#169
   2014年4月

  

雅子妃殿下と名附けられた蘭
このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や
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シンガポールの赤い月



 タイトルに、「シンガポールの赤い月」と書きました。書いてしまってから、あれ、今回のシンガポール旅行で月は一度も見なかったような、と気が付きました。でも、そのままタイトルにしました。なんとなく、その方がいいような気がするのです。シンガポールでは月が赤いかどうかもしりません。私の心象風景と御解釈くださってお許しください。理由は最後までお読み下さればおわかりになるかもしれません。

 もう30年も前だったでしょうか、一度、主人の友人の何組かの夫婦と一緒にシンガポールに行った事がありました。その時ちょうど私は具合が悪くて行きたくなかったのに、皆奥さん連れで行くのでどうしてもと言われて無理をしました。フラフラしながら熱をおして観光、ショッピングをしました。その時に何を見て、どんな店に入ったか、まったく記憶がありません。そのせいか、その後、また行きたいとは全然思わなかった国でした。

 ところが去年の秋くらいから急にシンガポールからのお客様が増え始めました。自分に余りにもシンガポールに関する知識が無いのが気になり始めました。そういう時、二人の感じの良い青年がお泊まりになり、近年のシンガポールの経済の発展や、国土の改造の話など聞きました。ぜひ来なさい、案内するから、と言ってもらって、このたびホントに出かけたわけです。1、2箇所、商談をする相手もありましたし、再会したい中国系シンガポール人ご夫妻もおられます。
思いきってでかけて、ほんとうによかった。色んな事を学びました。
 
 それで今月は、2月の末に一週間主人と二人で旅してきたシンガポ-ルで感じた事を書きます。決してグルメ旅行記ではありませんし、観光案内でもありませんので、期待はなさらず、また、参考にもなさらないでください。

 では、何のお役にも立てないページですが、よろしかったらお付き合い下さいませ。





○プラナカンのこと

 プラナカンという言葉を御存知でいらっしゃるでしょう。マレーシアやシンガポール、インドネシアなどの海峡地域の植民地に入
プラナカン・ミュージアム
って来て住んだ人々の後裔です。中国系、インド系、マレー系などあるようです。植民地に入って来た人々と現地人の混血を示す場合もあり、現地の若い友人の説明では、入植者男性と現地女性との間の子がプラナカンだと。特にシンガポールではプラナカンは父親の財力を背景に、高学歴、バイリンガルなどを武器としてエリート階級になっていきます。中でも中国系プラナカンが一番富裕層みたいです。

 植民地が混血の子を生みだすのは当たり前なのでしょうが、たいがいが余り恵まれない境遇だろうと狭い常識で考えていた私は、シンガポールのプラナカンに驚いたわけです。

 プラナカン博物館へ行きました。文化の高さ、生活の豪華さに目を見張りました。誇り高き人々でした。展示にそれがよく現れていました。シンガポールの中国系の人々には、もちろんプラナカンでない中国人もいますので、そのあたりのお互いの微妙な感情は私にはわかりませんが、そうであると言う人はそうである誇りを、そうでない人はそうでないという誇りを持っておられるように感じました。またシンガポールの中国人は、中国の中国人をよく思っていない人もいるようで、中国系のタクシー運転手が中国人の旅行者のマナーがひどいと悪口を言うので驚きました。

 
プラナカンの家
家の建て方も中国系プラナカンの人々は特殊な形式を持ち、とても美しいものです。行ったのが2月終わりごろであり、まだ旧正月の飾りのみかんの木の鉢植えが玄関の前にありました。日本の門松と同じね、と納得しました。赤い袋に入れてお年玉をあげるのだそうです。日本でも赤い袋と限らないけど、お年玉をあげるのよ、とシンガポール人の友人たちとたのしく話しました。お正月にはお年玉に添えてミカンを2個、ご挨拶に差し上げるのがしきたりだそうで、日本の鏡モチの上にダイダイを乗せるのと関係があるかしら、と考えました。来年の旧正月にシンガポールからお客様があれば、忘れずにミカンを2個さしあげましょう。






