唐津城下プチ・タイムスリップ~ちょっと古い写真の撮られた時代を振り返る~
河内野信恒
私が参加している市民グループに「まちはミュージアムの会」という町づくりの集まりがあります。この会は、唐津の城内地区をはじめ中心市街地の歴史や文化的資源を大切な宝として守り・活用して、まちを元気にしていこうという活動に取り組んでいます。昨年は、高橋是清が教師を勤めた唐津藩の英語学校、「耐恒寮」の勉強会を3回開催しました。その他、大正から昭和にかけての城内、内・外町地区の風情ある写真の撮られた時代を推察し、現代と比較する試「唐津城下・おもひで写真観」にも取り組みました。インターネット上のフェイスブックを使い昨年9月から実施してまいりましたところ、述べ17,000人以上(2013年4月25日現在)の閲覧がありました。当初閲覧の大半は、唐津市民の方だろうと思っていたのですが、フェイスブックの分析機能で調べてみると意外な事に東京が全体の28%で最多、唐津は23%で次点でした。25~54歳の男性が全体の57%を占めている事も判りました。今回は、その「おもひで写真観」から反響の大きかった写真をいくつかご紹介します。
最初の写真は、明治9年(1876)に製作され昭和初期まで曳かれていた水主町の曳山・鯱(所蔵:唐津神社)です。見慣れた現在の鯱(写真右)と比べて胴回りが太く、額のトゲや歯が凶暴そうに見えます。この鯱は他の曳山に比べ大きくて、操作も難しく傷みが早かったようで、中島製瓦の先々代・中島嘉七郎氏が昭和3年~5年にかけて製作したものが現在の鯱です。それまでの鯱にはなかった「耳」は、嘉七郎氏の夢の中でイメージが広がり、付けるに至ったそうです。古い方の鯱は、大石神社の境内に置かれて子供たちの遊具となり、やがて朽ち果てていったとのことですが、台車のみは今も曳山展示場で観ることができます。フェイスブックには「祖母が今の曳山の貼りを手伝ったと聞いております。」というメッセージもいただきました。
2番目の写真は、昭和40年代の競艇場です。昭和28年に開設した唐津競艇場、現在の鏡に開場したのは昭和50年で、それ以前は栄町埋立地付近にあり、水面は松浦川河口を利用していました。水面の干満差が2mもあったため、大潮の干潮時に選手が転覆して立ち上がると、水面が選手の膝の上までしかないという状態だったそうです。また唐津駅の市街地に近かったため、違法な路上駐車で苦情が絶えなかったとのこと。この写真は唐津城から撮ったものでしょうか?現在の唐津城駐車場の右端には、当時の唐津市体育館も写っています。(wikipedia・唐津競艇場より一部引用)小さい頃、お爺ちゃんやお婆ちゃんに連れられて競艇場へ行った事や、体育館にプロレスを観に行った想い出話で盛り上がった写真でした。
くんちに限らず唐津には取材やロケ等で、多くの著名人が訪れています。最後の写真は、唐津神社さんのアルバムから見つけました。上の二枚は渥美清さん、昭和49年12月封切りの男はつらいよ・第14作・寅次郎子守唄のロケ時のようです。マドンナは、十朱幸代さんで唐津くんちの他、呼子も舞台になりました。迫力満点の和田アキ子さんとうつみ宮土理さんはテレビのロケでしょうか?閲覧された方からは、「男はつらいよ」・「裸の大将」のロケの想い出や和田アキ子さんの出演した番組情報や、洋々閣さんではお馴染みのジャック・マイヨール氏の話も書き込まれました。