平成25年11月
#164



撮影 山口大志 「睥睨」
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わが町の曳山自慢7
水主町 鯱~


うわ~、今月の曳山自慢は、「鯱(シャチ)」ですよ。水主町は、かこまちと読みます。
唐津くんちの曳山の「鯱」はどういう物語を語ってくれるのでしょうか。
前川源明さんに書いて頂きました。

お楽しみください。




『わが町・わが曳山の四方山話』 十三番曳山 水主町の「鯱」


水主町水組 前川源明



(右下 前川)

 私は水主町の曳山組織「水主町水組」の二番組に籍を置いています前川源明と申します。
 水主町の曳山の話を書かせていただきます。なお諸先輩方の研究資料の受け売り、町内古老方からの口伝、そして私の勝手な思いや妄想をなんでんかんでん混ぜ混ぜした四方山話の駄文です、どうかご承知のうえでお読み願います。

1.水主町とは

 「水主町」とはたいへん難読な町名です。
 現在では全国的にみても珍しい町名で、私が調べた限りでは現在使用されているのは唐津市、長崎県大村市、大分県中津市、香川県歌津町、岐阜県岐阜市。「加古町」や「加子町」と水主と同意の町名が数カ所あるようですが、行政による町界町名の整理変更で消失した所も多いと思われます。
 「水主」とはいわゆる水夫(船内労働者)のことで「水手」とも書かれます。
 水主町は唐津藩初代藩主の寺沢志摩守が内町・外町の城下町々割りをおこなった際に、常備水軍の拠点として整備され「水主衆」を居住させたのが始まりとされています。
 寺沢家改易後は常備水軍の編成が解かれ、日雇い的な水夫「日高水主役」を藩領内漁村に負わせていったため町人(商工業者や人夫)の居住が増えていったとのことです。
 水主町は旧藩政時代には町奉行所支配の惣町(内町・外町)には数えられていません。
 水主町は寺沢公の治世には船奉行所の支配下にあり、寺沢家改易後の常備水軍編成が解かれたあとは郷方(村方)支配だったことが主な理由のようです。
大石大神社(春秋の例大祭前に氏子にて大掃除)
 ちなみに現在、曳山を持つ材木町・魚屋町・大石町・水主町が俗に「外町四ヶ町」と呼ばれてますが、旧藩政時代は材木町・魚屋町・大石町・塩屋町・東裏町の五ヶ町が「外町」の括りだったようです。
 また、惣町に数えられなかったことと郷方支配であったことが氏神・氏子の違いにも現れていたようで、水主町は古来「大石大神社」の氏子であり、唐津神祭御神幸の際も大石大神社の役務を受け持っています。そのため惣町が二町づつ輪番で受け持つ総行司役務(現在では唐津神社一ノ宮と二ノ宮の神輿飾り等の役目)は免除されています。
 ちなみに「大石大神社」は水主町と元石町の氏神様(産土神)で、御祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・天忍穂耳尊の三柱です。
 天平勝宝年間(749〜754)に満島山(現在の唐津城のある丘陵)に祀られたと伝わる熊野権現と英彦山権現の二つの社を、約400年前の唐津城築城の際に現在地(元石町の大石山)に遷座・合祀したのが発祥です。明治初期から唐津神祭に御神幸されています。
 地元では「大石権現さん」の愛称で親しまれています。

2.「鯱」とは

 「鯱」とは一言でいえば「海に棲む伝説の怪獣」です。
 インド神話にある水を自在に操り口から水を吐く怪魚「マカラ(摩伽羅魚)」と、中国建築様式の棟飾りで魚の尾が水面から飛び跳ね出た姿を具象化し大棟の上端が水面を表し、それ以下(大棟の下)の水面下にあるもの(建物)は燃えないとの言い伝えから火災除けのまじないとして用いられた「鴟尾」が融合変化したものと考えられています。
 日本では、顔は虎で身体は魚、背筋に鋭い刺をもち、口から水を吐く怪魚となり、戦国時代頃から火災除けのまじないとして天守閣等の城郭の大棟の両端に載せられています。
 また鯱には阿形吽形・雌雄があり、水主町の鯱は口を開いた阿形の雄です。


