#148  2012年7月

このページは女将が毎月更新して唐津の土産話や折々の想いをお伝えします。
他のかたに書いていただくこともあります。
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女将ご挨拶#1


松尾邦久・裕子夫妻




 みなさん、こんにちは。この7月号を6月下旬に準備していますが、まあ、なんと、雨のひどいこと。洋々閣から玄関を一歩出るといつもはよく見える鏡山が、全然見えないじゃないですか。私は自称「まつらさよひめの生まれ変わり」ですから、鏡山が見えないと落ち着かないわけです。
でも、まあ、いいか。7月号は鏡山の頂上で「さよひめ茶屋」を営んでいらっしゃる松尾邦久さんに書いて頂いて、たっぷり鏡山の風や光を感じますから。皆さまもお楽しみくださいね。

 写真は写真家でもある松尾さん本人の撮影、カットはさよひめ茶屋の「福の神」のご協力です。
では、ごゆっくり。




68年目の夏 『 疎開先はふる里に 』 
 


68年前(昭和20年)夏、私の両親は空襲があった大阪から、姉二人を連れ唐津に疎開し、鏡山での暮らしが始まりました。 いま、東北大震災で被災された方々の暮らしをきくとき、我が家の疎開生活を思い出さずにはいられません。  鏡山で生まれた私にとって、家族の疎開先はふるさとになりました。 これからの話は、私の家族の疎開生活の一部です。

2012年 夏   さよひめ茶屋二代目店主 松尾邦久

 

堺大空襲

 

 

B29の空襲をうける堺

1945(昭和20)年7月10午前1時すぎから始まった29の編隊116機による空襲は、焼夷弾爆撃が堺市を襲い、被災者数 65825人、死者 1394を出しました。  この空襲は、私の家族から工場や家、家族の命を奪っていきました。

 この日父は、「神戸へ出張中で空襲の中、線路を歩いて帰った。大和川の鉄橋を渡るころは家族の住むあたりが一面火の海で、安否が気になり駆けだしていた。」といつも話していました。

 関西淡路大震災の時、友人の新聞記者も「線路を歩いて神戸へはいった。」と言っていたが、この時は同じなんだなと思いました。

 さて、この空襲のあと疎開を決意、父の親戚の多い唐津へ行くことになりました。 最初は唐津での生活が落ちつけば、父は家族を残し、再建のため単身で大阪へもどる予定が、終戦となりそのまま唐津に住むことになりました

 

焼け野原

 

 空襲のあとの町は一面の焼け野原、あちこちで、亡くなった家族の遺体を荼毘に付す煙があがっていました。  焼け残った材木を集め、祖父の遺体を焼いたこと、大阪周辺の空襲で亡くなった人の棺桶をつくるため、淡路島の山の木がほとんどなくなったこと、焼け出され駅のホームで呆然と立ちつくす人など ・・・ 大阪ではしばらくはそんな光景が続いていました。 平成元年、父が亡くなった時、衣干山の斎場で煙突からのぼる煙を見ながら叔父たちはそのときのことを思い出していたようです。 
 

九州へ出発、そして鏡山に・・

 

 いまの時代の「田舎暮らし」は必要なものをすべて揃えて出かけるようですが、私たち家族は、汽車賃などわずかなお金とあとは身一つ(家族だから身四つかな?)という厳しい出発でした。

 当時は鉄道事情が悪く、大阪から九州へ行くのはたいへんで、小さかった下の姉は父の背負うリュックの中でした。 汽車が止まると、食べ物を買い出しに走り、何度も汽車に乗りはぐれそうになったようで、「おとうさーん」という声がいつもきこえていました。   「車中で鹿児島の人にいただいた焼おにぎりおいしさは忘れられない。」といつも言っていました。 

 佐賀から山本、そして久里駅に着き、鉄橋を渡り近道、手を引かれ、二人の姉たちは、「ポイ・・ポイ・・」と枕木の上を歩きました。  小川で顔を洗い、着替え、鏡の叔母の家に挨拶に行き、そしてしばらくその家でお世話になりました。

 親戚に家を世話してもらうことになり、家族であちこち見に行きました。 東唐津の家には大きな仏壇が残っていたので怖い、七山の家はあまりに遠い、など、なかなか決まらず、最後に鏡山の上にある小さな家が我が家の住みかとなりました。 ドラマの「大草原の小さな家」の世界です。 山には軍の監視所があったので、電気があり、当時は土間の家も多かった中で、床が板張りのモダンな(ジョージア風の)小さな小さな家でした。

