#131
平成23年2


このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶



monohanako








 寒い寒い冬でしたね。こんなとき、魂が寄り添うような、心に温かい音楽が流れるような、美しい文章をお届けできることは、私の大きな歓びです。ただ、原文はそのように美しいのですが、訳文にそれがお伝えできないのが、我ながら歯がゆく、申し訳ない思いです。
今月は以前にも中里花子さんの事を書いたエッセイをいただいた、プレイリー・ステュワート・ウルフさんの再登場です。
お楽しみ下さい。写真もプレイリーさんの作品です。
また、下のリンクからプレイリーのwebや、花子さんのサイトにもどうぞ足を延ばして下さい。


     

境界を超えて
プレイリー・ステュワート・ウルフ

[T]ruth can be reached only through the comprehension of opposites.
-Okakura Kakuzo, from The Book of Tea
真実は対極の理解を通してのみ到達可能である。
岡倉天心 「茶の本」より

 自分と同じ夢を見る人に出会うことは胸躍ること。若い時から私は自分が育った小さな田舎町では私の望みもかなえられないし、疑問にも答えてもらえないし、知りたいと切望することも教えて貰えないとわかっていました。そして14歳で私の旅は始まりました。アメリカ合衆国の北西部の故郷を出て10年間はあらゆるチャンスを掴まえて移動しました。学校を選ぶことでこの広大な国の西の端まで行きました。北と南の国境までも踏破し、海も越えました。いつも好奇心という道ずれと一緒に。恥ずかしがりやで寡黙な女の子だったのに、私は人間というものに魅入られ、様様な生活のありかたの体験を望んでいました。ほかの人がどんなふうに生きているのかを見たかったのです。その時は知らなかったのですが、私の彷徨への願いが燃え始めるころ、10代半ばの花子は合衆国の東海岸を縦横に動いて、私が去った小さな町へ向かって真っすぐに道を切り開いていたのです。花子もまた日本の彼女の住む地方都市には、彼女の欲求を満たすもの、疑問に答えうるもの、必要とする知識を与えてくれるものはないと感じて、16歳で去ったのです。

   花子と私の道が交差して私たちが出会うには10年かかったのかもしれません。性格的に、教育的に、人生経験的に、これほども差のある私たちが、お互いの中に同類の魂を見つけたのです。私たちは一匹狼であり、迷い人であり、でも二人とも、危険や冒険に満ちた生活を送りたいという同じ思いを共有していました。私たちが出会ってから10年近くは二人とも互いに外国人であることを経験していました。それはまさしく価値のある経験でした。自身の文化から外れたところで生きることが自身と、その歩く道を照らしていました。それは精神世界を広げ、世界で新しい思考方法や生き方のモードに目を開かせるものでした。花子も私もそのような体験を深く享受し、私たちの生活の不可欠の部分として受け入れました。けれどもそのことは、精神的に試されるものでもありました。共通の文化基盤が無いので、誤解や挫折感はしょっちゅうでした。個々の問題を理解するが為に私たちはそれぞれの自国の文化の中に浸る時間の必要性を認めていました。それゆえに日本とアメリカとに私たちの時間を分けることが長い間の夢でした。

 私たちはよくこの夢について語り合いましたが、”いつかね”という領域を出ませんでした。けれども2009年の夏、私たちがここ数年とても気に入っていたメイン州のある場所に家を買う機会に恵まれたのです。今この段階で二つ目の国で二つ目の家を持つことの経済的、後方支援的困難に対し慎重になりつつも、信じて跳び込むことにしたのです。時には自分を試すために、成長し、発展するために、私たちは日常から逸脱し未知の領域に踏み込まねばなりません。それ以来約1年半が経過し、まるで一生の目標に未だ熟さぬままながら到達したかの感があります。ぼんやりとしてはっきり定義できない抽象的な概念があっという間に具体化したのです。それはまるで夢から覚めてこれが夢でなかったと気がつくような感じです。けれども時には自然が自分でも十分に自覚していない問題への解決策を与えてくれることがあります。