3.初代「鯱」と二代目「鯱」

初代「鯱」
 古老の話によれば、旧藩政時代には町方の大石町と郷方の水主町の町境には木戸門が設けられていたらしく、幕末期には町内の放蕩者らが水主町を通って内町方面へ通ずる木戸門へ向かう町人や農民らに「木戸銭を払え」といわゆるカツアゲをしたり、また明治期に入っても町内に住む人夫や若者らは仕事がない日には博打と酒に明け暮れ、たいへん風紀が乱れていたとのことです。
 この乱れた風紀を正すため町の役方が話し合い、人心収攬をはかろうとの思いで、本来唐津神社の氏子ではないが曳山を造り奉納しようとなったとのことです。
 当初は隣町の大石町の「鳳凰丸」と対をなし、水主衆の町らしく船形曳山「竜(龍)王丸」を造ろうと考えてましたが、江川町が「七宝丸」製作中との報せや当時の水主町惣代の尾張名古屋城の金鯱を見ての気転、富野淇園への相談などにより、海と水に縁ある町名にちなみ急遽「鯱」への変更となったようです。
 すでに唐津城の大手門は明治6年新政府発布の「廃城令」により取り壊されていたと思われ、大手門の高さを気にせず他町に負けない大きい「鯱」を造ろうと考えたようです。
 明治9年(1876)に初代「鯱」は完成奉納しましたが、あまりにも完成を急いだため紙張りも塗りも薄く、また大きさも現在の二代目「鯱」と比べひと回りもふた回りも大きかったようで家の軒先や電柱などに接触することも多く傷みが早かったとのことです。
 明治9年(1876)から約50年が経ち最初の塗替えに着手しましたが、あまりに傷みがひどかったため
昭和5年 二代目「鯱」落成記念
塗替え修復をあきらめ、昭和3年(1928)から再製(新造)することになった。瓦屋・中島嘉七郎氏に原型作りを依頼、張師・武谷關二郎の紙張りを町内のご婦人方が手伝い、石川県輪島の塗師・笹谷宗右衛門の塗り、京都の箔師・五明治太郎の金箔押しにより、約2年半をかけて昭和5年(1930)7月に現在の二代目「鯱」が完成しました。
 明治9年頃は明治維新後まもなくで世の中の変化著しく政情不安、内乱内戦(佐賀の乱・西南戦争など)が勃発。政情不安であれば庶民生活も不安定必至です。そして昭和5年頃は昭和恐慌や世界大恐慌で企業倒産が頻発する金融不安、女子が身売りされるような経済大不況。 
 古老の話によれば、昭和5年新造の際は経済不況のなか、水主町が創業地として縁のある醤油醸造の宮島家と酒造の宮島家の両家から多大な援助をいただき、また瓦屋・中島嘉七郎氏には無償で原型を作っていただいたとのこと。町民は各々の生業とは別に人夫仕事や内職などで金策し製作費用にあて、ご婦人方などは無償で紙張りを手伝ったとのこと。けして豊かではなかった庶民生活と激動の時代の最中、世相や経済状況に挫けず、現在の価値にして億とも言われる曳山を2度も造りあげた先人方の情熱と団結力、そして御苦労に只々敬服するばかりです。
 曳山とは産土神への信仰の現れとしての奉納神器であるとともに、正に町民の血と汗の染み込んだ、町民意思と地域コミュニティの核となる掛け替えのない象徴であり、唐津の地にあったご先祖様の歴史の積み重ねそのものではないかと思います。
 また古来連綿と唐津神社・大石大神社の御神幸に、奉納神器である曳山とともに町民挙って供奉し、「神人和楽」の下に唐津の街々を巡ってきたことが、人々のエネルギーや心の糧となり、唐津という町が現在まで衰微せずにつづいた要因のひとつではないかとも思います。