○孫文のこと

 ず~っと前から蔵に放り込んでいた孫文の扁額、「愛 孫文」を主人が引っ張り出して額装し直したのはほんの最近の事ですが、なんで急に、と思っていたら、シンガポール旅行を念頭に置いて、孫文記念館に行く心つもりがあったのでしょう。

 帰国する日に探して記念館に行ってきました。タクシーの運転手さえ知らない場所でしたが、中国系の人はたくさん行かれるようです。孫中山先生が革命運動をしている時にシンガポールにも滞在して中国系の人々を集めていますが、その本拠地となったのは、現地の中国人、張永福という人が母の為に買っておいた屋敷を提供したものです。中国と日本と世界とシンガポールの歴史を並べて年表にしてあって、わかりやすかったですが、なんと大変な時期だったんだろうと思いました。

 孫文は中国の革命を日本の明治維新をモデルとして遂行しようとしていたことが良く判ります。日本での宮崎滔天との交友や南方熊楠との親交など、興味深かったです。

 
孫文記念館 晩晴園
晩晴園の建物は立派に整備され、品のいいディスプレイで、部屋をめぐりながら、中国文化の奥深さを感じました。
展示のものは当然漢文なので、知識の乏しい私は四苦八苦。ところどころ知ってる漢字をつなぎ合わせて勝手に解釈する、という鑑賞方法。英文も短く添えてあるので、ヘルプになります。
で、分かったふりして、感激して、記念館を後にしました。

 記念館にかけてあった扁額のうち2つが「博愛 孫文」と言う物で、字体はうちにあるのとそっくり。主人と二人で、「うちのはホンモノだよね」と喜び合ったのでした。

 こういう所を訪れると、民族とはなんだろうと強く感じます。シンガポールの街には日本料理店もあふれ、高島屋や伊勢丹が幅を利かせ、新しい高層ホテルは日本の技術で建っていて。今は日本は嫌われてはいないようだな、と少し気が楽になりました。









○昭南島のこと

国立博物館
 日本がシンガポールを占領して「昭南島」と呼んだ時期は1942年2月から終戦まで。比較的短かったし、もともとイギリスの植民地支配を受けてきて次に3年の日本支配、またイギリス支配に戻って、その後独立が出来るまでずいぶんかかったからなのか、反日の気分もよそほどはひどくないように思えるのですが、どうなんでしょうか。

 国立博物館を訪れて、歴史館をゆっくり見ました。やはり気になるのが戦争の時期。華僑虐殺
戦争犠牲者のモニュメント
などの事件もあったので、初めからつらい思いを覚悟で展示を読みました。日本兵に関するものも沢山ありました。

 衝撃を受けたのは、Devil Boyと呼ばれた現地人の少年のこと。15歳くらいで、小さな体をかくれみのにして神出鬼没の対日ゲリラ戦をやった少年兵のことです。どこの国の戦争でもそうなんですね。日本も16歳くらいの少年がゼロ戦で敵に体当たりをしましたもの。デビルボーイは結局戦死したようですね。つらくて、解説を最後まで読みませんでした。

 この島はアジアの中心に位置し、その立地条件の良さから急速に発展を遂げ、今や世界最大の貿易港となっているのです。発展のきっかけは、韓国の南北の戦争だったとか。軍事物資を運ぶのにアメリカ軍がこの港を活用し、それが今のシンガポールを作ったと、シンガポールに長い間住む日本人の財界人から聞きました。シンガポ-ルの政治経済の動きから見ると、日本の政治や経済は生ぬるい、自覚が足りないとの言葉もありました。

 高層ビルの最上階にあるクラブに招待されて御馳走になりましたが、一望のもとに港がみおろせ、視界の限りまで何百艘というタンカーが浮かび、この船たちは湾内に待機して油の相場の動きを見ながら、いつ荷をおろすか様子を見てるのだと聞かされ、「じ~っとしているのも経済活動なんだな」とそら恐ろしく感じました。




