叔父の蓄音器
―クラシック音楽に魅せられた大正モダンボーイたち―
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6月には「父の日」が来ます。
明治39年に生まれた私の父は、89歳で平成7年に亡くなりました。生前にまともな父の日のプレゼントをしたような記憶がなく、今更悔やんで
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東京都千代田区西神田1-1-2 梅田屋 梅田英喜氏 |
もしかたないのですが、今月は父を思いながら、ある蓄音器のことを書きましょう。
洋々閣に現在飾っている昭和初期の蓄音器は、主人の叔父・大河内嘉市の遺品です。 叔父様の亡きあと、この蓄音器は、「壊れていてもよければもらって」と、娘の珪子さん、紘子さんから、うちに頂いたのです。私は、きっといつかはこの蓄音器を修理してくれる人が現れると信じて待っていました。
今年の2月頃に、フルート奏者の有田正弘先生がお泊まりになった時に、片隅に置いていた蓄音器を見つけられ、これはどうしたと興奮気味でした。なんでも近年は、熱心に古い蓄音器とSPレコードの収集をやっておられるそうです。音楽家としての使命と思ってそういう物の保存に取り組んでいると仰いました。
「壊れているんですよ」とお話しすると、ちょうど今から東京の梅田さんと言う人がここに自分を迎えに来てくれることになっていて、その人が蓄音器の修理をするから見て貰ったらどうか、と勧めて下さいました。
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蓄音器のラベル
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梅田さんが来られて、診察してもらったところ、「大丈夫、治せます」とのことで、大喜びでお願いすることにしました。
その後、私が指示通りに機械部分を取り外して、ていねいに梱包して東京へ送りました。
戻って来たのは、3月初旬です。梅田さんから電話があり、自分が直接また来て取り付けるから、梱包を解かずに置いておくようにとのこと。
東京での修理の際には、悪いところが何十カ所もあり、思った以上に難かしかったそうです。ゼンマイは切れている、サウンドボックスの針の取り付け部分の鋳物はぼろぼろに崩れている、回転盤もストッパーも、どこもかしこも疲労していて・・・。
3月16日に梅田さんと奥様が来られて、取り付けが始まりました。
機械部分の取り付けが完了し、本体の前後左右を確認されますと、何と、箱の部分に大きくずれが生じていて、ホーンが抜けていて、音が漏れることがわかりました。これでは、音の聞こえが悪いのです。
「いや~、やっぱり来てみてよかったなあ」と言いながら、梅田さんがねじり鉢巻きで大工仕事をなさいまして、どうやら完成致しました。
この蓄音器は、東京帝国大学工学部の隈部一雄博士の設計で神林製作所が製造したもの。アポロン300号です。昭和6年のアポロンのカタログに180円と出ているそうです。叔父が買ったのは昭和7年ごろとのこと。教師の給料では大変だったのではないかとおもいます。
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修理中の梅田氏 |
梅田さんに、うちにあるSPレコードも見て頂きましたら、結構いいのがたくさんあるようで、私達は大喜びを致しました。
レコードに関して言えば、叔父のレコードも沢山あり、私の父もいくらかは遺していますが、更に、主人の友人の平岡晟氏が、亡くなったお父様の遺品のクラシックのSP盤をたくさん下さったのです。
叔父・大河内嘉市(明治40年生)、友人のお父様・平岡清一氏(明治38年生)、私の父・山口初嗣(明治39年生)の3人のレコードが集まっています。
この3人は皆、明治の終わりごろの生まれで、大正時代に少年、青年期を送った人たちです。3人の面影を思い出すと、3人が3人とも、ほっそりした、もの静かな人たちで、互いに尊敬し合っていました。読書や音楽鑑賞が好きで、大正のモダンボーイたちでした。3人とも、90歳近くまで長生きしました。
4月の21日に、私は、初めてこの蓄音器を使って、ミニコンサートを致しました。その時は唐津ボランテイアガイドの総会で、30人程が集まっていたのですが、懇親会に移る前に蓄音器をかけたのでした。ビクターの赤盤を使って3曲だけの短い
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小さなレコード・コンサート |
コンサートでしたが、電気で増幅するわけでもない手回しの蓄音器が、結構な音を出すのでみなさんびっくりしておられました。また近いうちに、ちゃんと計画を立てて、コンサートをしたいと思っています。
「今日は、聴いて頂いて、有難うございました。草葉の陰で、3人の大正モダンボーイが喜んでいることでしょう」と、私は挨拶しました。
亡き父達への父の日のプレゼントとして、私はこのページに蓄音器の事を書き、このあとには、叔父の二女である辻紘子さんに思い出を語って頂きます。
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“父の思い出”
横浜市 辻紘子
