みなさん、こんにちは。
また8月が巡って来ました。
例年通り、8月号には重いテーマの戦争が登場します。
ただ、今回は、先の太平洋戦争でなく、もっと前、すなわち、110年も前の、日露戦争です。
唐津藩の小笠原長生公は、海軍で東郷平八郎元帥に仕えた方です。東郷元帥の詳しい伝記も書いておられますが、そんな偉い方の日露戦争でなく、兵卒たちの日露戦争を語りたいのです。
調査をなさったのは、前に「北波多の炭坑史」を書いてくださった楢崎幸晴さんです。今度もまた膨大な資料をお借りしました。
私がこの分量の資料をホームページで作製するのは1年かかっても到底無理(技術的に)でしたので、専門家に頼んで作っていただきました。原則的に楢崎さんの作成のファイルをリンクしてあります。
これらの資料は、大変大切なものであると思いますが、なにしろ多すぎて、お読みいただくみなさまも大変でしょう。できましたら、たとえば、目次の11番目の「小林徳一氏より、楢崎金之助氏にあてた書簡」の内容だけでもお読みください。資料3-59から3-70まで、12通の手紙がありますが、戦地の小林氏から唐津の病院に入院中の同年兵・楢崎氏にあてた懇切な手紙で、日露戦争の状況、兵隊さん達のおかれた環境、また、銃後の内地の様子までも、垣間見ることができます。驚くことばかりです。小林徳一氏も戦死、楢崎金之助氏もいわば戦病死、ともに20代前半の、まだ恋もせぬままの若い命を散らしたのです。
楢崎金之助氏の父・惣助氏と兄・喜太郎氏の哀惜の思いが、これらの書簡を収集させ、整理し、保存させました。喜太郎氏の孫に当たる楢崎幸晴氏が、現在の保管者です。
私ごとですが、私の亡き母が認知症になってから、お風呂に入れるのに、すぐ出ようとするので、肩を押えて、「お歌を歌ってからね」というと、いきなり歌い出すのが「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の・・・」という日露戦争時代の軍歌『戦友』でした。私達が子供の頃は、母は「ローレライ」とか「庭の千草」とかを歌っていたのですが、あれは、気取っていただけなんでしょうか。子供に返ったら、歌、といえば「ここは御国を」だなんて。しかも、何もかも忘れたはずが、この歌は14番まで乱れもせずに・・・。14番まで歌うと、「終わり!」と叫んでお風呂を飛び出そうとしました。あとで確かめてみたら、まさしく正しい歌詞だったので、驚いたことをおぼえています。母は日露戦争時には生まれていませんので、太平洋戦争時にも国から禁じられながらも兵隊さん達や女学生が歌い続けた歌だったのですね。それとも、幼い母を風呂に入れる時に祖母が歌い聞かせたものだったのかも・・・。
歌の中での遠いこととして、何の実感もなかった日露戦争を、このたび楢崎さんに突きつけられてたじろいだ私ですが、楢崎さんが、このことを風化させずに伝えたいという強い思いをお持ちですので、このページを作成するものです。日本がどのような経緯を経て、結局太平洋戦争にまでつながって行くのかを考える時に一つのヒントになるかもしれません。
また、資料の中には、私どもの祖父の弟にあたる大河内惣太氏への手紙もあります。当時まだ独身だった惣太さんが日露戦争に出征するのに、北波多村下平野の家を釘付けして出たと聞いていると、娘さん達が話していたのを思い出しました。
では、下記の「北波多の日露戦争」から、楢崎さんのページに入ってください。ファイルが相当重いものがあり、出てくるのに時間がかかる場合がありますが、どうぞお許し下さい。また、次の項目をお読みになるときには、恐れ入りますが、プラウザの「戻る←」で目次にお戻りください。
それではどうぞ、しっかりおつきあいくださいますようお願い申し上げます。9月号には、楽しいものを書く予定です。
|