったのは4月、LSFによる南下は5月でした。かくして海陸両面より釜山への南下は活況を呈しましたので、北鮮同胞の引揚げは8月末には終結の見透しでした。

 
 当時の釜山駅は釜山港の前にあった。
建物は唐津出身の辰野金吾の設計だった。

 しかるとき5月15に釜山港にコレラが発生し、釜山港は6月7月と閉港されました。釜山に南下した同胞が6月には仁川、郡山、両港より日本へ引揚げていきました。
 コレラによる米ソ両軍政庁間の防疫協定により、7月一杯引揚げは中止されましたが、7月末には釜山のコレラも全く終熄し、8月1日再度釜山港は開港され、ここに平安南北道に集結の残余の同胞も釜山に南下し、計画化された輸送にて引揚げていきました。
 かくして苦難の北鮮同胞の引揚げも昭和21年12月末をもって全く終了し、翌昭和22年1月には僅かに208人の引揚げ人員しかありませんでした。
 あとは日鮮結婚者の自由意志による在鮮か引揚げかの問題が残っただけです。
 思へば南鮮の引揚げが昭和21年3月に終了すると同時に、今度は引き続いて北鮮の引き揚げが3月より開始されてきました。

 釜山において、日本人の引揚業務にやつと事実上の心と時間的余裕が出来ましたのは、釜山港が閉鎖され、北鮮よりの同胞南下が中止された、僅か7月の-ケ月間でした。
 釜山の日本人墓地と.遺骨の問題がここにはじめて、この7月に発生してまいりました。 

2 .終戦時の日本人墓地と遺骨

 終戦による混乱は、先ず体の無事引揚げが先決です。墓地の整理、遺骨の日本への持ち帰りなど何人も考えられませんでしたし、また考える心の余裕も全くありませんでした。更に乗船検査にて実際上も出来ませんでした。
 加うるに釜山は日本に近い。かくて遺骨を日本に持ち帰る人は一人もなく、墓地に寺院に遺骨を安置したままに日本人は全部引揚げていきました。
 日本人僧侶も引揚げ日本人という立場においては、何等一般同胞と変りなく、昭和20年11月には全部引揚げていきました。
 

 
 谷町の墓地を望む

由来釜山には地理的、歴史的観点よりして、終戦時日本人墓地が釜山市谷町墓地、ガヒ山墓地、牧の島墓地その他等に多数ありました。また釜山には日本人寺院も数多くありました。東本願寺、西本願寺、草梁西本願寺、総泉寺、金剛寺、釜山鎮金剛寺、智恩寺、妙覚寺、妙心寺、本明寺、延力寺、弘法寺、長松寺、念仏寺、小林寺、高野山更に天晴地明会等であります。これらの日本人墓地及び日本人寺院には多数の御家族の遺骨が眠っておりました。
 釜山の寺院に眠っている日本人遺骨とは、釜山居住者の方々も納骨してありました。また朝鮮、満州、北支その他の地域に居住せる方々もありました。古いのは日清戦争より日支事変当時のものさへ見受けられました。更に終戦により日本引揚げのため、釜山以外の地域より、また北鮮よりわざわざ釜山まで遺骨を携へ、これを寺院に納骨し安心して引揚げていった数多くの人々もありました。釜山の寺院にあつた日本人遺骨とはかかる実情のものでした。日本人僧侶引揚後、寺院に多数の遺骨あるを知り、納骨堂も納骨箱も

