#149  2012年8月

このページは女将が毎月更新して唐津の土産話や折々の想いをお伝えします。
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女将ご挨拶#1





すみ子さんのアルバム


 みなさま、暑さの折、お元気でいらっしゃいますか。
8月は九州ではお盆の月。今月号は、私ごとでまことに恐縮ですが、6月に母を亡くして初盆ですので、母のことを書かせていただきます。まだ毎朝目が覚めるたびに母がいないことを思うと悲しいのですが、いつまでも嘆いていてもいけませんし、悲しみを卒業するためにもここで頑張って書きます。

 母・山口スミ子は6月6日に病院で息を引き取りました。96歳でした。
今日、このページに書きますのは「すみ子さんのアルバム」というタイトルにしようと思います。ちなみに「スミ子」と言うのが本来の表記ですが、こどもに返ってからは本人も名前を書かせるとひらがなで書いたりしました。呼びかけにも「母さん」と呼ぶより「すみ子さん」と呼ぶのによく反応しました。ですから「すみ子さん」とここで書くのは、幼い子供の状態の母のことです。

 母が79歳の時に父が急逝し、そのあとうちの近くに引っ越して一人で何とか暮らしていましたが、83歳の時に脳梗塞で倒れて身体が不自由になりました。一度はそれでもだいぶ回復して歩けるようになりましたが、6年ほど前に二度目の梗塞が起こり、左半身がマヒしてほぼ寝たきりになりました。それから日増しに認知症が進み、なにもかも忘れるようになりました。その頃私が母の為に作ったアルバムが「すみ子さんのアルバム」です。沢山の写真の中から選びに選んで、母が自分が誰であるか思い出せるようにと願って作ったものです。

 母の13年にわたる闘病の記録はすなわち私が介護に明けくれた13年ですが、そのことは書きますまい。ただ、このアルバムが母に自分自身を思い出させ、家族を思い出させてくれたことを書きたいのです。
ご一緒に母を偲んでいただければありがたいと思います。




 アルバムの1ページ目は、母の両親です。すみ子さんは、この写真をじっと見つめていました。
「この人たちは誰?」と聞くと最初は返事が出来ませんでしたが、何日も繰り返しているうちに、「父と母」とちいさな声で答えるようになりました。「私の、」という言葉はむつかしかったようです。でもそれでも十分ですよね。両親を認識出来たのですから。私は遠い昔に亡くなった祖父母に感謝しました。
 母の家族の写真です。場所は韓国の釜山。母の両親は日韓併合の時代の初期に韓国に渡り、3人目の子供からは釜山で生まれています。母が6人兄妹の末っ子です。大家族ですね。母は、白いおべべの女の子の後ろのおさげ髪の女学生です。
 この写真の全員を認識するのは難しかったですが、家族だということははっきりわかっていました。
「ここはどこ?」というと「ソウリョウ」と答えました。(釜山市の草梁(チョリャン)のこと) 時にはこのうちに帰りたがりました。90年前の「うち」に。「母さんが待ってるから」って。
 次兄は末の妹にとてもやさしかったそうです。
 この写真を見て、兄の名前は言えませんでしたが、「おにいちゃん」と言えました。この兄は60代で亡くなりました。その時母がどんなに悲しんだか私も覚えています。いつも朗らかな母が毎日台所ですすり泣いていました。
 母の3人の姉たちのうちの二人です。
右側の一番上の姉よし子は晩年は私の実家で一緒に暮らしましたので、一番母と縁の深かった姉です。
写真を見て「よしこ姉さん」とはっきり言えました。
 母が最初に倒れて高熱にうかされている時に、しきりに「姉さん、何の用事?どうしたの?」とうわごとを言うので、「誰と話してるの?」と尋ねると「よし子姉さんがそこに立ってる」と言いました。その直後に病院から電話でよし子伯母が危篤であると知らされ、かけつけて私一人で最期を看取りました。その時に私は、「伯母さん、お願いだから一人で逝ってね。母さんは連れて行かないで」と頼みました。
 伯母は亡くなりましたが、母は峠を越しました。不思議な事があるものです。伯母は95歳で、最後まで頭ははっきりしていました。
 年代が戻りますが、女学生の母です。女学校は釜山高等女学校。「冨田スミ子さんは優等生だったのよ」と、同窓生の皆さんが仰って下さいました。
 終戦、引き揚げで母校を失くした同窓生たちの結束は固く、渚会という全国組織がありました。唐津だけでも十数名の渚会会員がいらっしゃいました。今は、さあ、何名残っていらっしゃいますやら。
 女学校を卒業して2年で父・山口初嗣と見合い結婚をしました。母の父が末期ガンで、末娘の嫁入りを急いだようで、まじめだけがとりえの貧乏教師の父を見つけて来てうむを言わさず嫁がせたのは、上記のよしこ伯母だったそうです。結婚式の10日後に祖父は亡くなりましたが、安心して旅立ったことでしょう。

 すみ子さんはこの写真を見る時に「これ誰?」と聞くとソッポを向いて返事をしませんでした。でも判っていたのは確かです。笑ったような表情でしたから。
 長男の直彦が生まれて一番母が幸せだったのはきっとこのころでしょう。場所は釜山から少しいなかに入った霊山というところです。小さな日本人小学校の「校長兼小使い」だった父。女子生徒にお裁縫を教えた母。まるで壺井栄の『二十四の瞳』の世界です。まだ戦争が始まる前の時期でした。
 直彦を抱くまだ若い母は、この直後にこの子を失います。自家中毒という病気だったそうで、病院が遠くて抱いて走っているうちに胸の中で息絶えたそうです。

