●作品群との遭遇
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魚雲龍の作品たち |
白い診察室のギャーラリーは、色の洪水であった。 赤、朱、橙、桃、紫、青、藍、緑、黄、茶、黒。すべての陶器が色を放っていた。茶碗、大小の絵皿や壷、花入れ、陶板が。その間に所狭しと置かれた、徳利、ぐいのみ、湯のみ、灰皿が。さらに、目を近づけると、箸置き、香合、水滴が。
大は飛竜の絵皿から、小は水鳥の箸置きまで、それらはすべて、放埓に、かつ艶やかな色調で、自己の存在を顕示していた。唐津焼の窯めぐりで、その淡褐色の素地が焼きついていた私の目には、まさに異端の世界であった。
目を壁面に転ずると、ここでも彩墨画の河童、天女、仏、風神雷神が、さらに鯉、軍鶏、蟹が、そして唐津おくんち祭りが、その自由な形象の中に澄明な色彩を放っていた。
唐津焼の風土の中にあって、こんなに自由放埓に自分の世界を展開できる作家とは、いったいいかなる人物なのか。
むさぼるように作品群に目を凝らし、手にとっては、驚き、黙する。頭は、強烈な電撃に破裂せんばかりで、その時、作者本人に会うという発想は、全く湧きようもなかった。
それは昭和五十二年十月のことだった。この日は魚雲龍に会えずに、妻芳子にだけ会って帰った。
●魚雲龍との出会い
再度の訪唐。それは、昭和五十四年二月の寒い日だった。
「大浦魚雲龍ギャラリー」と書かれた、あの白い診察室のドアを開けると、六尺近い、骨太のがっしりした魚雲龍が、すっくと立っていた。
「遠いところ、よくいらっしやいました。さあ、どうぞ」と、案内するその後ろ姿には、瓢逸たる風格がただよい、水平に張った肩、大股のしっかりした足どりは、七十六歳とは思えない、存在感のあるものであった。
広い額には理性の深さ、ガッキリ張ったあごには意志の強さが表われ、外見的には、一種のとっつきにくさはあったが、話を進めるにつれ、その穏やかな口調の中に、人間味の深遠さというものが、しみじみと感ぜられた。
陶や絵に、勝手気ままな解釈や意見を加えると、そんな批評を待っていた、と言わんばかりに、「ほう、それはおもしろいですね」 「はあ、そういう見方もありましたね」と、にこやかに、しかも淡々と受け答え、自分の解釈や考えに固執することはなかった。
初対面である、この若輩の私を、十年の知己のように温かく遇され、心地良さについ長居をしてしまい、気づくと夜も八時を過ぎ、五時間近くも話し込んでしまっていた。帰りの列車の時刻を気にしつつ、再会を約束し、厳冬の闇の中へ飛び出した。
●悠々淡々閑々寂々
魚雲龍にとって、芸術活動は、生きるための証であり、自己探求の手段であって、人生の目的ではなかった。
十代後半という多感な時期に、養子として新しい生活に移り、しかも医の道を条件とした縁組みゆえに、画家の道もあきらめざるをえなかった。さらに、婿養子として、青春の自由な恋愛なども、ままならなかったろう。入籍後まもなく養父の死を迎え、早くも大浦家の家長としての重責まで負うことになり、若い魚雲龍にとり、自己を省みるいとまなどなかった。
そんな魚雲龍にとり、「いったい、この自分とはなんだ」という、自己探求の衝動は、むしろ当然のものであり、また他面、自己主張、顕示の欲求も、おのずと強く湧きおこっていた。
このような、探求という″内″と、主張という〃外〃への志向の接点に、魚雲龍の、生きる手だてとしての多彩な遊芸戯芸の世界が開花したといえよう。
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魚雲龍の句 |
魚雲龍は、自選句集『曼珠沙華』の後記で「句を作ることは私にとって、一つの楽しみであると同時に、苦しみでもある。苦しくても作句せずにおれない気持というものは、一種の妄執なのかもしれない。『業』に憑かれた様に、上手でもない句を作ることは、どんな意味があるというのであろうか。私の句などいくら遺して見たところで、何の意義などない位百も承知だが、私自身にとっては、詩の形をとる毎日の生活記録として、私なりの酷烈なる精神をもって感動を句に表現したいのである」と書きしるしている。
このことは、作陶、作画にもあてはまるものといえよう。
魚雲龍のすべての芸のいとなみは、この自己探求という「業」に憑かれた「酷烈な精神」の具現にほかならないのである。
ただ、しかし、それは自己を鋭角的にそぎ落とし、多くのものを犠牲にしつつ、芸を一点に昇華させるという、芸術そのものを自己目的化したものではない。魚雲龍にとって、芸のいとなみは、あくまで自己探求の手だてであり、生きることの証であって、そこには、日々月々年々の″日常が存しているのである。
湧きおこる「酷烈な精神」を核にしつつも、淡やかな情感のおもむくままに、日々、作陶、作画の生活を送ってきたといえる。
しかしまた、その″日常″は、地を這うようなものではない。「悠々淡々閑々寂々」の境地に遊ぶごときものであった。
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魚雲龍は河童を好んで描いた |