 
 当時の釜山・東本願寺
唐津市の高徳寺が法灯を守っています。

心なき僅かの人により破られている噂も耳にいたしました。しかし当時は日本人引揚げの緊急に日夜奔走、遺骨に思いを及ぼし手を施す余地も心の余裕も全くありませんでした。
 しかるとき幸か不幸か、昭和21年5月15日釜山にコレラ発生、7月は北鮮の同胞の南下も中止され、釜山港も閉鎖、事実上引揚げの行はれなかつたのはこの7月のみでした。
 予てより耳にせる日本人寺院における遺骨について、この引揚げ中止の間隙期を利用して寺院を廻つてみました。噂に違はず、納骨堂または寺院の地下内に無数の遺骨が納骨箱に納められ、そのまゝの姿でありました、またあるところは遺骨が散乱してまことに惨憺たる姿のところもありました。
 昭和21年7月は、既に日本人僧侶引揚後8ケ月が経過しております。遺骨は果して無事に保管されてあつたでしょうか。また今後も保管されていくことが保証されるでしょうか。もしもこの際僅かに残っている日本人にて整理埋骨をしなかったならば、またいつの日に果して何人がこれをやるでしょうか。
 かくしてこの遺骨の整理は日本人引揚業務の一環として私共の手にゆだねられて来ました。
 思へば6月末まで活溌に進展して来ました北鮮の同胞の引揚げは、7月の一ケ月だけ遅延いたしました。しかし反面、釜山の遺骨に心を残しつつ幾万の日本人が引揚げていきました。その心の期待に添うべき使命を果した-ケ月でもあるというべきでしよう。
 釜山の日本人寺院に納骨されてありました遺骨は8,063柱、この整理には7月2日着手、7月26日分骨完了、全遺骨を釜山市谷町墓地の頂点に深さ2間縦横3間の墓地を設け整理埋骨し碑石を建立、碑石表面には「日本人無縁仏の墓」裏面には「昭和21年7月」釜山日本人世話会建之」として、7月28日碑石前にて慰霊祭を執行し供養いたしておきました。
 この墓地は釜出港を眼下に一望し、夏の野花は美しく咲き誇り、訪づる虫の声あり、眠れる人の安らかに眠れる最適の地帯でした。
 尚この遺骨8,063柱のうち、法名の判明せるもの3,153柱については、これを分骨し、昭

 
 聖福寺 山門

和21年7月福岡市御供町聖福寺に納骨いたしました。

 今日、釜山において8,063柱の埋骨現地を探索することは既に困難と存じます。しかし幸にも一部の分骨ではありますが、同寺に納骨されてあり、現在「釜山在住日本人3干名総霊」の位牌が備えつけてあります。
 「日本人無縁仏の墓」地帯は日本人墓地の密集地帯でありましたので、同時にこの日本人墓地の整理もいたしました。まず墓石の倒潰せるものが多数ありましたので、これを全部復形し、次に墓石下の納骨箱の破られているものについては、これを箱内に納骨して、墓石下に納めておきました。
 かくして墓地も墓石下の遺骨もその実在を確認して、もとのまゝの墓地の姿にいたしておきました。
 爾来20有余年、釜山の地には家族一人の訪づれなく、供花する人の一人なく、数多くの霊が待つこと久しく地下に今日も淋しく眠っております。

3.日本人墓地と遺骨いまやなし

 釜山の地には数多くの遺骨が淋しく眠っておりますが、20有余年を経過した今日、果して釜山の地に墓地を探索し、遺骨を求むることが出来るでしょうか。まことに遺憾ながらいまや全く不可能であり、日本人墓地と遺骨の所在すら探知することは出来ないと存じます。

 韓国政府より私宛の公文書の一文を記載いたしますので、この聞の実情を御推察下さい。 「貴下の主管により、1946年7月釜山市谷町に埋蔵された日本人遺骨8,063柱の墓地並に谷町一帯の日本人墓地地或は、1950年6月25日 発生した韓国動乱の混乱により、避難民の住宅地と化し、其の後は完全なる市街地と化した為に、現在その遺骨を探す道がない、誠に遺憾である」

 人は引揚げすることにより終結します。財産は補償されることにより解決されます。今日、現地に墓地と遺骨を求むることは出来ないかも知れません。しかし現実には、かつてかの地に多数の日本人の墓地も遺骨もありました。そして今日も地下に眠っている筈です。
 この眠れる遺骨に対しては、果して何によって心の安らぎを求めたらよいでしようか、また求むることが出来るでしようか。 

4. 新しい日本人移籍墓地生まる

 釜山の地に、終戦時の墓地と遺骨を求むることは不可能となりましたが、事実を忘却するわけにはまいりません。そこで釜山市当局は、釜山の旧日本人墓地と異なる地に新しく日本人移籍墓地を設け、日本人慰霊碑を建立してくれました。
 韓国政府より私宛にまいりました公文書中のー文を更に記載いたしますので新しい日本人移籍墓地を御想像下さい。
 「韓国動乱時の混乱により、其の後日本人墓地地帯は完全なる市街地と化した為に、釜山市は止むを碍ず、釜山市釜山鎮区唐甘洞山2番地に日本人移籍墓地を設立し、遺骨は探す道がなく、日本人墓籍簿によって位牌を作り、これを庵子に安置し、貴下の埋骨による日本人無縁墓に対しても遺骨は探されず、日本人墓地碑文に、その所以を記録して追悼しております。現在位牌数は1,519柱になっております。
 
