硫黄島
#17        2001年 8月


奇跡の刀

―平和への祈りを込めて―


このページは洋々閣のホームページの英語版の8月号のエッセイの和訳です。
日本語版の8月号のエッセイも、市丸利之助のことを書いていますので、あわせてお読みいただければ幸いです。

皆さん、こんにちは。

奇跡をお信じになりますか。お信じに なることを祈ります。奇跡がなければ、何も祈る必要がなくなりますから。そうすれば、世界は星のない空のようなものになってしまうでしょう。

私の友人は心から祈り、そして願いがかないました。今月はこの特別なお話を書きます。なぜなら、8月は太平洋戦争で大切な人を亡くされた全ての人にとって、特別な月だからです。

友人の名前は市丸晴子さんです。昭和20年(1945年)に硫黄島で戦死された海軍中将市丸利之助氏の長女です。彼女の願いをお話しする前に、父君のお話をいたしましょう。
市丸晴子さん
 
市丸利之助氏は、1891年に唐津に生まれ、1945年、終戦の5ヶ月ほど前に戦死されました。彼の生涯は飛行機の墜落事故で重傷を負ったにもかかわらず、戦闘機のパイロットとして、後には司令官として、日本海軍に捧げられました。墜落事故のあと、海軍に復帰するのに長い時間がかかりました。その間市丸は読書し、短歌を詠み、絵を描き、思索は内なる真の自己の発見にむけられました。海軍での昇級をあきらめかけたときに、海軍は予科練の設立を市丸にまかせることを決定したのです。市丸利之助が予科練の初代校長となります。そこで少年航空兵を訓練するわけですが、兵としてより、まず人間たれと、彼の教育理念は最も人道的なものでした。

けれども戦局はこの負傷した司令官をさえ戦場に引き戻します。市丸は1945年には硫黄島守備隊の海軍の司令官でした。硫黄島の死闘については、擂鉢山の頂上に星条旗を掲げる米海兵隊員の有名な写真でだれの心にも忘れ得ないものとなっていますが、日米両方で硫黄島に関する多くの本が出版されています。中でも1971年にピューリッアー賞を受けたジョン・トーランドの「昇る太陽」には、市丸利之助が玉砕の数日前に敵国の大統領に当てて手紙を書いた海軍の司令官として言及され、市丸の「ルーズベルトニ与フル書」が部分的に引用され、巻末の註には全文掲載されています。

さて、市丸利之助氏の経歴をお話しましたので、彼の刀に関する奇跡のお話をいたしましょう。
市丸少将は日本刀の名刀を所持していました。刀はサムライの魂と日本では言われていました。
少将はその刀を海軍刀に仕立てて硫黄島での最後の日まで指揮を取っていました。
負傷前の利之助


奇跡はこの刀に三度起こりました。
最初の奇跡は少将が戦闘機で飛んでいる時に弾があたりましたが、この刀の切っ先が折れて、少将は負傷を免れました。そのあと少将はこの折れた刀を研ぎなおして、以後ますます愛用しました。

二つ目の奇跡は、悲しいものです。
少将が、もはや戦闘機もなく、硫黄島で地上で戦って死んだときに刀は失われたのです。市丸は常に家族に彼の死を覚悟するように言い置いていました。家族も父は帰らぬものと、わかっていたのです。
折れた切っ先

長女の晴子は祈りました。父の特徴のある軍刀が、父のたおれた場所を示してくれるのではないかと。けれども刀が見つかったという知らせはもたらされず、父の遺体は永久に失われたのです。



二十年が経過しました。米国では次々に硫黄島関係の本が出版され、その一冊、リチャード・ニューカムの「イオウジマ」(1965年ニューヨーク)には、市丸提督の刀についての記述がありました。ある歴史学の助教授で自らも硫黄島の戦いに参戦したことのある人がこの本を読み、自分がずっと以前にニュージャージー州でイオウジマの戦利品として25ドルで買った刀がそれではないかと思い、調査の結果まさしく市丸少将の刀であることが判明したのです。


刀は、ニューヨークを訪れた日本の退役軍人にことずけられて帰って来ました。NHKテレビの番組で取り上げられて、市丸利之助未亡人のスエ子さんのもとに戻ったのです。

第三の奇跡は唐津で起こりました。市丸夫人は戻った刀を唐津城内の展示品として貸していたのですが、ある日泥棒が入り、大事な刀は他のいくつかの展示物とともに盗まれたのです。スエ子夫人はそのときにはもう亡くなっていて、晴子さんは刀が戻ることを信じて祈りました。
三年後、この刀を古物屋で買ったある都市のお医者様が、この刀の特異性に気がついて、調べられ、そして、市丸利之助の刀であることがわかったのです。

こうやって再び刀は市丸家に戻りました。
前に書きましたように、刀はサムライの魂です。今、晴子さんは、父の魂に守られて、静かな、祈りに満ちた日々を送っておられます。







刀は研ぎなおされて再び日本刀の形に戻った

市丸利之助、スエ子の婚礼写真。
家族全員での唯一の写真。左から:
俊子(次女)、利之助、鳳一郎(長男、若くして死去)、美恵子(三女)、スエ子、晴子(長女)
太平洋戦争前の、一家が幸せだった頃の一日。





この写真は1943年に戦場から送られたものです。(戦死の2年前)
左手に刀を持っています。
市丸利之助少将(戦死時には中将)は、彼の霊魂が常に家族と共にあることを知らせるために刀を家族のもとに送りかえしたのではないかと、私(筆者、大河内)には思えるのです。

この奇跡の物語を読んでいただいたことに感謝します。
もし、市丸中将が玉砕を前にしてルーズベルト大統領に書いた「手紙」をお読みになりたい場合は、日本語の原文とともに硫黄島で見つかった英訳を別ページにつけています。
おわかりいただきたいのですが、この手紙と訳文は硫黄島の地熱の高い地下壕の中で薄暗い蝋燭の光の下で書かれたものです。そして、理解していただきたいのですが、当時の日本の共通認識のために、あなたの感情を害する文面があるかも知れませんが、利之助がこの手紙に込めたものは、決して憎しみなどではなく、平和への祈りなのです。
翻訳はハワイ出身の三上兵曹によって書かれましたが、翻訳でルーズベルトと呼び捨てになっている部分で、原文はルーズベルトとなっているところがあることを付け加えておきます。

市丸晴子さんと私は、硫黄島に立つ米国側の記念碑に彫られている祈りを、祈ります。
世界に平和が満ちますように。


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