「西行は、地上一寸に身を置くことによって、そこに現世浄土の可能性を夢みることが出来た」と上田三四二氏はいう。魚雲龍も、現世に身を置く生活者ではあるが、自己探求という「業」を浮力として、「地上一寸」の高みに身を置きながら、淡やかな情感をつばさとして、遊戯三昧の境地をさまよい続けてきたといえよう。
●慟哭、歌、そして惜別
灯火管制の道を急げり子の命すでに絶えしとわが知らずして 芳子
終戦まぎわの昭和二十年六月、学徒動員で勤労奉仕に出ていた二男が、土砂崩れの下敷きとなり、わずか十三歳という短い生涯を閉じたのである。二人にとり、それは地の底に突き落とされるような衝撃的な出来事であった。
当時、魚雲龍は軍医として熊本に出征中の身であった。
戦いに出でいる夫に留守のわれ子を死なしめて何と告ぐべき
出征の留守に死にたる子を嘆く夫の便りは歌にうずもる
芳子の慟哭は、やがてあきらめのすすり泣きとなり、亡き子を思う歌となっていった。魚雲龍も、悲しみを自分なりに和らげようと、憑かれたように、和綴じ自装の自選句集、画集の製作に没頭し、画集には、多く仏画を描き、作風も、人の心を深く見つめ、思いやるようなものに変化していった。
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化野 |
以後、二人は、相知町の鵜殿石仏、国東半島の寺々、化野念仏寺などと、亡き子への鎮魂の旅を重ねていった。芳子は、そこでの思いを次々に歌に詠み、魚雲龍は、その歌を自分の彩墨画の賛とし、また、手びねりの小仏像や六地蔵を次々と作り、自分の、そして芳子の心の隙間を埋め、心の闇に光明を与えていったのである。
芳子は、妻として、産婦人科医の助手として、そしてなによりも、魚雲龍の芸に対する深い愛情をもった理解者として、いつも魚雲龍の後ろから、優しいまなざしをそそいでいた。
時折は夜の停車場に来てはみる夫は旅する如しといいて
新しき茶碗を使う季の移りささやかなわが驕りともして
絵筆もつ夫のきびしさ茶をもちて入り来し吾も近づき難く
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鶴天女図 |
晩年、短歌会にも入り、作歌に没頭し、安らかな日々を送っていた芳子であったが、病巣の手に体を徐々に蝕まれ、昭和五十二年十二月、七十一歳の生涯を安らかに終えた。今にして思えば、魚雲龍に初めて出会った、あの厳冬の日には、芳子はもうこの世の人ではなかったのであった。
「妻の魂は、生涯の大半を過ごした故里唐津の空を、亡き子と共に今も鶴天女のように笛を吹きながら、飛翔しているような気がしてなりません。……
霊前に遺歌集を捧げようとするとき、もっと長く生きて歌を作ってもらいたかったと、なんとも無念です」 (遺歌集後記)
それ以後の魚雲龍は、さらに自己と対峙し、孤高自我の境地に身を置くようになっていった。
●一顆明珠
いまここに、窯変辰砂の半筒茶碗がある。数年前の秋、窯出しに立ち会い、その際いただいてきたものである。「新しい茶碗で茶をのむと長生きしますよ」と、魚雲龍自ら茶会を提案し、「どれでも好きなもので」と促され、その窯変の美しさに魅せられ、手にしたものである。
赤とも、紫とも、藤色とも形容しがたい辰砂。青とも、藍とも、緑とも形容しえない窯変。それらが、天空を渦巻く星雲のごとく悠々と流れ、一大宇宙を形成している。海と見れば魚が、天と見れば星が、そして夢幻界と見れば竜が、この一個の中に、変幻自在に現われては消え、流れてはとどまっている。まさに、魚雲龍の存在がすべて集約され、縦縮されているものといえる。
「地上一寸」の高みに身を置いた魚雲龍にとり、その位置から、目の高さで見はるかす世界の顕現化が、あの奔放な絵付けの陶とすれば、この窯変辰砂茶碗は、その位置から、はるか天心を望んだときに頭上に大きく展開する世界の顕現化といえよう。
窯変辰砂は、魚雲能がここ数年来、心血をそそいできたものであった。最近になって、ようやく思うような窯変にめぐりあえるようになった、と謙虚に話す魚雲龍にとり、これはまさに、自己探求の旅の到達点にあるものといえるであろう。
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魚雲龍の歌 |
道元禅師の『正法眼蔵』の中に「一顆明珠」という章がある。そこでは、宇宙が自己の中にひろがり、また、自己が宇宙へと融け出す、といった相互交流の中に、宇宙と自己との合一体としての世界が、珠玉の輝きをもって現われる、との考えが展開されている。
森羅万象を自己の作陶、作画の対象とし、その精神やエネルギーを自己の中にとり込み、そしてまた、自己の精神を、それらの中に融かし出し、その対象とともに三昧境に遊戯する魚雲龍。そんな魚雲龍にとり、この窯変辰砂茶碗は、まさにその交流の中に生まれた、珠玉の輝きをもった「一顆明珠」といいうるものなのではなかろうか。
魚雲龍は今、唐津の空の下で病床にふしている。症状は思わしくないと聞く。
地響きにも似た玄海の海鳴りを枕元に聞きながら、その胸に去来するものは、いったいいかなるものであろうか。
(筆者は魚雲龍さんの友人)
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