 こちらでは仕事もなかったので、父は、開拓(農業)をすることになり、数か月、農業研修所へ行きました。 その間は山の中で、母と姉たち三人だけの生活となりました。 町工場の機械家の父や、町の中での生活しか知らない母たちにとってはすべてが初めてのことばかりでたいへんでした。 この数年後に家族は山の茶店(さよひめ茶屋)を開店します。

疎開先の鏡山の家(山頂の小さな家)

我が家の最初の畑となったところ

 

恩 人

 

 昭和20年8月、戦後は終わりましたが、食糧事情は相変わらず悪く、 母は大阪から持ってきた着物(疎開で焼け残った)をもって佐賀の農家を訪ねてはお米を抱えてきました。 ある日、汽

車に乗り遅れた佐賀駅で、伊万里の農家の方と知り合いました。 この方からサツマイモの苗をいただき、イモタンキリ(いも飴)の作り方を教えてもらいました。 我が家でイモタンキリをつくり、それを売るようになりました。ちなみに「タンキリ飴」のタンキリは痰をきる飴の意味らしいです・・・ 
 畑で収穫したしたサツマイモを蒸し、麦芽を加えて糖化します。あとは手延べ麺のように何度も伸ばして、最後はハサミで切っていきます。夜中に目が覚めると、母はいつも飴を切っていました。 お菓子の少ない当時、イモタンキリは飛ぶように売れ、おかげで我が家の生活は少し楽になりました。
 お礼をいいたくて、伊万里の農家の方を探したのですが、見つかりませんでした。 

 

 

私の誕生

母と私(お山の家の前で)

 

 唐津へやって来て9年目の夏、私が生まれました。  当時は自宅出産もめずらしくなく、私は鏡山のてっぺんで生まれました。 私をとりあげてくれた産婆さんは同級生の母親で、大きなおなかで父に引っぱられ山道をふーふー登って来ました。 無事私が生まれたとき、父が産婆さんにごちそうしたのが「自由軒のカレー」 ・・・ 我が家では時々登場するメニュー(大阪の心斎橋の自由軒スタイルのカレー)です。 ちなみに、「平和な国が久しく続くように・・・」と名前(邦久)がつけられました。

 

 








 

母と姉たち(ひれ振り松前で)
新築の家と父

家を新築

 

 私が生まれて家を増築することになりました。 もちろん家族みんなで建てました。 親戚の山の木をもらい製材、土をこね粗壁を塗り、屋根はルーフィングという防水シートにコールタールを塗り、およそ1年で完成、お山の生活も少し快適になりました。 

 小さい私もなにかお手伝いしなければと、コールタールを畳に塗り、真新しい畳は真っ黒になりました。(なぜかこの時怒られませんでした・・・)

 風呂はできましたが、水道はなかったので、遠い井戸からバケツで何回も運ばなくてはなりませんでした。冬は家のまわりの雪を集めて沸かし、沸きすぎたら外に出て雪を集めていれました。

 真空管のラジオ、台所には自作のガソリンコンロ、電圧を上げるための機械、雨水利用のための貯水槽・・・など、当時にしてはなかなかのハイテク設備でした。 私の工作好き・機械好きはこのころに始まり、新しい時計などが来ると、その日のうちにバラバラになっていました。(すみません) 

 











祖母来襲
 

祖母と私

 「娘が九州の山の中で苦労している ・・ 連れ戻さねば!」祖母がやって来ました。 八十を越えた祖母には九州への汽車の旅はたいへんだったと思います。 祖母来襲、家族は身がまえましたが、山からの景色を三日ほど眺めた祖母は、そのまま黙って帰って行きました。 この時の解説はしません・・ 後にこの話は親族の中で伝説となっていました。 大阪に帰った祖母は私たち家族に、貴重な物を送ってくれる、これまた伝説の「慰問ばあさん」となりました。  

 








リュックサック

 

このリュックが大活躍しました。

 我が家の話に登場する「リュック」は母の帯でつくられていました。 いまなら京都の帆布屋製といったところでしょうか・・・  とにかく、このリュックはいろんな物をはこびました。 小さい姉、買い出しのお米、商品のいも飴など・・・ときには全財産を詰め込んだ財布として、畑へ持っていかれました。

