#146  2012年5月

このページは女将が毎月更新して唐津の土産話や折々の想いをお伝えします。
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女将ご挨拶#1



世界の文字で書かれたゲストブックが十数冊に及ぶ



外国人お客様受け入れ50年



こんにちは。
先日、佐賀県で、あるフォーラムが有りました。それは、外国からのお客様を、日本に、九州に、佐賀県に呼び込もうという目的の勉強会の様なものでした。国の、観光にかかわるお役所の方たちの考えでは、もう数年したら、日本の国内旅行が激減するそうで、そのためには、魅力ある日本を作って外国人客を世界から呼び込まなければいけないとのことでした。
洋々閣社長、大河内明彦は、50年も前からその考えを持っていまして、小さいながらも外国人客の多い旅館としての実績を買われたのか、そのフォーラムでパネリストを務めました。
洋々閣女将・兼・社長秘書の私は、社長のプレゼンテーションの準備を手伝う事になりまして、二人してこの50年間を振り返ってみました。なつかしい方々のお顔や、その時の出来事など、はっきりと思い出します。私はまだここへ嫁いで50年にはなりませんので、最初の方は聞いた話ですが。

今月号のこのページでは、数百枚もある外国人客関係の写真のうち、ほんの一部を抜き出しまして、思い出話をさせていただこうと思います。鬼籍にはいられたかたもありますし、連絡の途絶えた方もありますが、どなたもほんとうになつかしい方たちです。何度も何度も来て下さいました。私を娘とよんだり、姉と呼んだりしてくださった方々・・・・。
どうぞ、私と一緒に懐かしがって下さいませ。
順序や年代は、無視して、この50年間を行ったり来たりいたします。社長と女将の老けていく様子などをお楽しみください。

*写真の中の「私」は、大河内明彦です。

 