 新しい日本人移籍墓地に遺骨は安置されてありません。安置出来ないことは不測の事態の発生の然らしむるところと存じますが、萬感胸に迫る思いを感じます。現在、釜山には9、582柱の霊が眠っております。

(韓国政府より新しい日本人移籍墓地の写真が私の手許に送附されて来ていますので、御連絡下されば御送附いたします。)

5 慰 霊 の 道

 現存の姿を、現在の場所に求め、眠れる霊の冥福を祈りたいと存じます。その祈る道には二つあります、一つはいまはない旧墓地地帯を訪ね、地下の霊の冥福を祈ると共に心の安らぎを得ることでしよう。二つは新しい日本人移籍墓地に詣ずると共に慰霊碑前において合同の慰霊祭を執り行うことでしよう。これが今日では残された唯一の慰霊の道かと存じます。日本人の移籍墓地に求むる遺骨はなくとも、求むる墓地はなくとも、終戦時釜山にありし日本人の全遺骨と全墓地が、この異なる地に移籍されて、いまやこの地こそが現存の唯一の墓地であり、慰霊碑であると考えることこそ、心の安らぎを求むることになり、眠れる数多い霊の冥福を祈ることになると存じます。そしてかく考え念ずることが霊に報ゆる真実の道になるとも思はれます。

6 韓国政府との文書関係

1.昭和41年 6月24日 韓国朴正煕大統領宛発信、

             釜山の日本人墓地に関し請願書

2.  41年 7.12 韓国李東元、外務長官より受信、

請願書受理の旨

3. 41 7.16 韓国李東元、外務長官宛発信、

請願書について

4. 41.9.16  韓国李東元、外務長官より受信、

釜山の日本人墓地につき回答

5. 41.9.25 韓国朴正煕大統領宛発信、

釜山の日本人墓地の調査に閲し請願

6. 41.10.21韓国李東元、外務長官宛発信、

釜山日本人墓地について

7.41.10.24 釜山金大萬市長宛発信、

              釜山日本人墓地について

8.41.10.31 韓国李東元、外務長官より受信

釜山の日本人墓地碑石写真来る

9.41.11.7  釜山金大萬市長より受信

釜山の日本人墓地写真来る 

10.41.11.12韓国李東元外務長官宛発信、

釜山の日本人無縁墓地について

11.41.11.14釜山金大萬市長宛発信

釜山の日本人無縁墓地について

12.41.11.20韓国金東祥大使宛発信

釜山の日本人墓地慰霊について

13.41.12.30韓国朴正煕大統領宛発信

釜山の日本人遺骨再調査並に遺骨の引取りに関し請願

14.42.1.21釜山金大萬市長より受信

釜山の日本人遺骨引取りに関し

15.42.2.25釜山金大萬市長宛発信

日本人墓地の公園墓地建設に関し請願

16.42.3.3 釜山金大萬市長よリ受信 

公園墓地について

17.42.3.9 釜山市公園墓地処理諮問委員会より受信

公園墓地資料について

18.42.3.17釜山金大萬市長宛発信

公園墓地資料送附

19.42.5.28韓国朴正煕大統領宛発信

釜山日本人墓地の慰霊について

 
 私は現在、韓国政府並に釜山市に対し、釜山の日本人墓地を中心帯とした公園墓地建設を請願いたしてあります。また公園墓地建設の資料については、松本市にその蒐集方を依頼してあります。 

7. 今 後 の 方 針

 釜山の日本人墓地に対し、今後はいかに対処していくことがその霊に報ゆることになるでしようか。私は次の方針によってその方途を構じたいと考えますので、何卒御協力をお願いいたします。