4.「鯱」が東町へ巡行する

 毎年の11月3日の御神幸で、御旅所である西の浜を曳き出した曳山は、大手口付近から自町へ各々の順路を経て帰町します。
 「鯱」の帰町順路は、大手口から中町・本町・木綿町を横切り材木町通り船宮町通りを東進します。そのまま宮島醤油本社工場前をとおり越し、三角屋の角も曲がらずに東進しつづけ東町通りの中ほど(川
東町の宮島家前を進む「鯱」
口整形外科付近)で止まります。そこで180度Uターンし若干の休憩の後、水主町に向けて西進、水主町集会所前の仮曳山小屋に戻ります。
 なぜわざわざ東町まで巡行するのか? 訳をご存知の方はそう多くないと思います。
 『昭和5年の「鯱」再製にあたり、多大な援助をされた宮島両家へお礼のご挨拶に伺うため』と思われている人もおられるでしょう。
 確かにそれも兼ねてはいますので間違えではありません。現に宮島家の皆様には玄関先で曳山を出迎えていただき、水主町の取締らもご挨拶申し上げてます。しかしそれとは別の本来の理由があります。
 それは、二代目「鯱」の原型を作られた当時東町在住だった瓦屋・中島嘉七郎氏との約束を履行するためにです。
 その約束とは、古老の話によれば『金策に困っている水主町のため原型作りを無償で請け負う、代わりに毎年のくんちの折に、隣町の東町まで手塩にかけて作った曳山を曳いてきて見せてほしい』というものです。
 今日、すでに嘉七郎氏は鬼籍に入られ、また中島家も東町から居を移してありますが、途中数年の中断はあったものの嘉七郎氏との約束を履行すべく、そこに嘉七郎氏が佇んで曳山をにこやかに眺めておられるはずとの思いで、現在も毎年11月3日に当時中島家があった東町まで曳山を進めています。
 このことは、ご苦労の末に稀に見る曳山を遺していただいた先人方々へ思いを致すためにも、そして次世代にその思いを引き継いでいくためにも、今後も永劫に続けていくべき大切なことと思っています。

5.水主町の肉襦袢と長法被


肉襦袢
 まずは肉襦袢から。
 よく他町の方から『水主町の肉襦袢の背中の文字は何て書いてあると? “み”の字?』などと聞かれます。
 ずばり水主町の頭文字「水」です。
 紫地に白抜きの「水」の字と波水紋様が水主町の肉襦袢です。この「水」の字は書道を嗜まれた方でしたら分かる方もおられると思いますが、草書体の「水」の文字です。我々水主町の者は通称「流れ水」と呼んでいます。
 この肉襦袢の意匠は少なくとも半世紀以上変わっていません、と言うより変えられないくらい町民の愛着が強い意匠です。(※「水」の字は揮毫者が一度変わっています)
 紫色の肉襦袢を纏った曳き子が綱を持ち一直線並んだ先に「鯱」が堂々と進んでくる光景は鳥肌が立つほどの感があります。
 
長法被
つぎに水主町の長法被です。
 久留米絣(木綿)で製織されています。30数年前に現在の長法被に統一されました。(それまでは茶金色の縞模様のいわゆる「丹前法被」が一般的でした)
 パッと見は「鯱」の文字とただの格子模様ですが、よくよく見ると格子模様が左右非対称です。
 この左右非対称の格子模様に私は妙味を感じます。この左右非対称の格子模様が意味するものはなんなのか...実はこの格子模様は水主町の地図(道筋)を現しています。
 背中の襟元が町の西方、裾が東方で、水主町在住や水主町生まれの者は『背中のここがオイんがたばい』と言えるようになっています。また初期作製の長法被の胴裏には「曳山の殿 鯱 受けて立ち」の町内公募の川柳が、某書家により揮毫されています。
 素晴らしいアイデアとこだわりの込められたこの長法被、穿った見方をすれば単なる意匠ではなく『曳山だけじゃなし、町そのものば背負っとるて思え!』と、先輩方から暗黙の訓示を受けてるように感じてしまいます。
 