 花子は予測してなかったことだけれど、ライフスタイルを転向するにはいい潮時だと感じたのです。4年前私たちは日本に住みつき、その間花子は自分の事業を立ち上げmonohanakoを設立するために猛烈に働きました。疲れきるほどに。創造の過酷さに埋没して花子はあやうく作品の核心を失いかけていました。16年間のアメリカ生活を経て花子は後天的に修得した西洋的文化との違いを通して日本の文化をよりはっきりと見えるようになっていたのです。大学卒業後の漂流の時期に、学校生活の足かせから逃れた若者が初めて自分の運命のマニフェストを作るために、花子はどこに気持ちをむけたらいいのか真剣に考えました。自分では、全感覚を使う仕事で、日常生活を豊かにすることができ、芸術的な職種に就きたいと望んでいる自覚がありました。自分の本性を生かし日常の中で洗練されていくものをやりたいと望みました。花子は自分の中に流れる血に日本の食の文化が芯としてあることに気が付きました。彼女は陶芸をそれが適切に自己の価値を伝えてくれるものとして受け入れました。けれども陶芸はメッセージの表現ではあるけれどもメッセージそのものではありません。monohanakoを経営して4年間いつも〆切りに追われ、いつしかそのメッセージは薄れて行ったのです。自己の創造の技術のしもべに落ちてしまい、日本の食文化の第一人者になり人々に豊かな日常を奨励するというモチベーションは休眠状態になっていました。日常から一歩踏み出すことで自己の作品と制作意図を再検討することが出来るでしょう。そしてメイン州の閑雅な生活ペースは制作を洗練させインスピレーションを燃え立たせるに十分な時間を花子に与えるでしょう。


 私自身についていえば、4年間の日本生活は、目、こころ、魂まで素敵なやりかたで揺り動かしてくれました。私がこのような環境で日本に導かれたことは神の恵みでした。日本を旅する多くの西洋人のようでなく、何に遭遇するかについて先入観もなく、エキゾチックな東洋に関するロマンチックな思い込みもなく、偏見も持たずに。そして私は一家族の中にいきなり入りこんだのです。ガイドブックに頼る必要もなく、ただの観光客のルートに踏み込んでしまう危険もなく。私には生の経験が与えられ、また、色々なレベルで期待よりはるかに大きく感化されました。私はいつも、思いがけない友だちや仲間の心からの親切に感動して来ました。言葉をうまく話せなくても、五感や直感を通して生活し学ぶことが重要であり頼りになることを実感して来ました。それは豊かで深く感得される経験であり、常に神経を澄ませて生活することの優先性をさらに強めてくれるものでした。



 けれども、その間私は自国の文化の主な様相がなつかしくもあり、それだけ一層深く価値を感じたりもしたのです。私の育ってきた文化は個人的な絆が密接なものでした。家族と友人との線引は薄くなり、私たちの社会では気持ちを遠慮なく見せ合い、深いつながりになる可能性があればその前に意見の相違があることを恐れないのです。考えていることを正直にオープンに話し合います。類似性も相違点も、私たちは容易に認識出来ます。似ていたら慰められるし、違っていても尊重します。喜んで我が家をオープンして、隠すことなく見せますし、普通の食事を気軽に分け合います。

             

 ふたつの文化を経験すると当然比較することになります。互いの文化の尊敬すべき長所を認めた時、花子と私は短所をも認識しました。アメリカ人は気楽にドアを開いて人を迎え入れる傾向があります。けれどもアメリカ人の「どうぞお楽に」というもてなしの仕方は、基本的にきちんとかたずけておくということを超えて、真のおもてなしの為にもうひと手間かけるというのには欠けることがままあります。花を挿したり、お香をたいたりしてお客を迎えるのは歓待のしつらえを作るのに特別な心入れです。さらに、何かもうちょっと付け加えるならば、アメリカのディナーテーブルは感嘆の席になるでしょう。ちょっとした地域では、健康志向の、その土地で育った食材への関心が花開いています。けれども大概のアメリカ人の味覚はまだ未発達であって、いとも簡単に満足してしまいます。アメリカ人にいわせれば上質の素材をシンプルに調理しさえすれば最高の味が出せると思っているのです。基本的な下ごしらえや盛り付けの配慮が欠けるために多くの可能性が失われているのです。季節の素材や適切な調理方法、器との美しい調和が日本の食文化の基本です。良く食べ、美しく食べることは満足のいく生活スタイルの基礎なのです。



