「ごはんたべてきましたか?」国史跡、菜畑遺跡を見学に訪れた子供たちに質問します。不思議そうに子供たちは手を上げます。「えっ、パン?」「じゃ、ごはんを一日一度もたべないひと?」質問を続けると、子供たちは次第に朗らかに、にぎやかに反応してきます。「ごはんすき?」子供たちは勢いよく、手を上げて目を輝かせます。
「君たちが大好きな、ごはん、おこめが日本で最初に伝わって栽培された場所が、この菜畑なのですよ。」見学のスタートは、ため息とも、感嘆ともとれる雰囲気の中、始まり、説明する私たちの言葉は、もの問いたげな子供たちの表情に吸い込まれていきます。
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復元水田と末盧館 |
昭和56年、道路建設に伴う埋蔵文化財発掘調査で菜畑遺跡は発見されました。日本の稲作の開始時期を50年~100年も遡らせるものだと、連日、新聞、テレビで報道され、時代の寵児かに注目された遺跡は、日本の歴史の貴重な一頁を書き換えるものとして国史跡に指定され、保存されることになりました。以後、20年に近い月日が経過しました。この間、遺跡に「末盧館」という中国の歴史書「魏志倭人伝」に記載されたこの地方のクニの名が冠された展示館が建てられ、歴史公園として整備された遺跡内には寡葺きの竪穴住居も作られました。そして、館内には出土した土器や石器、それに当時を復元したジオラマが展示され、訪れる人々に、この菜畑に始まった稲作の様子を説明するようにしています。また、「出会いふれあい広場」と命名された公園には発見された最古の水田が復元され、毎年、古代米の田植えを行い、秋の収穫まで稲のはぐくむ様子を皆さんに見ていただけるようにしています。
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貫頭衣を着た子供たちが古代米を田植えする |
遺跡は現代に生きる私たちに先人が残してくれた遺産です。古代の人々のメッセージなのです。この遺産に出会った子供たちはどんなことを感じるのでしょうか。私たちはこの出会いを感動という精神の高揚で伝えたいと思っています。それは自分たちに流れている血潮に受け継いできた先人の知恵と工夫の一歩、一歩があることを確認する行為かもしれません。
「菜畑で古代人に語りかける、輝くようなこどもの目をみました。赤米に驚く目をみました。
それは、初めて実った米に驚喜した縄文人の目のような気がしました。」感動は、子供たちを通じて、雄弁に語り続けられるのだと私たちは信じています。6月はこの復元水田での子供たちとの田植えの時です。
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籾を播く |
平成16年の『文化庁月報』このような文章を書きました。それから、早くも、十年の歳月が流れました。考古学の世界に入って45年、文化財保護の仕事に携わって30年の月日が経ちました。今年の4月に、この懐かしい菜畑遺跡、末盧館に戻ってきました。昭和56年は輝くような年でした。菜畑遺跡に発見に立ち会い、発掘に従事し、遺跡の保存と整備に関わることができました。重要な遺跡に出会うことは考古学を目指した学徒にとっては、これ以上の物はありません。
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5月中旬の苗の生育状況 |
「日本稲作はどのように始まったのか。」という問いは、まだ解決はされません。稲作の起源の問題は、遠く、中国の長江流域に求められ、中流域説や下流域説と様々と議論され、環境考古学、育種学、花粉やプラントオパール等の自然科学の分野からのアプローチもあり、研究は日進月歩で進みます。しかし、研究に終わりはないし、菜畑遺跡はいつまでも、研究情報を提供し続けていきます。
また、春がめぐってきました。4月も半ば過ぎると、あっという間に、縄文の森のエノキもクスもクヌギ、クリ、ムクノキも若芽を吹いて、彩りを深めていきます。エゴの花芽も目立つようになり、ツバメも戻ってきました。
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火起こしを体験する |
生き物が眠りから覚めて、子供たちの声が響くようになりました。また、鉛筆とノートを持った子供たちが、せっつくように質問の嵐を吹かせます。「どうして・・・ですか?」、「なぜ・・・ですか?」こうした好奇心が、人の歴史を作ってきたような気がします。無邪気に問い求める子供たちの目には、青い空が映っています。菜畑遺跡の空に輝く、光の輪が映っています。「貫頭衣を着て気恥ずかしそうな子供の顔をみました。誇らしげな顔もみました。それは、絹の布に触れた、菜畑人の顔のような気がしまた。」
水稲耕作の開始と豚の飼育という日本の農業の原点ともいえる事実を伝える遺跡は、今年も田植えの準備が始まりました。合わせても、わずか約300㎡くらいの復元水田の周りが、にぎやかになります。6月2日の土曜日が今年の田植祭です。ぜひ、菜畑の小さな田んぼに来てみてください。
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2012年 春 |
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