○埋め立てた土地
スーパーツリー

 国土の狭いシンガポールは、島内に高層のアパートを林立させ、国営の住居に一般の人はあまり大きな差はなく住んでいるように見えます。家に贅沢するのはよほどの金持ちで、普通の人は競っていい家に住まなくても別に恥ずかしくないようなので、その分余裕のある人は別の所で消費し、それも経済効果をもたらしているのでしょうか。

 港はここ数十年埋め立てが進んでいて、埋立地にも高層のホテルや商業ビルが立ち並び、目をみはるような風景です。今話題の、最上階に船が乗ったようなホテルもほぼ毎日満室で、とくに日本の観光客が一度このホテルに泊まって高い空の上のプールで泳いで見たいと押しかけるそうです。アメリカ資本のアメリカ人設計だけど、建築の技術は日本だそうです。他にも日本の企業が建設したビルが多数あり、日本の技術が最高に評価されているのがわかります。反日感情が見えないように感じたのも、そういう事があるからかもしれませんね。

 山のないシンガポールが新しく海を埋め立てるのに、土はどこから持ってくるの?と訊ねたら、青年二人は顔を見合わせて、「Good question」だといいました。答えは、インドネシア。土は買うのだそうです。なかなか苦労が多いでしょうね。でも出来あがった土地にGarden of the Bayを作って、すばらしい観光地を形成していました。広場のスーパーツリーを主人がいたく気に入って、写真を撮りまくっていました。この木たちは鉄骨ながら本物の植物がはい上っているので、人工的とはいえ自然が醸し出す癒しの雰囲気があります。オープンして1年くらいらしく、まだ木の最頂上まではグリーンが這い上ってなくて、鉄の枝が見えていて、それをライトアップで幻想的に飾ってありました。頭のいい人がいるものですね。トロピカルだから出来る事かもしれません。日本で真似をしたら管理にどれだけ苦労することか。そのガーデンにある新しいレストランで海鮮料理を頂きました。大きな貝をさしみとシャブシャブにしてもらって、貝殻は記念に貰って来ました。植木鉢にしようかな。小さなスミレが似合いそうです。

○蘭ガーデンとナイトサファリ
国立蘭園入口

 ボタニカルガーデンで蘭を見ました。とくにVIPガーデンでは世界のVIPたちにことよせて新しく品種改良されたハイブリッド達が並んでいました。日本のプリンセス雅子様の蘭はとても優雅でしたし、故・ダイアナ妃の花は華やか、サッチャーさんの花は少し地味・・・

 熱帯雨林のガーデンも見たかったのですが、山になってるようなので足に自信がなく、あきらめました。

 
夜のアニマルショー
夜はサファリに行きました。子供っぽいかな、と思ったけど、一生に一度くらいサファリというものを体験したかったからです。

 トラムに乗って解説を聞きながらゆっくりと回って行くと、ゾウがいたりトラがいたり、ライオンが寝ていたり、向こうむきのカバさんの巨大なお尻だけが見えたりしました。写真をうつしたけど、真っ暗で見えない。残念。アニマルショーも見て、大満足。私って、幼稚なんです。でもブランドもののショッピングにはさらさら興味が無いところは、オトナでしょ。

○マレーシア人の労働者

 ナイトサファリに行く時に、ジョホールのほうに向かって夕方タクシーで走っていたら、たくさんのオートバイが渋滞する車間を縫って北へ暴走して行きました。運転手さんに聞いたら、マレーシアから毎日通勤してくる労働者たちが帰宅しているのだそうです。人件費の節約のために、シンガポールではきつい、きたない仕事はマレーシア人をやとうことが多く、それなりの許可証を持って毎日国境を越えてるそうです。ここでもまた、民族とは、人種とは、と考えさせられるシーンでした。

○チャンギーのこと

 シンガポールに着いた時に、チャンギー空港に降りたわけですが、市内に移動しながらチャンギーのゴム林はどこだろうと、目で探しました。帰国の日も同じ思いで通りましたが、通っただけではよく判りませんでした。まだあるのかどうかも知りません。

