#171
平成26年6月

このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や
とりとめないオシャベリをお伝えします。
他の方に書いていただくこともあります。



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 あじさいの忌
―雨の中あぢさいの花色競ふ面影遠し今日は吾子の忌―



 
  あじさいの咲くころは、もの思う季節です。その時に書こうと思っていたテーマがあります。大浦魚雲龍先生のことです。

 洋々閣の前の道を西へほんの100メートル行くと、大浦医院がありました。ここ満島村(大正11年に唐津町と合併、現在は唐津市東唐津)に古くからあった病院で、二代目の大浦正江(まさえ)先生のときは産婦人科、ご長男の純(じゅん)先生のときは内科でした。ここを通るたびに、私は正江先生、純先生を思い出し、この通りがにぎやかだった時代を思い出します。
 正江先生は、40年もの間、医師と陶芸家とを両立させて来られて、数々の受賞歴もおありでしたし、画家としても高名でしたが、私が伺うようになったころは、すでにお医者様でなく、医業を長男に譲って、陶芸家・大浦魚雲龍(ぎょうんりゅう)さんだけになっていらっしゃいました。診察室も、焼き物の売店になっていました。その後また病院に戻さ
 
 こころさん、魚雲龍先生、芳子夫人
れ、純先生がいらっしゃいました。純先生は忙しくて睡眠不足になる私に、点滴する間しばらく眠りなさいとやさしく言ってくださいました。
 平成22年に純先生もなくなられ、今はその建物は改築されて、純先生の娘さん・画家の大浦こころさんのアトリエに変わりました。アトリエが完成したのは、ほんのこのごろです。
 こころさんと、お母様の和子様のお許しを得て、資料もお借りして、今回のページは出来上がりました。大浦家の皆様にお礼を申し上げます。

 魚雲龍先生のことは、ご友人の大島茂氏が文化出版局の1985年冬号の雑誌『銀花』に書いておれれるものがすべてを語っていますので、引き写させていただきます。まずこれからごゆっくりお読みください。



末盧国戯士和人伝 
  魚雲龍さんのこと  大島茂






作品群との遭遇

 
 魚雲龍の作品たち

 白い診察室のギャーラリーは、色の洪水であった。 赤、朱、橙、桃、紫、青、藍、緑、黄、茶、黒。すべての陶器が色を放っていた。茶碗、大小の絵皿や壷、花入れ、陶板が。その間に所狭しと置かれた、徳利、ぐいのみ、湯のみ、灰皿が。さらに、目を近づけると、箸置き、香合、水滴が。

 大は飛竜の絵皿から、小は水鳥の箸置きまで、それらはすべて、放埓に、かつ艶やかな色調で、自己の存在を顕示していた。唐津焼の窯めぐりで、その淡褐色の素地が焼きついていた私の目には、まさに異端の世界であった。

 目を壁面に転ずると、ここでも彩墨画の河童、天女、仏、風神雷神が、さらに鯉、軍鶏、蟹が、そして唐津おくんち祭りが、その自由な形象の中に澄明な色彩を放っていた。

 唐津焼の風土の中にあって、こんなに自由放埓に自分の世界を展開できる作家とは、いったいいかなる人物なのか。

 むさぼるように作品群に目を凝らし、手にとっては、驚き、黙する。頭は、強烈な電撃に破裂せんばかりで、その時、作者本人に会うという発想は、全く湧きようもなかった。

 それは昭和五十二年十月のことだった。この日は魚雲龍に会えずに、妻芳子にだけ会って帰った。

魚雲龍との出会い

 再度の訪唐。それは、昭和五十四年二月の寒い日だった。

 「大浦魚雲龍ギャラリー」と書かれた、あの白い診察室のドアを開けると、六尺近い、骨太のがっしりした魚雲龍が、すっくと立っていた。

「遠いところ、よくいらっしやいました。さあ、どうぞ」と、案内するその後ろ姿には、瓢逸たる風格がただよい、水平に張った肩、大股のしっかりした足どりは、七十六歳とは思えない、存在感のあるものであった。

 広い額には理性の深さ、ガッキリ張ったあごには意志の強さが表われ、外見的には、一種のとっつきにくさはあったが、話を進めるにつれ、その穏やかな口調の中に、人間味の深遠さというものが、しみじみと感ぜられた。