私は、1959年から1962年まで箱根宮の下富士屋ホテルに勤務していた。その頃、客の90%が欧米人であり、ここで外国人客の接遇を教わった。
その時に感じた疑問が、「せっかく日本に観光に来られるのに、洋式のホテルに泊めて、洋食を出すのはなぜだろう?我が家のような日本的な宿に泊めて和食を出したらどうか?」
そのことから実家に戻って旅館を継ぐ決心をした。
古い旅館の4代目になることを選択したのだが、目は外国に向いていたように思う。
1962年、佐世保米軍基地に海軍将校として駐留していたフランクリン・ルーズベルト3世夫妻が、祖母のエリノア・ルーズベルトが亡くなってしばらくして、坂田日米協会会長と一緒に投宿され、欧米人宿泊の第一号となった。その後、ご夫妻の紹介で、大勢の米国海軍軍人が訪ねてこられるようになった。
1963年ごろ、福岡市西戸崎にある米陸軍基地特殊部隊には大学半ばで兵役についたインテリ独身兵たちがいて、週末になると大勢で押し掛けて来た。海から艇で来ることもあり、正月や唐津くんちは彼らで満室になった。
佐世保基地の将校夫人会のみなさんをガイドしてバスツアーを企画する。唐津の古物商を10軒ほど集めて、月に一度オークションを何年間かやった。船箪笥や、火鉢などが人気があった。
モンロー氏夫妻
唐津青年会議所の英会話の先生にお願いして、毎週末、夫妻でお見えになった。教室が終了したあとも、続けて宿泊していただいた。
私の人生に大きな影響を与えてくれた方だ。
夫人は90を過ぎてなお健在でオレゴンにいらっしゃる。
1968年佐世保基地司令官のクロード・ショー夫妻(中央)。
写真は唐津くんちでご機嫌の夫妻。
佐世保に艇が入ると、兵たちには休暇が与えられ、バスツアーが企画される。陽気な青年たちが初めての日本旅館に大喜び。シャブシャブが人気で、口コミで客が増えた。
海兵隊の司令官から招待を受けた時は、紋付姿で参上。「日本的」であろうと、せいいっぱい突っ張っていた日々
1969年10月には、当時世界的人気のグループ、「ザ・キングストン・トリオ」を唐津に招いて公演をした。会場ががいっぱいになった。あちこちの米軍基地からも、貸切バスで観客がつめかけた。舞台はオール英語、客席からの野次や応援も全部英語で飛んでくるという、唐津ではあとにも先にもない珍しい公演で大変盛り上がった。
写真はボブ・シェーンが客席からの野次にギャグで答えているところ(左から2番目のギター)。
公演後の夕食会。
右端の着物姿のイモ娘は、まだ結婚前の女将であって、英語の手伝いを頼んだ。
どうしてザ・キングストン・トリオを私が個人で呼べたか。
トリオの中心メンバー、ボブ・シェーンの父上、アーサー・シェーン氏を1961年に富士屋ホテルで知り、その後1964年から毎年たくさんの友人をひきいて、亡くなられるまで20数年間、毎年泊りに来て頂いたが、その方が息子のボブを紹介してくれたことからであった。シェーン氏は海外に洋々閣を宣伝することを楽しみにしてくださっていた。
写真は、唐津くんちで、米屋町の皆さんが相伴に来てくれて、シェーンさんを担いで曳き山ごっこをしてくれて、シェ-ンさんは大喜び、采配を振って「エンヤエンヤ」と大広間を走り回った。
1981年には旧知のロング大将が太平洋軍司令官という高い地位にあがられ、私共夫婦をハワイへ招待してくださった。夕食前のカクテルは、司令官のバージでパールハーバー・クルーズに出て、満月のもとでアリゾナ号の眞上で祈りをささげた。
左端はボートの操縦士。
女将の頭はとんでもない形にハワイ一と自認する日系の美容師に自信たっぷりに結われてしまったもの。この頭に、プルメリアやハイビスカスをいっぱい挿してあったが美容室を出たとたんに自分で外したものだ。
ロング大将夫妻も今はない。
アメリカ人学生エリザベス・ルービンファインは卒論に唐津くんちを選ぶほど「曳山キチ」で、毎年かかざず呉服町のヤマ「義経の兜」を曳いた。女性が曳くのは例外だが、呉服町の皆さんはこの朗らかなアメリカ娘を快く受け入れてくださった。ご両親のルービンファイン夫妻も毎年のように洋々閣に来て下さった。
昨年、久しぶりにエリザベスと妹のルイザがそれぞれの家族を連れて来てくれた。
エリザベスは「ブルーライト横浜」を上手に歌っていたものだ。兄弟姉妹全員が東大に留学したエリート一家だ。
1972年、シアトルのテリー・ウェルチ氏(写真左端)は20代の初めに3か月間洋々閣に滞在した。大学に戻って法律家になる予定が、日本文化に魅せられて、日本庭園師になってしまった。毎年数人ずつ美術館関係者をつれて戻って来る。
この写真は、唐津市厳木の鶴田さんの造園を見学に行った時の物。鶴田さんとテリーは共感するところが多かったようだ。
伝説のダイバー、故ジャック・マイヨール氏はたびたび我が家を訪れて、のびのびと、好き勝手に過ごしてくれていた。自由人で、お天気屋で、頭が痛いこともあったが、少年のように純粋で、今はなつかしい気持ちになる。
