#153
   2012年12月


傘寿祝賀会

このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や、
とりとめないオシャベリをお伝えします。
他の方に書いていただくこともあります。
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優しさ、そして、強さ
仁平須美子先生

ひとのために尽くす生涯



こんにちは。この冬は、えらく寒いですね。私が年をとっただけかしら?
こんな時には、思い出しただけでも自然と笑みがこぼれてくる、そんなあったか~いひとを御紹介するのがいいでしょう。
今月号は、仁平須美子先生のご紹介です。


 仁平先生、こうこう、こういうわけで、洋々閣のホームページに原稿を書いてくださいませんか。
イヤですよ。自分のことを書くのはダメ。
あれま、困った。それなら、インタビューに応えてください。ね、ね、いいでしょ?お酒飲みながら、じっくりとお聞きしますから。
え~、どうしようかな~。お酒のみながら?う~ん、まあ、いいか。でもヘンなことは聞かないで下さいよ。
はい、了解!ヘンな事は聞きませんです!

 かくて、交渉成立。11月のある夜、おつまみとお酒を用意して聞き取り調査を開始しました。
インタビューアーは、洋々閣 女将 大河内はるみです。
御一緒に、この席ににいらっしゃるつもりで、インタビューを聞いてください。


青い字
が聞き手・大河内はるみ、紫の字が仁平須美子先生です。では、スタート!
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先生、こないだの八十歳のお祝いのお写真をみながら、お年が信じられないほどお若いので、秘訣などをお聞きしたいと思ってますから、そこんとこ、よろしくお願いします。

あら、自分でも信じられないんですよ。八十歳だなんて、うそでしょう。ホホホ。

確認しましょ。何年のお生まれですか?

昭和七年です。十月六日。

やっぱり、80歳! どこでお生まれに?

東京府東京市神田区。

え~っ、東京市? わたしは先生が唐津っ子だとばかり思ってました。

父が農林省の漁業監視船に乗ってて、昭和8年に転船命令で唐津に来たので、わたしは生後半年から唐津の山下町の住人でしたよ。

ああ、それなら、やっぱり唐津っ子ですね。家族全員で唐津に来られたのですね。

祖母とお手伝いさんと・・・。父は海上が多くて、祖母に育てられたんですよ。
七五三 七歳

え? お母様は?

母は東京から直接九大病院に入院。肺結核でした。私が7歳の時になくなって。 一緒に暮らしてなかったので、母の記憶はあまりないの。

そうですか・・・。つらいことお聞きしてごめんなさい。おばあ様はどんなかたでした?

「水戸の女傑」と言われていたとか。虚弱でわがままな一人っ子のわたしを育てるのに大変だったようですよ。庭にブランコや鉄棒を作って同年代の近所の子たちが遊びにくるようにしてくれたし、4、5歳のころからは意味もわからないのに、床の間前に正座させられ、藤田東湖の「弘道館記」の拓本の掛け軸をみながら、「弘道とは何ぞ、人よく道を弘むるなり・・・」と祖母について唱えたり・・・。祖母との日々は今も鮮明に記憶に残ってますよ。現在の自分を考える時、祖母の影響を強くうけていると思います。

まあ、すばらしいおばあ様だったんですね。いつまでおばあさまと御一緒に?

わたしが12歳の時まで。その2年前に、新しい母が来て、弟と妹も生まれたのですよ。

そうでしたか。先生、おばあ様のために乾杯しましょ。かんぱ~い。

わたしがお酒飲むなんて、祖母が知ったらびっくりして出てくるかもね。出て来てちょうだい、おばあ様。

それで、学校は唐津ですよね、もちろん。

はい、そうよ。昭和二十年に唐津国民学校を卒業しました。

その前の戦時中には、どうでした?