 陶や絵に、勝手気ままな解釈や意見を加えると、そんな批評を待っていた、と言わんばかりに、「ほう、それはおもしろいですね」 「はあ、そういう見方もありましたね」と、にこやかに、しかも淡々と受け答え、自分の解釈や考えに固執することはなかった。

 初対面である、この若輩の私を、十年の知己のように温かく遇され、心地良さについ長居をしてしまい、気づくと夜も八時を過ぎ、五時間近くも話し込んでしまっていた。帰りの列車の時刻を気にしつつ、再会を約束し、厳冬の闇の中へ飛び出した。

悠々淡々閑々寂々

 魚雲龍にとって、芸術活動は、生きるための証であり、自己探求の手段であって、人生の目的ではなかった。

 十代後半という多感な時期に、養子として新しい生活に移り、しかも医の道を条件とした縁組みゆえに、画家の道もあきらめざるをえなかった。さらに、婿養子として、青春の自由な恋愛なども、ままならなかったろう。入籍後まもなく養父の死を迎え、早くも大浦家の家長としての重責まで負うことになり、若い魚雲龍にとり、自己を省みるいとまなどなかった。

 そんな魚雲龍にとり、「いったい、この自分とはなんだ」という、自己探求の衝動は、むしろ当然のものであり、また他面、自己主張、顕示の欲求も、おのずと強く湧きおこっていた。

 このような、探求という″内″と、主張という外〃への志向の接点に、魚雲龍の、生きる手だてとしての多彩な遊芸戯芸の世界が開花したといえよう。

 
 魚雲龍の句

 魚雲龍は、自選句集『曼珠沙華』の後記で「句を作ることは私にとって、一つの楽しみであると同時に、苦しみでもある。苦しくても作句せずにおれない気持というものは、一種の妄執なのかもしれない。『業』に憑かれた様に、上手でもない句を作ることは、どんな意味があるというのであろうか。私の句などいくら遺して見たところで、何の意義などない位百も承知だが、私自身にとっては、詩の形をとる毎日の生活記録として、私なりの酷烈なる精神をもって感動を句に表現したいのである」と書きしるしている。

 このことは、作陶、作画にもあてはまるものといえよう。

 魚雲龍のすべての芸のいとなみは、この自己探求という「業」に憑かれた「酷烈な精神」の具現にほかならないのである。

 ただ、しかし、それは自己を鋭角的にそぎ落とし、多くのものを犠牲にしつつ、芸を一点に昇華させるという、芸術そのものを自己目的化したものではない。魚雲龍にとって、芸のいとなみは、あくまで自己探求の手だてであり、生きることの証であって、そこには、日々月々年々の″日常が存しているのである。

 湧きおこる「酷烈な精神」を核にしつつも、淡やかな情感のおもむくままに、日々、作陶、作画の生活を送ってきたといえる。

 しかしまた、その″日常″は、地を這うようなものではない。「悠々淡々閑々寂々」の境地に遊ぶごときものであった。

 
 魚雲龍は河童を好んで描いた

 「西行は、地上一寸に身を置くことによって、そこに現世浄土の可能性を夢みることが出来た」と上田三四二氏はいう。魚雲龍も、現世に身を置く生活者ではあるが、自己探求という「業」を浮力として、「地上一寸」の高みに身を置きながら、淡やかな情感をつばさとして、遊戯三昧の境地をさまよい続けてきたといえよう。










慟哭、歌、そして惜別

  灯火管制の道を急げり子の命すでに絶えしとわが知らずして  芳子

 終戦まぎわの昭和二十年六月、学徒動員で勤労奉仕に出ていた二男が、土砂崩れの下敷きとなり、わずか十三歳という短い生涯を閉じたのである。二人にとり、それは地の底に突き落とされるような衝撃的な出来事であった。

当時、魚雲龍は軍医として熊本に出征中の身であった。

  戦いに出でいる夫に留守のわれ子を死なしめて何と告ぐべき

  出征の留守に死にたる子を嘆く夫の便りは歌にうずもる

 芳子の慟哭は、やがてあきらめのすすり泣きとなり、亡き子を思う歌となっていった。魚雲龍も、悲しみを自分なりに和らげようと、憑かれたように、和綴じ自装の自選句集、画集の製作に没頭し、画集には、多く仏画を描き、作風も、人の心を深く見つめ、思いやるようなものに変化していった。

