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なんという幸運か、乗ってたアシアナ航空の機内誌で、ちょうど到着の次の日にお祭があるのに気が付きました。下記の神話の3つの姓の子孫たちが行う祖先を祀る式典で、黒い服を着た済州島知事が祭主を務めるものです。はるかなる昔に思いを致しながら、ゆっくりと伝統の祭りを楽しみました。この場所は、その3氏(コ、ヤン、ブ)の祖先の神社みたいなもので、付設の建物には神話の説明や、3氏にまつわる歴史的なものの展示がありました。なんだか宗像三女神とも関係がありそうで、ワクワクしました。
耽羅国(タムナ国)三姓神話 (ウィキペディアより)
済州島には、「三姓神話」という、朝鮮半島とは違った耽羅民族の独自の建国神話があり、高麗史や世宗実録におよそ次のような内容で表されている。
瀛州(ヨンジュ)と呼ばれ、未だ人の住まない太古の濟州に「高、梁、夫」の3つの姓を持った3人の神人(3神が高乙那・良乙那・夫乙那と描かれるものも)が、漢拏山の北山麓の地の穴(三姓穴)から現れたのが現在の済州の人々の先祖であるという。ある日、漢拏山から遠くの海を眺めていた彼らは、日本海の方から流れてくる木の箱を発見した。開けてみると、箱の中には東国の碧浪国(日本と取る学者もいる。)から来たという紅帯紫衣の使者と美しい3人の姫と駒と馬と五穀が入っており、神人は、彼女達を妻として迎え、年齢順に住処を定めて暮らすようになった。その後神人の子孫達は、産業と五穀の栽培を始めて集落を作るようになり、約900年後に皆の人望を集めた高氏を王として、初めて「タクラ」という王国が成立したとされる
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サングンブリという死火山の火口には400種以上の希少生物がいて、独自の生態系があるそうです。しばらく眺めていたけど、雪の積もった斜面に動くものは見当たらず、道も無いので降りてもいけず、あきらめて帰りました。いつか、きっと。ちゃんと双眼鏡など持って何時間も粘らなきゃいけないでしょう。
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ここではパクさんがお金をいくらか払ってみかん狩りをさせて貰いました。たらふく食べて、おみやげにも持って帰ってホテルでも食べましたが、残念ながら飛行機に乗せて帰るわけにはいかないのであります。みかんはとても甘かった。
済州島のいたるところに石(火成岩)のトルハルバンと働く女性の像があります。トルハルバンは、右手が上に位置するものは文官で左が上が武官だそうです。水甕を背負った女性は、女性のみが働いて男性は働かなかった済州島の風習を表しています。
ナンタルチア!ケシカラン!女性たちは川のない、地下水のない、この火山島で、遠くまで水を汲みにいったのですね。また海に潜り鮑やさざえを採ったのですね。地に貼りついて農業もしたし。今は世界的なリゾートとして高級ホテルが立ち並んでいますが、それとても地元のいなかの女性の入れる世界ではなく、都会からしゃれた若い人たちがたくさん来て稼いで帰るそうです。
この石の女性はうなだれて泣いてるようにみえませんか。
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島の至ることろに石垣や石の建築物が見られます。済州島は三多島とも言われ、「風が多い、石が多い、女が多い」のだそうです。畑を風から守るために、また昔たくさんいた黒豚にやられるのを避けるために石垣をめぐらせたそうです。ここでもバカな質問をした私。
「貧しい人たちがこんなに沢山の石を買うのも大変だったでしょうね」
パクさんは唖然としてわたしを見て、それから噴き出して教えてくれました。「あのね、この島は掘っても掘ってもゴロゴロと石ばかり出てくるの。それを周りに積み上げて、やっと畑ができる。だから、石はコンチャ(タダ)」
あ、そうか。なるほど。よかった。
コンチャなら一つ持って帰るか、と触ってみたけど、多孔質の石であってもやっぱり重いよね。穴がぼこぼこあいた石は人の顔のように見えて、やっぱり泣いてるようだった。 |
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城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)の向かい側に、ある財閥が開発したリゾートがあって、高級ホテルや別荘、そして安藤忠雄が設計したグラスハウスというレストランがあった。下のホテルで車を置いてシャトルバスで上までいくことになっている。環境保全のためらしい。
日本の直島にあこがれたこの財閥のオーナーが安藤忠雄氏に依頼したリゾートだそうな。
わたしたちはグラスハウスでぐるっと300度近い丸い水平線をみながら温かい柚子茶を飲んだ。丸い水平線は初めて見たので、不思議な感じだった。 |
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写真の中ほどに黒豚の後ろ姿が見えますか?