教育全般に皇国の道への修練が徹底され、教育の機能を失っていたんですよ。「欲しがりません勝つまでは!」という精神。戦地の兵隊さんに慰問袋や慰問文を送ったり。戦闘機の油用にと、校庭にヒ麻を植えたりね・・・。警戒警報のサイレンが鳴ると防空頭巾をかぶって、地域ごとに6年生に従って帰宅したり・・・。

終戦前に女学校へ進まれましたよね?

ええ、昭和20年4月に。唐津高等女学校。

あ、今、県の総合庁舎あとに早稲田中学、高校の寮が建ってる、あそこですね。私が高校生の時は、あそこは唐津西高でした。

はい。ところが昭和22年に学制改革があり、唐津高等女学校付設中学というのに編入になり、その1年後には唐津高等学校に入学ということになるんです。

女学校の入試はどんなんでした?

筆記試験はなくてね、内申書と口答試門と体育テスト。それまでは虚弱児で体操の時間は休みがちだったので、入試のために跳び箱、鉄棒など居残りで練習して・・・。苦労したのよ。

先生、ぐっと一杯いきましょ。クローにカンパイ。

教科書もわら半紙にガリ版刷り。しかも墨ぬり、今まで習ったことは何だったのといいたい。勤労奉仕も男手代わりに、トラックの荷台にのって打上、高串などに田植えや麦刈に行って・・・。脱脂大豆、高粱のご飯・・・。食料のない時代に農家の白米のご飯や庭先のヤマモモの実のおいしかったこと・・。忘れられない。さ、はるみさん、も一杯いこう!

そんで、先生、幼稚園の先生になられたのは、なんでデシュカ?

幼稚園就職の年
あのねえ、わたしが幼稚園の先生になんでなったか、って?そんなこと、聞かないの!わたしが幼稚園の先生にならなくて、誰がなるっちゅうの。

そんでも聞きたいんだも~ん。

しようがないはるみちゃんね。あのね、わたしったら、幼児期から幼稚園の先生になるって夢を持ってたんだから。えらいでしょう。は~っはっは。

だから~、どうしてそうなのかって、聞いてんでしょ、センセ。

幼稚園に通園してて、楽しかった~。先生はやさしかった~。だからそうなの。判った?

ははァ、一人っ子で、お母様は入院しておうちにいないし、幼稚園の先生にあこがれたのね、センセ!

分析せんでもよろしい。ほんとは、年の差のある弟を幼稚園に送り迎えしてた時に先生方に目をとめていただいたのか、高校卒業の年に、急にやめられた先生のあとにどうかと声をかけていただき、大学進学は家庭の事情で難しかったから、二つ返辞で引きうけて、資格はないまま助教諭で市立唐津幼稚園に奉職したんです。そういうわけ。

ふ~ん、運命ですねえ、宿命かも。つまり、天職ってわけ。 おそれいりました。 ウンメイにカンパ~イ。ところで、幼稚園の先生の時代にうれしかったこと、なんてのはたくさんあるでしょね。

昭和32年 鏡山 遠足

そりゃあ、園児さんたちとの毎日が、楽しく充実していて、あ~、なつかしい。こどもたちにカンパ~イ。

そのなかでも特にうれしかったってことは?

お茶の水女子大で講習を受けて、認定で幼稚園教諭の資格が取れた時もうれしかったし、
昭和49年ルーブルにて
昭和49年には文部省派遣海外教育事情視察団の一員として40日間ヨーロッパに行ったことかな。昭和51年に43歳で園長になってからは、いろんな方の協力で遊具を寄付してもらったりしたこと。最後まで、唐津幼稚園一筋に勤めあげた事も、喜びでした。最近では、傘寿の祝賀会を開いてもらったこと・・・。

センセ、たくさん表彰も受けてるじゃないですか。叙勲だの園遊会招待だの、何べんも。

唐津のれん会さんやソロプチミストさんからごほうびを頂いたし、文部大臣表彰やら総務大臣表彰やら市政功労賞やら、叙勲まで頂いたのはいただいたけどさ、実力も伴わないのにたびたび賞を頂くので恥ずかしくもあり、あんまりそんなこと書いちゃイヤよ。

平成21年 春の叙勲
は~い、書きません。内緒にしときま~す。でもお祝いにカンパイちまちょ。

あなた、飲みすぎじゃない?ダイジョウブ? ハ~ッハッハ、なにその顔、あ~おかしい。

私はもともとこんな顔のお多福デシュ。そんでさあ、つらくて泣いたことはなかったんですか?