フランスの映画監督、ジャンジャック・アノー氏は、『Seven Years in Tibet』の宣伝のために来日した時に、主演のブラッド・ピットと一緒に泊るように予約してあったが、ブラピは日本中の大騒動のため京都から帰ってしまい、洋々閣には来なかった。それでも予約当日には噂が流れたらしく、見張りの車が何台も張り込んでいた。
アノー監督は夜になって到着され、「この旅館には日本というアイデンティティがある。東京の上等のホテルに泊ったが特別な記憶はない。けれども洋々閣は忘れないだろう」と言って下さった。建物の改修の必要時にいつも悩むが、監督のこの言葉が心に残っているので助けとなっている。
アメリカのトム・サグ夫妻は若いころに泊った洋々閣を30年後にネット検索で再発見して戻って来て下さった。以来、ダイアン夫人とはメールの交換を楽しんでいる。
トムさんもダイアンさんも洋々閣の「女将ご挨拶」のページにエッセイを下さっている。(英語版)
ホンコンから家族、親戚を引き連れて毎年きてくださっていたが、右端の弁護士さんが残念ながら亡くなられ、今は右から二番目のツェさんの家族が来て下さっている。子供さんたちが清らかな歌声の合唱をきかせてくれていた。もうそれぞれ結婚する年頃だ。世界中に散らばって、なかなか一緒にそろわないそうだ。
韓国からは毎年大勢のグループが来てくれている。左から2番目の文貞寅氏は、麗水市で薬局を経営しておられたが、文化的な事に興味を持ち、麗水文化院の院長を務めた。残念ながら病魔に侵され先年帰らぬ人となった。私は毎年お墓参りに麗水市を訪れていて、今年も先月行ってきた。
韓国スウォンのソ・チャンウォンは佐賀県の「カチガラス交流」というプログラムで初めてうちにホームステイした学生だった。私達を父母と呼んで休みのたびに戻って来た。写真は結婚の報告に花嫁を連れて来て、こちらで祝賀会をしたときのもの。
この後、うちにはキム・テヨンが10年間と、キム・ウンジョンが1年間ホームステイしていた。二人とも国で結婚して子供を持っている。私達がソウルに行くと子供連れで集まるので、賑やかなものだ。
韓国の哲学者キム・ヨンオク先生が20年前に初めて来られた時の写真。「トオル」という号で有名な学者だ。前回は高名な中国文学の学者でいらっしゃる奥様と御一緒にお見えになった。
テグのパク・ヨンヘさん夫妻はここ数年のお客だが、年に2,3回友人を連れて来て下さる。韓国へも招待して下さって、この写真は2011年の4月、海印寺へお参りにいったときのもの。海印寺のえらいお坊様が、日本の津波の犠牲者のために祈祷をささげ、信者たちに呼びかけて義捐金をつのられる様子を直接見て感激した。情の篤い国だとつくずく思う。
タスマニアのデイヴィッド・マクレナン夫妻は2年に一回戻って来て下さる。すでに5回、洋々閣のホームページの英語版に旅行記を寄稿してくれている。右端の二人はたまたま韓国から新婚旅行に来ていたカップル。一緒に食事して楽しんだ。
アメリカからのグループに生け花教室を開いたこともある。カリフォルニアは日系人の多いところで、日本文化に対する関心もつよい。みなさん大喜びで、自然の野の花の生け花を学ばれた。
韓国では今、日本の茶道が流行している。20数人の公州市からの女性グループを一席もてなした。
写真は近松寺で、宗偏流の先生方に協力して頂いた。
釜山からの女性グループは、福岡へ能の観劇に来て、洋々閣に泊られたが、その際、洋々閣の調理場で「ちらし寿司作り体験教室」を開いた。大変喜ばれた。ほとんどの材料は韓国でも簡単に手に入るが、干瓢はあるんだけれどもこのようにして食べることが少ないみたいで、珍しがっていた。
アメリカのラムザイヤー夫妻は40年以上前からおりにふれて家族や友人を誘って来て下さる。この写真はつい先月、4月19日のもの。40年前の記憶が鮮やかで、私が覚えていない出来事などを詳細に語ってくれる。ラムザイヤー夫妻が右側、ジェファーズ夫妻が左側。





いかがでしたか。自慢に聞こえたらすみません。決して自慢したいわけでなく、洋々閣の、「古い日本旅館なのにどこかモダン・・・」と云われる雰囲気が、ひょっとしたらこういう外国人受け入れの歴史から来てるのではないかと思うので、そこらあたりを御理解いただければと、情報開示するわけです。「言葉の壁」ということをよくいわれますが、言葉は決して「壁」ではなく、壁に穴をあけるドリルだと私達は思っています。もし同業者のかたで外国人客受け入れをためらっていらっしゃる方があって、このページをご覧になっているのなら、どうぞ思い切って受け入れてみて下さい。「案ずるより産むが易し」です。ご一緒に日本の宿文化を世界にひろめましょう。

外国人受け入れとともに社長が九州ではいち早く始めたシャブシャブも50年になりました。秘伝のたれを姑から引き継いで、今は私がせっせと作っております。
もちろん、外国人専用の旅館ではありませんので、国内からのお客さまもぜひぜひお出で頂きたいと願っております。
どうぞお元気で、お過ごしください。また来月お目にかかります。







  今月もお越しくださってありがとうございました。
  また来月もお待ちしています。
                                                MAIL to 大河内はるみ