 母はわたしたちが子供の頃にこの幼い兄の話をしたことは一度も無かったのですが、認知症になってからは「私の赤ちゃんがいない、ぼうやがいなくなった、探して頂戴」と泣きました。
 幼い兄の死後、姉が生まれ、私も生まれました。いずれも釜山です。
 この写真を見て、右側の赤ん坊(私)を指して「これ誰?」と聞くとはっきり「はるみちゃん」と答えました。次に私が自分を指して、「これがはるみちゃんでしょ」というと、断固として「ちがう」と言い張りました。
 この写真を見せない時に「私は誰?」と聞くとちゃんと「はるみ」とか、「おばかさん」とか答えるのに、赤ん坊の時の私を見ると今の白髪頭の私を受け入れられないようでした。そうかと思うと「はるみ、隣の部屋ではるみちゃんが泣いているから抱っこしてあげて」などとふしぎなことも言いました。「ハイハイ」と言ってくるっとまわって来て、「ネンネネンネしたら、はるみちゃんはねんねしたよ」というと、安心して自分も眠りました。姉のことは、「ユミちゃんがお腹すいてるのにご飯がない」と嘆きました。終戦当時のトラウマでしょうか。
 終戦の2か月前になって召集された父は、もはや戦地に行く輸送船もなく、韓国内で入営し、戦後はしばらく引き揚げ者を助ける委員会で働いて、引き揚げが一段落してから、先に父の故郷の唐津に帰っていた母のもとに戻って来ました。昭和21年に弟・真文も生まれ、なにもかも失って貧しいながらもふたたび幸せな家庭になりました。父には教師の職は無く、親戚に習って小さな海産物問屋をしました。家に帰って来るといつもイリコの匂いがしていました。この仕事はなんとかうまく行ったようです。私はふんだんに本を買ってもらえました。
 戦後5年ほどで父が住宅金融公庫でお金を借りて建てた小さな家の、最初のころの写真です。真ん中のホルトの木に、私と弟はケンカをするたびに背中合わせにくくりつけられました。厳しく叱るのはいつも母で、暫くして助けに来てくれるのが父でした。この庭はだんだんに母の手で茶花が一年中咲く風雅な庭園になりました。紅白にしぼり分けた肥後椿はことに見事に成長しました。この家を処分する時に、大きくなりすぎた椿は持ち出せずに、樹の下に実生の苗が何十も出ているのを掘り起こして移しました。不思議に花は紅白にならずに、ほとんど白ばかりになっています。大切な形見の花です。
 中年の頃からの父は書と碁が趣味で、よく一人で勉強していました。
 父の急逝の直後には冷たいのかと思えるほどに父のことを何も言わなかった母が、認知症が出てからは朝から晩まで父を探しました。「おとうさんはまだ帰ってこないの?寒いのに、コートは着て行ったかしら?出張からいつ帰るって?」
 私はいつもその場しのぎの嘘を答えました。その場をしのぎさえすれば、すみ子さんはすぐに忘れて眠るので、うそを言っても大丈夫なのです。
 ある晩、夢をみたらしく、「ヘタノヨコズキ~!」と叫んでクスクスと笑いました。私は噴き出して笑いが止まりませんでした。同時に涙も出ました。おそらく母が見ていた夢は下手な独り碁をやっている父だったのでしょう。認知症になってからの母にはきっと父が隣に付き添っていたのだと思います。
 「すみ子さんのアルバム」には私達子供3人と配偶者、孫の写真もいくつか入れていますが、ここでは省略します。

 左の写真は平成6年に母が叙勲を受けた時の記念写真です。この1年後に父が急逝し、二人一緒での最後の写真となりました。

 「この人だれ?」と私が聞くと、自分の顔を指差しました。
「すみ子さんはね、保護司を33年間もやって頑張ったからご褒美をもらったでしょう」というと、「うんうん」とうなずきました。

 母がこのアルバムをみる時に、自分が誰の子であり、誰の妻、誰の母であるか、どのように生きたかを思い出してくれたことを私は大変ありがたいことだったと思います。
 今年、平成24年の5月1日に心不全で入院をしました。次の日が96歳の誕生日で、写真は私が書いたバースデイカードです。文字にはよく反応し、こういうものをみると何度も眺めて、わかったというようにうなずきました。5月末には病状も落ち着いて退院の見通しさえ立っていたのですが、6月に入り急に悪化して6月6日に帰らぬ人となりました。

 

    
 7月20日、忌明け法要の前日に叙位の伝達がありました。
 梅雨がまだ明けずに前日まで豪雨でしたが、納骨の時間には陽がさして、唐津市鎮西町の山かげの父の墓に入れました。

 忌明けとともに梅雨もカラリと明け、いっせいにセミが鳴き出しました。スミ子さんは今頃はもうあちらに到着して、父のかたわらで幼い兄を抱いているでしょうか。


         平成24年7月末日 記    合掌






 プライベートなことにおつきあいいただき有難うございました。

 皆様ごきげんよう。来月は明るい話題を書くように努力します。



  今月もお越しくださってありがとうございました。
  また来月もお待ちしています。
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