そりゃあ、あったわよ。た~くさん!でもそのおかげで心身ともに強く、自立でき、何事も前向きにとらえることが出来るようになったと、ありがたく思ってるんよ。

ふ~ん、エライ!ところで、センセ、若くして退職なさったのよね。もったいなか~。

55歳でね。昭和63年だった。在職37年間。

よくやった、スミコセンセ。御苦労さま。カンパイしよう。ありゃ、もう酒がない。お~い、酒!

もういいの。たいがいぶんにしなさい、はるみちゃん、困った子だね。

それで、退職後はどうなんですか、センセ!淋しくない?
2009年にもヨット世界大会開催

退職してもこどもたちとの関わりを持ち続けたいと思ってたけど、ちょうどスナイプ級ヨットの世界大会があると言うので、それをきっかけに唐津ボランティアガイドに入って事務方を引きうけることに。

そうそう、そうなんです。不肖この私・はるみちゃんが万年副会長を務める善意通訳の会「唐津ボランティアガイド」が、25年前のヨット世界大会を機に大きくふくれあがって、どうしても事務方が必要で、先生の教え子たちが日参して口説き落として先生に来ていただいたんでした。ただでこき使ってすみませんでした。おかげで唐津ボランティアガイドはず~っとまともに機能してます!センセに足を向けては寝られませんデス、ハイ。

あなた、今わたしに足を向けて半分寝かかってるの、わかってる?

いいえ、そんなことはしてまシェン。カンパ~イ。あ、カラッポだ。

そろそろ、インタビュー終了しましょう。

ダメダメ、まだ聞いてないことあるもん。健康法とか、趣味とか、座右の銘とか・・・それからなんだったっけ、好きなアイドル歌手は・・・。

健康法は、よく食べ、よく飲み、よく歩く!傘寿のお祝いにいただいた靴が歩き易くってねえ。もっともっと歩けってことだね。趣味は、常に動いていること。しいて言えば、字を書く、美しいものをみる。座右の銘は「誠心誠意」。あ、それから、レイモンド・チャンドラーのことば、「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きてゆく資格がない」。 つらい時に心に響いて、以後いつもこころで唱えているおまじないよ。

ふぁ~い、わかりました。強くて優しい仁平須美子先生!今日のインタビューはこれでおしまい。センセ、ワタシ寝る。子守唄うたって。

はいはい、おやすみ。ネンネンコロリ。また今度。

                                       




優しく、そして強く生きてこられた仁平須美子先生は、まだたったの80歳です。これからも健康維持のために国内小旅行を続けたい、また、わずかでも誰かの役に立てることを続けたい、そして最後は、笑顔と感謝でソッと終わりたいとおっしゃいます。唐津市環境巡視員、社会教育委員、総務省行政相談委員、など、やすむ暇なくひとの為に尽くしておられます。生まれ変わったら今度は何になりたいですかとお尋ねすると、「生まれ変わっても幼稚園の先生になりたい。今度は自分で園を経営したい」とおっしゃいます。

私は先生の教え子ではありませんが、先生の教え子で、もう孫もいる年なのに、いまだに先生に会うと甘える男性たちを知っています。先生の笑顔には、一瞬にして大人を子供のこころに戻す魔法の力があるようです。

平成二十四年もこのページにたくさんお越しいただき有難うございました。来年も皆様にとっていい年になりますようにおのりいたします。
ごきげんよう。






  今月もお越しくださってありがとうございました。
  また来月もお待ちしています。
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