6.水主町の大太鼓

 昨年(H24)水主町で発見がありました。
(すでに地元新聞で報じられましたが改めて紹介させていただきます。)
 どういった発見かと言いますと、水主町が所有する「大太鼓」が大変古いものだということです。
 唐津市東町に松下家というお宅があります。松下家は慶安2年(1649)の大久保公入部以来、藩の大船頭(水軍司令)などを幕末まで代々世襲した家柄で、その松下家に旧唐津藩の船方業務などを記した「松下家日記」が残っており、九州大学大学院などの研究機関でその解読がおこなわれてきました。
 その日記には旧唐津藩の御座船「正中丸」に搭載の太鼓胴内の革張替え銘文(年月と職人名)に関する記述があり、太鼓などの修復をおこなう福岡市の某太鼓店へ銘文の記録等の照会をされたところ、約十年前に水主町が革張替えを同店に依頼をした際に記録された銘文と日記の銘文記述が、江戸期3回においてほぼ一致したとのことでした。
九州最古といわれる太鼓
 研究機関の報告によれば、1)水主町の太鼓はもともと旧唐津藩所有のものだった可能性が非常に高い、2)水主町の太鼓は日記に記述の太鼓と同一時期に併存し同様に御座船などで使用されていた可能性が非常に高い、3)銘文から少なくとも350年以上前に作られた太鼓であり、現時点で九州最古の太鼓であることが確実、とのことでした。
 どういった経緯・経路で旧唐津藩所有の太鼓が水主町の手に渡ったのかは不明のままですが、水主町の太鼓には明治9年の張替え時の銘文もあり、これは初代「鯱」が奉納された年でもあります。このことから明治維新後に旧唐津藩所有の船具備品などが払い下げられ、曳山を奉納した水主町の手に渡ったのではないかと私は類推しています。
 いずれにしても350年以上の時を経た太鼓がよくぞわが町に残っていたものです。大切にそして有効に使用し、次世代へ引継いでいきたいと思っています。
 ちなみに、この水主町の太鼓はいまも現役で、唐津くんちや曳山囃子の練習の際に打ち鳴らされています。
 大石大神社にも古い宮太鼓があり、いかにも年代物の雰囲気が十分あります。また曳山十四ヶ町それぞれの町が太鼓等を所有しており、調査次第ではまだまだ時代を遡った貴重な発見があるのではないかと思っています。

 最後に、太鼓の話題つながりで水主町の曳山囃子の話をひとつ。
 水主町の曳山囃子には「いっちょ太鼓」という打ち鳴らし方があります。これは大太鼓だけを一定のテンポで打ち、曳山の進行速度の緩急を自在に操る水主町独特の囃子です。
 曳山が角に差しかかるときや、角を曲がり終えたあとに速度を上げるときなどによく打ち鳴らされます。

*おわりに
 
 以上、だらだらの拙文を最後までお読みいただきありがとうございました。
 当初、「わが町の曳山自慢」というお題で寄稿依頼をお受けしましたが、なんとなく書き進めるうちにこんな「四方山話」になってしまいました。
 みなさんが水主町の曳山を眺めるときに、この話がひとつのスパイスになれば幸いです。

 なお今回、文章を寄せるにあたり、次の文献著書の一部を参考とさせていただきました。
     「唐津神社の神祭と曳山に関する抄録」戸川鐵 著
     「曳山のはなし」古舘正右衛門 著
     「唐津神社社報」唐津神社発行
     「日本歴史地名体系42」平凡社刊

『鯱』 フォトギャラリー


七十七年祭 昭和27年


八十八年祭 昭和38年
二代目「鯱」と中島嘉七郎氏

昭和38年 西の浜御旅所


百二十年祭 平成7年
併せて水主町古老・白井好治翁の100歳を祝す。
白井好治翁は曳山大工として
二代目「鯱」の製作に携わった。


大石大神社の御神輿



平成23年 水主町水組 集合写真
       



あら~、皆さん、恰好いい!紫の肉襦袢も、実にイナセですね。

わが町の曳山への愛情がよく伝わりました。
忙しい中に、夜中に作業して原稿を書いて下さった前川源明さんに心よりお礼を申し上げます。

最後に、女将からのプレゼントとして、
雑誌『サライ』で全国的に有名になった、大石大神社の”かわい~いコマ犬さん”の写真をおみせして、
今月号はお別れです。



お付き合いありがとうございました。
また来月お越しください。


                     MAIL to 大河内はるみ