 同時に現代の日本人はこの偉大な文化遺産の精緻な様相を見失っているのではないでしょうか。日本の食に対する執念と伝統的な日本の食文化に見られる繊細な複雑さを守る主義を擁護するのは、今や重要な時期だと思われます。そして、家族や友人と一緒に食事を作って食べること以外にもっと良い方法があるでしょうか。この意味ではアメリカ的な、友人にドアーを開けて生活を共有することは本質的なことです。日本人はおもてなしに関しては強い興味を示しますが、しょっちゅう実践する人はなかなかいません。悲しいことに、真のおもてなしや個人的なライフスタイルは今や本や雑誌の記事にうずもれて、実際の家庭や気持ちの中には見つけにくくなった時代に今生きています。最近はこれらの物は買うもの、または買わないにしても最低限憧れるだけの商品となってしまっています。そして私の目には、ライフスタイルそのものが日本では主流の売れ筋商品になっているようです。人々は、おもてなしとは心構えであって、買える商品ではないことを忘れかけています。それは心を表示することであり、所有することではないのです。



 メディアに興味を持ちすぎる、あるいは依存しすぎることは人々が自分で感じることを忘れる風潮を醸しています。本や雑誌、テレビは教育や創造的刺激として素晴らしい資料でしょう。それらによって私たちはそれがなければ知るはずのなかったアイデアや物事を紹介されます。けれどもメディアに私たち自身の生活へのヒントをもらうというより、大衆はメデイアを通して代理的に生きているように思います。メディアは何かを紹介するところまでで、私たちが興味を持てば、もっと調べて個人的な選択をするのは私たち自身の仕事であるべきです。けれどもあまりにしばしば大衆はメディアに現れるものを模倣します。その結果私たち自身の美学と感じ取る能力を失って行きます。メデイアは個々のライフスタイルの選択に対して刺激を与えることは出来るが、生活のマニュアルとして勘違いされてはならないのです。おもてなしの真髄は大切な人に心をこめて整えた料理や雰囲気で現す事にあります。ほんもののおもてなしかどうかは心の底から出てくるかどうかです。それはオリジナルな表現であり、模倣ではいけないのです。自分で考えて自分で決める、これが最重要です。


 この1年半の生活の進み方は私たちの間に内省的な会話を多くもたらしました。花子と私はこの二つの文化に生きると言うユニークな状況を受け入れるために勇気を出さなければいけないと感じています。私たちは何が優先事項か、何がモチベーションか、深く考えます。私たちは冬鳥のように6か月ごとに渡り鳥にならなければなりませんが、境界を超えて通じる生活方法を編み出す意欲が湧いてきました。時間は分割されるけれど、人生を一つの焦点に絞って生きることを維持したいのです。環境の常に、急速に変化する中ででもかかわらず、私たちが何かの継続性を保持するようなことは必要不可欠なことだと感じます。



 私たちの個々の、また共有の経験を通じて花子と私は同じ真実に到達しました。人生において最も価値のある仕事は有意義で感性のある日々の暮らしを培うことだと。私たちはアメリカと日本の文化の強さと弱さを見ることが出来ますし、お互いから学ぶべきことは多大なのです。二つの文化を結んで橋を架けることは希少な機会です。湖のさざなみのように両国の友人や同僚との理解や観察の共有において個人的で豊かな感性あふれる生活を作り出すことを勧めたいと思うのです。


この冒険が成功するかどうか、確実ではないし、予測も立てられません。私たちは不意に出帆しましたが、めくらめっぽうではありませんでした。結果はまだ夢と希望の中にひそんでいて、でも私たちは同じ夢を夢見ているのです。確かに、私たちはありきたりの道から外れました。そのため、私たちは自分自身、お互い、そしてこの美しくも不完全な世界への理解を日々深めて行きたいのです。

 

                                                          -Prairie Stuart-Wolff

 

                                                         


Prairie Stuart-Wolff
アメリカ生まれ。現在は日本とアメリカとに半年ずつ住む。2006年にパートナーの中里花子とともに唐津市に移住。
洋々閣の「ご挨拶」のページには二回目の執筆。
プレイリーの活動に関しては下記のリンクからご覧ください。

Prairie Stuart-Wolff: Link
Recollect: Link
Hanako Nakazato monohanako: Link

Prairie's first essay for Yoyokaku






 いかがでしたか。ちょっと素敵な、うらやましいような、若い二人ですね。
花子さんの作品は洋々閣の中の一室に常設展示即売しています。ユニークな作品が並んでいますので、お出かけ下さい。
ではまた来月。


今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


      メール