 つるが伸びたイモ畑の中で置いた場所がわからなくなり、「鳶かカラスが持っていたー」と大騒ぎになることがたびたびでした。  
 




飯盒

父の弁当箱=飯盒(はんごう)

 

 5歳のころ、私は夕方になると神社の参道から我が家に続く下の道(上の道と2本あった)で毎日父を待っていました。 正確に言うと、待っていたのは弁当箱の飯盒の上ぶたにはいっているミルキー(お菓子)を待っていたのです。 なぜ父が山の下から帰ってくるのかと言うと、その年の大雨で山の自動車道がくずれ、半年以上も復旧しなかったので、茶屋も観光客が来なくなり、父は生計のため水道の送水管の現場に働きに行っていたからです。 小さかった私は、我が家の危機もなんのその、毎日のお土産を喜んでいました。

  

虹の松原駅

 

 虹の松原駅は大阪から疎開した私たちとってふる里大阪に一番近い駅です。 ここで汽車に乗れば、住みなれた町へ帰れます。 串崎の岬を汽車が曲がれば、大阪はすぐそこです。 (当時

当時の建物が残る 「 JR虹の松原駅 」

は夜遅く博多を出る夜行列車でそれなりの時間はかかったのですが・・・)

 さて、鏡山に住み始めたころ母は、「もう大阪へ帰る!」と、姉たちの手を引いて山道を下り駅へ向かいました。 そのたびに父は駅へ先回りしてそれを止めていました。 

また、大阪の大学へ行った姉たちが夏休みに帰省し、休みが終わるころ駅へ送って行き、父の「明日にしとき!」の声で引き返し、大阪へもどる日がのびました。 小さい私も、姉たちが帰って来るのは楽しみでしたが、帰るのは寂しいのでいやでした。 そして、宅急便がない時代、大坂から箱が破けるほどいっぱい詰まった祖母からの慰問荷物が国鉄チッキで到着したのもこの駅でした。 お菓子や洋服、鉄道模型などいろんなものがはいっていました。

 

鏡山と高島

  唐津の街中から鏡山と高島を見ると、家並みの上にポッカリ浮かんで、 海は見えないので、どちらも同じように山に見えます。 母がいも飴を配達した帰り(東唐津の駅で汽車を乗り降りするのですが)山をめざして歩いて行くと、いきなり満島の砂浜に出てしまうことがたびたびあったようです。 
 鏡山と高島、ほんとうに形が似ています。 

  

貧乏神の悩み

 私は仏さまの世界で父や母・姉たちに会えないということに最近気づきました。 なぜなら、あの祖母がはじめて山に来襲して私を見たとき、母に「この子は貧乏神よ!」と断言したこと思い出したからです。 貧乏神の私は死んだら神様になれても、仏さまにはなれません・・・・・。 本当に困っています。 しかし、「福の神」の家内とはとりあえず会えるのかな・・・・。

 



 

幸ちゃんと恒ちゃん

二人の姉の像 柴田先生(故人)の作品

 私には二人の姉がいます。 上の姉とは10歳より多く歳がはなれています。 うちでは互いに名前で呼ぶので、幸ちゃん・恒ちゃん・邦ちゃん・・です。 姉の子ども達(もう十分おとなですが)も私のことは「邦ちゃん」とよびます。 姉たちは進学で家を離れ大阪に行きましたので、三人兄弟といっても一人っ子みたいで寂しい思いをしました。 姉に山の便りをメールするのが楽しみでしたが、父・母につづき、二人の姉も亡くなり、本当に寂しくなりました。

 



 

 我が家の疎開生活、あれもこれと思いながら話し始めましたが、今回はこれで終わります。 また続きをお話することがあるかもしれません・・・

 

                      

最後の写真は現在の我が家、
ごらんの通りそのまんま昭和のさよひめ茶屋です。
 



松尾さん、奥さん、有難うございました。
どうぞみなさん、貧乏神さんと福の神さんが並んですわっていらっしゃる、おまけにネコのたまちゃんまで出迎えてくれるさよひめ茶屋にぜひお立ち寄りください。

また来月お目にかかりましょう。






  今月もお越しくださってありがとうございました。
  また来月もお待ちしています。
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