 
 化野

 


以後、二人は、相知町の鵜殿石仏、国東半島の寺々、化野念仏寺などと、
亡き子への鎮魂の旅を重ねていった。芳子は、そこでの思いを次々に歌に詠み、魚雲龍は、その歌を自分の彩墨画の賛とし、また、手びねりの小仏像や六地蔵を次々と作り、自分の、そして芳子の心の隙間を埋め、心の闇に光明を与えていったのである。

 芳子は、妻として、産婦人科医の助手として、そしてなによりも、魚雲龍の芸に対する深い愛情をもった理解者として、いつも魚雲龍の後ろから、優しいまなざしをそそいでいた。

 


   
時折は夜の停車場に来てはみる夫は旅する如しといいて

  新しき茶碗を使う季の移りささやかなわが驕りともして

  絵筆もつ夫のきびしさ茶をもちて入り来し吾も近づき難く

 

 
 鶴天女図



晩年、短歌会にも入り、作歌に没頭し、安らかな日々を送っていた芳子で
あったが、病巣の手に体を徐々に蝕まれ、昭和五十二年十二月、七十一歳の生涯を安らかに終えた。今にして思えば、魚雲龍に初めて出会った、あの厳冬の日には、芳子はもうこの世の人ではなかったのであった。

 「妻の魂は、生涯の大半を過ごした故里唐津の空を、亡き子と共に今も鶴天女のように笛を吹きながら、飛翔しているような気がしてなりません。……

霊前に遺歌集を捧げようとするとき、もっと長く生きて歌を作ってもらいたかったと、なんとも無念です」 (遺歌集後記)

 それ以後の魚雲龍は、さらに自己と対峙し、孤高自我の境地に身を置くようになっていった。

一顆明珠

 いまここに、窯変辰砂の半筒茶碗がある。数年前の秋、窯出しに立ち会い、その際いただいてきたものである。「新しい茶碗で茶をのむと長生きしますよ」と、魚雲龍自ら茶会を提案し、「どれでも好きなもので」と促され、その窯変の美しさに魅せられ、手にしたものである。

 赤とも、紫とも、藤色とも形容しがたい辰砂。青とも、藍とも、緑とも形容しえない窯変。それらが、天空を渦巻く星雲のごとく悠々と流れ、一大宇宙を形成している。海と見れば魚が、天と見れば星が、そして夢幻界と見れば竜が、この一個の中に、変幻自在に現われては消え、流れてはとどまっている。まさに、魚雲龍の存在がすべて集約され、縦縮されているものといえる。

 「地上一寸」の高みに身を置いた魚雲龍にとり、その位置から、目の高さで見はるかす世界の顕現化が、あの奔放な絵付けの陶とすれば、この窯変辰砂茶碗は、その位置から、はるか天心を望んだときに頭上に大きく展開する世界の顕現化といえよう。

 窯変辰砂は、魚雲能がここ数年来、心血をそそいできたものであった。最近になって、ようやく思うような窯変にめぐりあえるようになった、と謙虚に話す魚雲龍にとり、これはまさに、自己探求の旅の到達点にあるものといえるであろう。

 

 
 魚雲龍の歌

道元禅師の『正法眼蔵』の中に「一顆明珠」という章がある。そこでは、宇宙が自己の中にひろがり、また、自己が宇宙へと融け出す、といった相互交流の中に、宇宙と自己との合一体としての世界が、珠玉の輝きをもって現われる、との考えが展開されている。

 森羅万象を自己の作陶、作画の対象とし、その精神やエネルギーを自己の中にとり込み、そしてまた、自己の精神を、それらの中に融かし出し、その対象とともに三昧境に遊戯する魚雲龍。そんな魚雲龍にとり、この窯変辰砂茶碗は、まさにその交流の中に生まれた、珠玉の輝きをもった「一顆明珠」といいうるものなのではなかろうか。

 魚雲龍は今、唐津の空の下で病床にふしている。症状は思わしくないと聞く。

 地響きにも似た玄海の海鳴りを枕元に聞きながら、その胸に去来するものは、いったいいかなるものであろうか。
                           
                             (筆者は魚雲龍さんの友人)