一、 方 針

    1. 釜山日本人墓地墓参団の結成

    2. 日本政府に合同墓参の請願

    3.  韓国政府に合同墓参の請願

    4. 墓参団による合同慰霊祭

    5. 日本の適当な地に釜山日本人墓地の移籍墓碑石の建立

二、 方 途

    1. 釜山の日本人墓地並びに遺骨関係者の名簿の作成

    2. 終戦時の釜山の墓地と遺骨調書の作成

    3. 釜山日本人墓地に遺骨関係者の連絡網の確立と連絡方法

以上の目的を遂行する為の基礎資料といたしたいと存じ、別表の

          〔釜山の日本人遺骨調査票〕

を作成いたしましたので、これに所要事項御記入、切り取って本票を御送付願います。
 釜山関係の知人の方々並びに朝鮮よりの引揚げの際遺骨にご関係のある方々に、広くお知らせ下されることをお願いいたします。御家族の方々や御関係の方々の多くの御協カによって、この方針と方途の実行を期し、もって目的を達成いたしたいと存じます。

む す び

 全国に散在する御家族の方々、釜山の墓地と遺骨について一日も早くこの事実を知っていただきたいと思います。かの地には20有余年訪ずる人なく、四季の供花の一片なく多数の霊が眠っています。いまは唯一日も早く、新しい墓地碑石の前で慰霊祭の行はれるその日の来らんことを、多数の霊は待っておると思います。茲に改めて、遙かに釜山の墓地に眠れる霊の冥福を祈ります。

 
 釜山日本人世話会

 終わりに、日本人の移籍墓地と追悼碑を建立されました韓国政府並びに釜山市当局に厚く御礼を申上げたいと存じます。


 私は終戦時、釜山に居住しておりました。昭和20年9月1日以降釜山日本人世話会において日本人引揚業務に従事、引揚実務遂行の直接の責任者として、その責に任じてまいりました。(釜山日本人世話会9月1日設立)
 昭和2 1年10月末現住所に引揚げまして、現在故郷において公認会計士をいたしおります。                         
 釜山の日本人墓地については、私は私なりに20有余年間胸をいためてまいりました。日本人の遺骨が異境の地下で、世にも知られず、世人からも忘られ、永久に該地で埋まれてしまうことは、日本人の引揚げに情熱を燃やし、埋骨に誠意をつくして従事して来たものにとっては、とても耐えられません。かく思いをいたしつつ、ときに供養を夢みつつ、今日にいたりました。昭和41年11月30日NHKテレビ「スタジオ1 02」にて、私は釜山の日本人墓他の一部を全国放送いたしましたが、更にこの一文をしたため、御家族の方々並に墓地に遺骨に御関係の方々にお知らせすることが出来ると存じます。そしてやっと私の20有余年間の思いと、その責の一端が果されつつある感がいたします。

(昭和42年5月末日記)

 (註 この資料の末尾に「釜山の日本人遺骨調査票」が添付されていますが、省略します)

 

 


 上の「趣意書」をお作りになった丸山様に引揚家族として厚く御礼申し上げます。また、戦後の混乱の中で立派なお仕事をなさったことに深く敬意を表します。資料にあった連絡先をもとに探しまして、ご長男の徹様にお話をきくことができました。また、上の資料を転載させていただく許可も頂きました。ありがとうございました。丸山兵一様は、平成2年に79歳でお亡くなりになったそうです。
 
 釜山の日本人慰霊碑はその後再び1991年に
釜山広域市金井区の市立公園墓地に移転した。

 私の父も、終戦後すぐに引き揚げずに、半年ほど釜山にとどまって、上の世話人会に所属して引揚の世話をしたことが履歴書にあります。 生前、父の口から詳しい引揚の話を聞くことはなかったのですが、没後、引出しのなかにこの資料を見つけました。うちでも祖父の遺骨は持って帰れなかったので、墓参団に参加したかったのかも知れませんが、昭和42年といえば、まだ私と弟に大きな学費がかかっていたころで、きっと諦めたのでしょう。父はその後だいぶたってから、一人で釜山に墓参に行きました。

 来年で戦後70年になります。私が赤ん坊で海を渡って父の故郷・唐津へ引き揚げてきてから70年です。外地になんの記憶も有りませんが、釜山は私にとって特別な場所です。いつ行っても遊んでばかりでしたが、次に行く時は、きっと墓参をしようと心に決めています。また何かご報告できればいいですね。

 重いものをお読みいただき、感謝申し上げます。また来月このページをご訪問くださいませ。


                    
洋々閣 女将   大河内はるみ  メール info@yoyokaku.com