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三月に早目の父の17回忌を済ませた数日後、洋々閣から父が生前大事にしていた壊れた蓄音器が元通りに直ったよとの連絡が入り、すぐお仏壇にお灯明をあげ、“お父さん、よかったですね!”と報告しました。
それで思いつくまま、父の思い出を蓄音器の事と共に綴ってみました。
明治40年9月23日父は唐津市石志(その頃は東松浦郡石志村でしょうか)に農家の次男坊に生まれ、小さい時から勉強好きで余り裕福な家ではなかったのに旧制唐津中学に進み、毎日汽車に乗らず歩いて通学し、その時英語の辞書を歩きながら読み単語を覚えたとか。
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昭和20年ごろの家族写真 |
当時校長先生だった下村湖人先生(次郎物語の作者)に勧められ広島高等師範学校の英文科を受験し卒業、宮崎高女を皮切りに最後は伊万里高校の校長で退職するまで英語の教師でした。
当然教え子も多く、特に宮崎、大分県時代の生徒さんにすごい人気で定年後も慕って訪ねて来て下さったり、同窓会に招待されたりしてました。
昭和9年に母と結婚して大河内の姓になり姉が翌年に生まれ私は太平洋戦争の真っただ中昭和17年1月父の出征中、弟は終戦の翌年誕生しました。
戦時中は英語は敵国語と禁止され、修身の先生をやらされたと聞き、父にとってどんなにか不本意な辛い時代だっただろうなと思いました。
戦後は食糧難で開墾地を耕したり、家の屋根にかぼちゃを這わせたり、姉とチビの私も荷車の後押しをしたり手伝いました。貧しかったです。
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新婚時代の父。クラッシックの名盤を聴く。 |
父は趣味が多くて前述の蓄音器は結婚前宮崎時代に求めたのでしょうか。畳半畳は占める位で高さも120センチ位?の手回しで針が竹でそれを専用のハサミで切ってかけていました。 土、日曜日になると、教え子の秀才たちが集まって来て、蔵書に囲まれた十畳間はまるでサロンのようだったとか。父はクラッシック(ホロビッツのファン)、謡曲を聴いて楽しんでいました。お謡が上手で声がよくて孫の結婚式でも披露して呉れました。碁は下手の横好きかな。シェークスピア が好きで本も沢山揃えてあって私も中学、高校時代そっと本棚から持ち出して拾い読みしていました。背は高くなかったのに、おしゃれでDANDYでソフトがよく似合いかっこいい自慢の父でしたが、家では厳しい父親で寄りつき難い人でした。
でもお正月には百人一首とかトランプで遊んだり家族の誕生日にはお祝いをやってくれましたし、戦後まだクリスマスとか云ってない時代にイブに枕元に靴下を置いて寝ると翌朝サンタさんからのプレゼントが置いてありました。大抵、カルタ、すごろく、本の類でしたが。
お酒は好きでほろ酔い気分になると素敵な笑顔が出て、オハコのひえつき節をよく唄ってました。麺類と混ぜご飯が好物でこれさえあればご機嫌。
最後に、古里の裏山の霧差山(唐津市石志)が父の原点だったのかなと思います。私には分からずじまいでしたが、何故か一生霧差山にこだわっていた気がします。
お得意の短歌から
さ霧立つ霧差山の麓辺に鍬音ひびく田にも畑にも
ふるさとの霧差山にいま一度のぼらむ日のためさする細脚
亡くなる前の年、親戚の方々に助けられて最後の登山が出来ました。皆様本当に有難うございました。
叙勲の時の短歌を扁額に仕立てたものは、洋々閣の御好意で「高島の間」にかけていただいております。
嘉されて宮居を歩く嬉しさに二足三足夢心地なる
そうそう、皇居の授与式に行く時、私が案内したのですが、途中、桜田門の信号辺りでタクシーが渋滞して集合場所の国立劇場に間に合わないと渋滞慣れしていない父に叱られたのも思い出です。勿論十分間に合いました。
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在りし日の父母 唐津の実家で |
あ、父の好きな花は萩と彼岸花でした。
平成9年4月2日、佐賀の病院で89歳で亡くなりました。遠方なのを理由に親孝行もせずに御免なさい。墓に布団は着せられずです。
今はランドマークタワーの見える丘の上で祖母、母、弟と共に静かに眠っています。
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紘子さん、ありがとうございました。
最高に知的で、ロマンティックで、チャールズ・ラムの「Essays of Elia」を愛読していらした叔父様。そういえば、歌を詠むときの号は、「良夢=らむ」でした。
レコードを下さいました平岡家の皆様にも、お礼申し上げます。
皆さまも、どうぞお父様をお大切になさってください。ほんとに、墓に布団は着せられませんもの。
ではまた、来月お目にかかります。
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今月もお越しくださってありがとうございました。
また来月もお待ちしています。
MAIL to 大河内はるみ |
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