 
『チャンギーの月』表紙
手元に『チャンギーの月』という本を今置いています。著者は故・山門幸夫(やまとさちお)氏。いわゆる太平洋戦争の戦記です。戦後20年の昭和40年に氏が自費出版されて知り合いに配られたものです。山門氏御夫妻には亡き姑が優しくして頂いてました。山門氏は、薩摩武士の風貌を持ち、同時に好々爺であられました。老後は夫婦で川柳を娯しみ、お二人の句はしょっちゅう地方紙を飾っていました。

 山門氏は大正5年鹿児島県生まれ。陸軍航空士官学校を出て、終戦当時は少佐でした。主に情報関係の仕事をされたようです。昭和20年8月15日はシンガポールで玉音放送を聞き、集団自決の日時決定の沙汰を待っていましたが、自決の決定は下されず、帰還命令が出ます。当時チャンギーに置いていた日本軍の最後の砦となるはずであった通信
昭和14年 山門少尉22歳
所を整理して山門部隊は徒歩で北上を始めますが、日本軍が多数の集結をはかることを恐れた連合軍はジョーホールの橋を封鎖し、分断策をとりました。島を出られない日本の残留各部隊はまた続々とチャンギーに戻り、ゴム林の中にバラックを建設、自給自足の生活に入ります。いつ迎えの船が来るのか、帰国に何年かかるか判らない中で、有馬大佐を頭に、整然と寄り合い部隊の兵士3400名が協力し合って生きるのです。

 シンガポールに上陸してきた英軍からは、労働力の提供を強要され、日本軍は作業隊を組んでローテーションできつい作業に取り組みます。8キロの道のりを徒歩で通って、戦争後の整地作業、飛行場の整備、電話線などの付設工事、市内の下水清掃、汲み取り作業や死体の処理など、猛暑の中で休憩時間もなく、耐えきれないような重労働でばたばた倒れてい行く中で、指揮官たちは最善を尽くして弱い兵を護り、兵たちは苦情一つなく内地送還を唯一つの希望として耐え抜くのです。
 
 昭和21年6月ついに内地帰還命令が出され、米国政府が「リバティ」船を出してくれることになり、第一陣3000名が作業隊の実績により選ばれて、常に作業の先頭に立った山門少佐が第一陣の指揮官として帰れることになったのです。 昭和21年6月19日、和歌山に船は入り、山門少佐は妻の待つ唐津へ1週間かかって帰りついたのでした。

 戦後は公職追放により仕事も無く、西唐津の港のある貿易会社の支店で現場の人夫をしていたのですが、ある時、報告書を書かされることになり、お手のものである情報収集力をいかした見事な分析や予想を含めた報告書が本社役員の目にとまり、山門氏は一躍支店長の座を得ました。のちに独立して貿易会社を興し、通産大臣表彰7回の他、叙勲、褒章など数知れず。まことに輝かしい人生でいらっしゃいました。かつて苦楽を共にした戦友たちの会「やまと会」も永く続いたのでした。

 この『チャンギーの月』の中に、「月のチャンギーキャンプの歌」が出てくるのです。これは一人の陸軍嘱託が作詞したものを山門少佐が添削して歌にしたもので、つらいキャンプ生活をなぐさめる愛唱歌となってキャンプ中で歌われたものです。この歌詞を読むときに私もまたゴム園のバラックで木の間に見える赤い月を眺めて望郷の念に涙する一人の少年兵であるかのように感じたのです。

 最後にこの本から歌と地図を写して、私のシンガポール旅行記を終わりましょう。お読みいただき有難うございました。



月のチャンギーキャンプの歌
西久保武次作詞・作曲 昭和21年
山門幸夫加筆

月の光に冴えわたる
ゴムの葉末も露しとど
戦友(とも)の寝息は深々と
チャンギーキャンプの夜は静か

今日も一日玉の汗
黒き腕(かいな)よ髭面よ
一途(ひとすじ)の強者の
夢は何処に通うらん

濃き眉毛に刻まるる
戦友(とも)が忍苦のこの月日
木の間の月よひそやかに
せめては守れ夜の寂間(しじま)

ああ遥かなる故郷よ
いろり火囲むはらからや
父母如何に在わすらん
今宵の月よ語れかし

(楽譜は本の中にあります)



お付き合い有難うございました。また来月お越しください。
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