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1 江頭一郎 平成2年 一郎近影
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2 父のカメラ
ROLLEICORD FRANKES & HEIDECKE
撮影に使用したカメラです。ドイツのローライコード社の2眼レフ昭和8年、(1933)から製造されたカメラで撮影年代と一致します。当時の最新型カメラでしょうか?私は高級カメラと思っていましたがどうも普及型みたいです。
今でも動きますが、いかんせん6X6のフィルムがありません。処分するには忍びなく保存していますが、今でも錆はありません。
価格は年寄りの常套句「家が一軒買えた」と言っていたような気がします。
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3 もしかしたら彼かも?
昭和10年頃虹ノ松原で憩う上海からの避暑客
写真帳の中にひよっとしたらと期待を掛けた数枚の写真がありました。
20年くらい前、素潜りで世界記録を作ったジャック・マイヨール(1927~2001)なる人物が「虹ノ松原の海で遊んだ」
「イルカを初めて見たのは唐津の海であった」
と話しているのを聞いた時、我が家に残る古いアルバムの事が頭に浮かんだ。
数十年振りに書棚から引き出したそこには東の浜でくつろぐ幾組かの外国人の家族の写真が貼ってあり、中には名前と7-7-39 (昭和14年)のサインが入ったのもありました。
気になる1枚には母親と一緒に5歳くらいの男児が写っていています、面長な顔、金髪っぽい髪、ジャック・マイヨールに似ている気がして、ちょっとばっかり興奮したのを覚えています。
平成7年、ヨット「うみまる」で彼が唐津に来た時にもしかしたらの気持ちではるみ女将に頼んで彼に見せました。
じっと見つめたジャック ・・・「残念ながらこれはわたしではない」
またしばらくして「良い写真だ、昔を思い出す」と付け加えてくれました。
ジャックの最期は残念なことでしたが、この2月号の全日空機内誌『翼の王国』に「ジャック・マイヨールと唐津」が取り上げられる事になり、当時の写真が何か無いかと捜していた女将がこのことを覚えていて観光唐津のかっての意気込みの証明写真にするので貸してくれと頼まれました。
何気無い1枚でも80年も経てば何かの証明になったりするもので今回この写真が役に立つことになり嬉しい限りです。
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4 虹ノ松原 シーサイドホテルの庭でくつろぐ家族
今のシーサイドホテルではなくてもっと西側に洋式ホテルがありました。庭のデッキチェアで涼んでいるところでしょう。当時は長崎と上海に定期航路があり夏になると外人が家族でやって来ていたとのことです。
このホテルは終戦から朝鮮戦争後まで進駐軍と呼んでいた米軍が接収して使用していました。 蛇足ながら戦前から松原にはあずまホテル、松屋ホテルなど数軒のホテルがありそこも進駐軍が接収していました。ダンスホールではバンドが練習をしていてきれいなお姐さんやそうじゃないお姐さんも多くいて、婦人服を売る父に付いて私も何度か入りましたが、私にとってはアイスクリームをくれる人が優しくてきれいなお姐さんに見えました、昭和27年頃のある日の午後のことです。
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5 唐津焼 中野窯の風景
写真のモデルは霓林(げいりん)の次男の中野安正氏です。中野陶痴の弟で大正7年生れです、
唐津焼は抹茶碗が有名ですが他に置物を得意とする窯元もあります。
この窯元では明治大正時代には龍や虎の大型の置物で有名な中野霓林(げいりん)という名人がいました。大型の虎 寒山拾得 観音様などの作品を多数残しています。彼は霓林の名を継ぐのを期待されていましたが次男のため萩焼の窯元へ修行に出られ、その後応召され29歳で戦病死されたそうです。残念なことです。 ちなみに霓(げい)の字は虹を表し、「霓林」とは若山牧水がつけた名だそうです.。
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6 お旅所曳き込み
威勢よい曳山光景です。
砂煙を上げて西の浜に曳き込まれるヤマ。日中戦争さなかの頃でしょうか頼光の兜には日の丸が掲げられて時勢が偲ばれます。なんだか突貫の声が聞こえてきそうですね。
この頃の御旅所前の道路は砂地で今、早稲田の寮になってるところの西は大きい砂山でした。海側の一面の砂浜にヤマは曳き込まれ今の狭い砂地とは大違いです。時間も掛かるので2台のヤマがほぼ同時に砂浜に曳き込まれたりして迫力満点でした。
14番の蛇宝丸(当時)が入ればまもなく1番の赤獅子は曳き出されていました。砂丘の東には唐津高等女学校がありました。