 
 

 さて、転載が続きますが、次は亡くなった大浦洋さんのことです。古い松浦文化連盟の機関紙からです。こちらも合わせてお読みいただきたいと思います。



 

昭和63年8月10 松浦文連ニュース

                    戦禍に散った若き命を偲ぶ
            
              ―大浦芳子遺歌集から―
                                       岸川 龍

 大空に続ける高き山見ゆる子を死なしめしところ雪積む

 墓碑の前夢にてもよし亡き吾子に逢いたき思い堪えがたくいる

 昭和二十年六月十五日、東松浦郡玉島村鳥巣(椿山)に溜池作りのため勤労動員中であった県立唐津中学一年生大浦洋(よう)君が崖崩れのため生き埋めとなり死亡した。上の短歌は洋君の母芳子さんが愛息の死を悼んで詠まれた作品の一部である。

椿山

 当時、椿山に動員された唐中生は、唐津市内の東唐津と城内に居住する1,2,3年生約四十名であった。私もその中の1人である。

 終戦をニカ月後にひかえ、戦局は末期的症状を呈しており、極端な国内の労働力不足のため中学校の低学年にまで勤労動員令が及んでいたのである。

 当時五年生は和多田の軍需工場へ、四年生は長崎県大村の海軍工廠へ動員中で不在であつた。そのため椿山の溜池つくりには三年生以下の生徒が出動する以外になかったのかもしれない。

 私は二年生であった。死亡した大浦君よりも一級上だったが、最上級生の三年生の指揮で玉島村平原部落に分宿して、毎日鍬やスコップを肩に麓から椿山に登り、溜池つくりの労働に従事していた。

 六月十五日は雨だった。雨は二、三日前から降り続いていたが、作業は中止されなかった。私たちはびしょ濡れになりながら作業に従事していたが、午後になって雨がひどくなったので作業を中止し、崖に各人が、人ひとり入れるような穴をスコップで掘って身体をかくし雨宿りをすることにした。

 事故はその直後に起こった。あっという間に崖が崩れ、大量の土砂が四十名の唐中生に襲いかかったのである。

 私は一瞬、何か起こったのかわからなかった。物凄い重圧が全身を包み、真暗闇となってしまったのだ。

 幸い私は膝を抱えるような姿勢で穴に入っていたので、後から土砂に頭を押された瞬間に頭と膝との間にわずかな空間ができ、小さく浅い呼吸ができることを知った。

 土砂に押し流された者、腰まで埋まった者全身生き埋めになった者のほとんどが自力で脱出したが、集合して点呼をとると、三名の者が行方不明になっていることがわかった。

 このときの行方不明の三名が、死亡した大浦君と私と、稲村頴二君(後に東大・電通の三人だったのである。

 

 椿山 溜池

私にとって幸運だったのは、私の掘った穴のすぐ隣に稲村君の穴があり、しかも稲村君の穴は崖のやや高めにあったため、全身の力でもがいているうちに頭をすっぽりと土砂の上に出すことができたということであった。

 級友の必死の作業で、まず稲村君が救出され、稲村君の話によって私が救出されたが、私が完全に掘り出されるまでに約十五分が経過していたということである。

 残りの一名はだれか―急いで調べてみるとそれは一年生の大浦洋君であることがわかった。

 引率の松田操先生以下全員が必死で土砂を掘りおこし大浦君を捜索した。時々、崖は小規模に崩れ落ち、二次災害の危険があったがみんなは勇敢にもその危険な崖下での作業を続行した。

 大浦君か発見されたのは、事故発生後約三十分を経過してからであった。遺骸のようすからみて、土砂に押し流され、うつ伏せに倒れた瞬間、土砂や石や木の根などが彼の上に積み重なり、圧死していることが分かった。

 私たちは雨の中で必死で人工呼吸をおこなった。入れかわり立ちかわり

  「大浦、しっかりしろ。」

  「死んではいかんぞ。」

  「おい、大浦、返事してくれ。」

と叫びながら、雨と泥と涙でぐしやぐしやになりながら人工呼吸を続けた。

 しかし、ついに彼は意識を回復することなく、十三歳の若さでこの世を去った。 

 戦争のなくば吾が子は死なすまじ返らぬことを悔いつつ嘆く 

灯火管制の道を急げり子の命すでに絶えしとわれ知らずして 

溜池を造る工事に奉仕して子がトロッコを押しし山見ゆ

 