家屋の横を掘り下げて石で囲ってブタを飼ったそうです。家から出てきたところに穴の開いた板を渡して、そこが人間のトイレ。真下でブタが待ち受けて落ちてきた物を食べる。たくさん食べたブタがうまい、とパクさんが。「人間のアレって豚にとっておいしいのですか」と聞くと、パク夫人が「それはおいしいよ、味がついてるからね」と。そうね、今日は塩味、明日は味噌味、そして醤油味・・・。今時なら、マヨネーズ味、ケチャップ味、バター味、ソース味。あ、ごめん。へんなこと言って。ともかく、すばらしい命のサイクルですね。
「写真写すからこっち向いて」って豚さんに頼んだけど、知らんふりで向こうに行ってしまいました。
鹿児島のクロブタは六白といって、白い箇所があるけど、済州島のブタは沖縄の島豚と同じで全身まっくろです。 |
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伝統家屋のある村の風景は日本の昔の村のようです。家々の入り口に柿の木とかいちじくとかがあって、家を護っていますよね。なつかしい感じがしました。 |
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早起きしてホテルの窓から日の出を見ました。右下のほうはちょっとハワイっぽいでしょ。 |
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済州島の海岸線は砂浜でなくほとんどが火成岩のごつごつです。玄武岩の柱状節理も多くみられます。下の写真は唐津市七つ釜の柱状節理。そっくりですね。
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柱状節理の崖の上に小さな花たちがお互いにしがみついて咲いています。風から身を守るにはささえ合わなきゃと言っているようです。なんという菊でしょうか。判りにくいけど左上のほうには薄紫の花もあります。どなたか花の名を教えて下さい。. |
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天地渕の滝
滝の上には川はなく、地下水の滲み出た物がここから落ちます。滝壺から海まではごく短い川があります。すてきな散歩道でした。世界遺産のプライドか、何処も掃除が行き届き、管理が行き届き、日本の観光地のゴミだらけが恥ずかしいようでした。
夏場は水が今よりずっと多いそうです。 |
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秋史先生(チュサ先生)と慕われる朝鮮時代の学者・書家、金正喜は政治的な理由で済州島に流されましたが、その時の家が立派に保存され、記念館が建っています。ずいぶん前に秋史先生の美術の本を人からいただき、またしばらく前にソウルの博物館でも実物の絵を見ていたので、ここで秋史先生に会えたことがとても嬉しかったです。観光客は日本人はほとんどいないようだったけど。
きんせいき【金正喜 Kim Chŏng‐hǔi】 1786‐1856
朝鮮,李朝後期の実学者,金石学者,書芸家。字は元春,号は秋史,阮堂。はやくからその書芸と経学の才を北学派の朴斉家に認められ,彼の薫陶の下にその学問をみがいた。24歳のとき副使となった父について北京に旅行し,翁方綱(《四庫全書》の編纂者の一人,当時78歳)と阮元(《皇清経解》の編者,当時49歳)の二大碩学の知遇を受けたことが,彼の学問の範囲と方法を決めた。晩年,前後12年の流配(済州島に8年)にあったが,訓詁学(漢学)を道具に性理学(宋学)に至る漢宋兼備の〈実事求是説〉を堅持して,経学(礼,易),金石学,書芸に研鑽を積んだ一生であった。
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秋史先生の流配地での家はそれでも立派な家が幾棟もありました。正門の三本の木は済州島独特のサインで、三本ともこの写真のように降りている場合は、「家におります。どうぞお入り下さい」 一番上だけ降りてる場合は、「主人は留守ですが家族はおります。お立ち寄りください」
二本降りてる場合は、あれれ、なんだっけ、忘れてしまった。
三本とも上がってるときは「ただいまみな留守です。またお出で下さい」
「そしたら泥棒がはいるんじゃないですか?わざわざ留守だと知らせたら」と私。
「チェジュにはトドギ オプソ(泥棒はおらん)」とパクさん。すみませんでした。 |
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盆栽公園にも行きました。30年も前から人にバカじゃないかと言われつつこの公園を作って来た人がいます。何百年の木を、痛んだところを補修しつつ、盆栽に仕立てて守っている人です。くるっとまわるのに1時間以上。ふしぎに心が静まりかえって、痛いほどの寒さもほほに気持ち良いような引きしまった感じでした。 |