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7 唐津駅頭の出征風景
ノボリとタスキ、バンザイの歓呼の声に送られてどれほどの青年がこの広場から戦地へと征かれたことか、当時の青年にとり死は本当に目と鼻の先にあり涙を見せることの許されない時代だったようです。当人や家族にとってどんなに悲しく苦しい別れの場所だったことでしょう。
唐津駅は日露戦争の後、明治40年代に唐津炭田の石炭を輸出するために敷設されました。
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8 西の浜の風景
遠浅の西の浜海水浴場。 遠くに浮岳、画面を横切っている黒い線は渡し船用の桟橋です。夏休みの間だけ立てられて沖の鳥島へポンポン船がその名の通りポンポンポンと忙しそうな音を立て往復していました。
海水浴に沢山の客が唐津線でやって来ていました・浮き袋売りを手伝っている私の前を同じ位の子供に手を引かれてランプを持ったままの父親が海の方に歩いて行きました。抗口を出てそのままやって来たのでしょう。炭塵で顔は真っ黒でした。当時の子供にとって汽車で行く海水浴は風呂上がりも待ちきれないほどの大きな楽しみだったでしょう。
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9 水着姿
前述の機内誌の取材に来た若いカメラマンに見せたら、これが水着ですかと驚いていました。帽子を被り白いベルトをして腰は布が覆っている。袖も付いていた明治の水着に比べたらまだまだ露出が多い方でしょうが、昭和初期の青年にはこの写真でもきっと興奮した事でしょうね。
昔は「かいすいぎ」と言っていましたが、いつの間にか「海」の字が消えて「みずぎ」と呼ぶようになりました。
家業が洋品店だったので広告用に撮ったと思われます。
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10 松下売店のヨット
西の浜海水浴場には十軒ほどの海の家があり海水浴客に飴湯、かき氷、うどんなどを提供していました。浜には沢山の貸しボートが並び大繁盛していました。松下売店は一番東の城近くにありそこだけがヨットを貸していました。唐津の老人で若い時ヨットに乗ったと言っていたら必ずここのヨットのことです。セールにMが大きく書かれていて、ハイカラなデザインのヨットです。 浜は本当に人でいっぱいでした。
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11 満島と機帆船
舞鶴城から見た満島(みつしま)の風景です。この屋根なみの中に洋々閣の屋根もそびえて見えるはずです、満島の向こうが鏡山、手前が松浦川河口です。満島をはさんで向かって右が川、左の水域が海であり、海辺に湾曲する帯状の虹の松原が見えます。幕末から明治時代は石炭の積み出しで栄え、、戦時中は機雷で封鎖された博多港を避けて川口の集積所に機帆船やジャンクなど当時の朝鮮からコウリャンなどの雑穀を運んでいました。戦後15年くらいは川砂を積み出していました。集積所のあった場所は現在の市営駐車場の所です。 牡丹江と呼ばれていました 牡丹と石炭のボタを引っかけたのかもしれません。唐津商業学校があった場所です。
現在の舞鶴橋は未だなく、写真右側の中ほどに見える橋は先代の木造橋で戦前は馬車鉄が浜崎から唐房まで走っていたそうです。今は満島は東唐津、舞鶴城は唐津城と変わりました。満島と言っても、島ではなく、砂州の上に出来た集落です。
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12 最後に私事ながら両親の結婚写真を
先ほどの旧・唐津シーサイドホテルで昭和14年に式を挙げています。
母は唐津一の美人であったと父が自慢していました。
家業のヤマトヤ洋品店は祖父佐平が大正2年に開いた店で衣類は何でも売っていました。父が18歳の時に祖父が病で亡くなり学生の身で店を引き継ぐようになり大変苦労したようです。が数年後にはこのカメラを買っていますので店は繁盛したのでしょう。今年で創業100年になりました。
昭和45年前後に長男の紘一がヤマトヤを、次男の私はタマヤの店(現在は唐津市京町アーケード内 子供服のペペタマヤ)を引き継ぎました。
父、一郎は船旅が好きでした。
平成4年に何度目かの日本一周に出かけましたが、客船ふじ丸の甲板で写真を撮っていて階段を踏み外して亡くなりました。79歳のことです。
最期まで写真が好きな父でした。
江頭一郎 大正4年生まれ 1915年
平成4年没 1992年
77歳で死去
愛子 大正6年生まれ 1917年
昭和60年没 1985年
68歳で死去
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