 事故の直後、急報により学校長ほか先生方が急いで椿山に登ってこられたことは覚えてるがお母さんの芳子さんが来られたかどうかは覚えていない。

 私達のうち何名かは警察の検証のため、夜まで現場に残っていた。夜の雨の中、フクロウの声が寂しく山々にひびくのを聞きながら、生前彼にもっと親切にしてあげればよかったと思ったり、一歩まちがえば自分も命を落とすところであったことを改めて考えてみたりした。 

 亡き吾子の碑の立ちたれどその碑さえその場所さえも見るに堪えず 

 子の死にし様も見ていん大木の枯死せる椎のそそり立つ沼 

吾を呼ぶ子の声かとも沼の辺のすすきの穂群れ風すぐるとき 

 私は戦後三度、この溜池を訪れた。そのたびに野の花を摘んで溜池に投げる。七山中学校に在職していた折、たまたま遠足でこの地を訪れたが、私が野花を摘んで池に投げるのを見て、生徒たちが不思議に思いそのわけをたずねた。

 私が大浦君の話をすると生徒たちは、みんなで手分けしてたくさんの花を集め、若くして逝った魂に合掌してくれた。

 平和教育のとりあげかたは、原爆や東京大空襲に限らず、戦争のためにひっそりとそのような山の中で十三年の生涯を閉じた中学生にも向けらるべきであると思う。

 今年の六月二十日、私は妻と車で椿山に登った。道々、妻に大浦君の話をしながら椿山の溜池に着く。あたりはひっそりとして、溜池の水が周囲の緑の樹木の影を映して美しい。

 溜池建設工事の碑 大浦洋さんの犠牲に触れてある

 もう四十三年も昔のできごとであるが、私にはつい昨日のできごとのように思えた。
 溜池の傍に碑が立っている。

 

本工事は太平洋戦争の真最中にて労力物資不足の折にも拘わらず関係官庁の援助、県下農兵隊、佐高、佐師、唐中、唐商等の学徒奉仕並びに村民各位今坂区民の献身的努力にて竣功せり。特に唐中生大浦洋君享年十三歳の尊き犠牲は永久に銘記すべきものなり。

  昭和三十三年一月 建之

          区長 筒井 藤市

 
 大浦芳子遺歌集

 大浦洋君のお母さん大浦芳子さんの遺歌集があることを私は最近まで知らなかった。

 この遺歌集には夭折したわが子への切々たる愛情が溢れていて読む者に深い感動を覚えさせる。そのお母さんも昭和五十二年十二月二十七日悪性淋巴肉腫にて死亡されて今はない。

 私がもっと早くお母さんの生存中にお会いする機会があったら、当時の状況をお話できたのにと残念に思っている。

 しかし、お会いできなくてよかったのかもしれない。なぜなら、息子が生きていたらこれくらいの年齢になっていたのにと新しい悲しみを誘うかもしれないからである。

 そんな歌が遺歌集にある。

生きてあらば三十五才死にし子の年数えつつ墓にものいう

 亡き吾子の友が二人の子をつれて行くに逢いたり墓参の道に



                                                   



 
 魚雲龍作の小仏たち


 
 上記の『銀花』が出て翌年の昭和61年に魚雲龍先生が亡くなってから、すでに28年が流れました。先生が医師の時代に取り上げられた東唐津の赤ん坊たちはもうみんな孫のいる年になったでしょう。雲となった先生は、その孫たちを空から目を細めて見ていらっしゃるのではないでしょうか。
 戦時中の勤労奉仕中に災害で亡くなられた次男・洋さんの碑を見に、私が椿山へ登ったのは、四月のことです。尊い犠牲の上に完成した溜池は、うららかな日差しの中で眠ったように静かでした。私もまた、ほとりに咲いていた小さな草花を摘んで水面に投げ入れました。今では地元でもその事件を覚えている人も少なくなったようですが、この池の水は、玉島、浜崎へと流れ下って、豊かな実りをもたらしているそうです。
 
 あじさいの月に鎮魂の思いをこめて、このページを書きました。お読みくださってありがとうございました。

 また来月、お目にかかりましょう。

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