#17  平成13年8月  

市丸晴子さんのおだやかな日々

―平和を願って―





           川柳   (父に思いを寄せて)  市丸晴子

             父の背の矢印ばかり追ってきた
             涼やかな父の遺影に問いかける
             母は寅 父は兎の 佳い夫婦


 皆様、こんにちわ。お盆の月となりました。
なにかとお忙しいことと思いますのに、また「洋々閣 女将御挨拶」のページをご訪問くださいまして、ありがとうございます。
今月このページでご紹介したいかたは、年長の友人の市丸晴子さんです。
晴子さんとおはなしするとき、私はいつも胸が切なくなります。
重たいテーマで恐縮ですが、八月は終戦の月でもありますので、晴子さんの思いを伝えさせていただくことを、どうぞお許しください。

 前もっておことわりいたしますが、晴子さんも私も、戦争を賛美しているのでもなければ、批判しているのでもありません。たくさんの方が戦争によって愛する人を失われました。愛惜の念はどなたも同じだと思います。古希を過ぎた晴子さんも、ずっと、″亡き父の背中の矢印を追って″生きかたを定めてこられました。今も尚、この父母の子である自分が、何をして生きてきたか、この先何ができるかを思うと、忸怩たる思いがある、とおっしゃっています。


 ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、晴子さんの父君は、市丸利之助海軍中将(戦死時)です。(利之助は、りのすけと読みます) 昭和20年、終戦の5ヶ月ほど前に、硫黄島で戦死されました。海軍少将として、硫黄島守備隊の海軍の司令官でした。
玉砕を前に、敵国の大統領あてに一文を遺されました。そのあたりの詳しい事は、仁部四郎先生の書かれたものを別ページに掲載していますので、ぜひ、ご覧下さい。
 お母様のスエ子さんは、戦後、戦争未亡人達のお世話に献身され、一生を通じて母子家庭の福祉に貢献されました。


 晴子さんは、市丸利之助、スエ子夫妻の長女として、鎌倉で生まれました。父の赴任地を転々として、昭和20年6月に、横浜から唐津に疎開してきました。唐津高女卒業後、唐津の裁判所にタイピストとして勤め、そこでご主人となる秋美氏と出会います。
兄、鳳一郎氏が千葉医大在学中に亡くなっていたため、秋美氏が市丸家当主となります。その後、ご主人の転勤で東京に出、晴子さんは最高裁判所に勤務しますが、長男が生まれるときに退職されました。 ニ男一女に恵まれ、幸せな母親でいらしたようです。
昭和62年にご主人が退職されるのを機に、「墓守として」唐津に戻られ、今はお二人で穏やかな日々を過ごしていらっしゃいます。
ご主人は、もう少し、裁判所関係の仕事を手伝っていらっしゃいますし、晴子さんは川柳のご趣味で知られています。ご長男が幸い唐津に職を得られて近くにお住まいですので、何かとご安心でしょう。大病を何度も乗り越えて、今はだいぶお元気になられました。お孫さんの成長が楽しみの、よいおばあさまです。

 私がこのページに晴子さんに登場していただきたいとお話しますと、晴子さんは早速にインターネットの勉強を始められました。きっと、私がこのページをアップデートする8月には、お上手にインターネットをご覧になれるでしょう。71歳のチャレンジに、エールを送りましょう。

 私が皆様に読んでいただきたいのは、晴子さんが昭和59年6月に、東京都が硫黄島玉砕の40年目に整備した鎮魂の丘での第一回慰霊祭の折に、遺族代表として述べられた追悼のことばです。
年月が経過したとはいえ、その悲しみは癒えませんし、その思いは風化させてはいけないものだと思うからです。
以下がその時の原稿をお借りして写したものです。


追悼のことば

 まことに僭越ではございますが、遺族を代表致しまして追悼のことばを述べさせて頂きます。
憶えば四十年前、家庭にあっては優しい父、佳き夫、けなげな子供達は、東京都の一角、このように小さな硫黄島、水も食料も、兵器すらも乏しい灼熱の孤島で、人間の極限の生活を強いられながら、日本の国の礎として死力を尽くし、二万数千の兵士が散華されたことを思うとき、胸のうずくのを禁じ得ません。ここに謹んで哀悼の誠を捧げます。

 今は緑に覆われ、小鳥の囀るこの鎮魂の丘に、東京都のご尽力により昨年九月鎮魂の碑が建立され、本日ここに、このような追悼の式を挙げて頂きますことは、遺族一同深く感謝申し上げるところでございます。
 東京都に復帰したとは申しながら、民間の施設のない、洋上はるかなこの島には、深い想いを寄せながらも容易には参ることが出来ません。それだけに、今後も東京都のお力でこの鎮魂の丘での追悼式が催されることをお聞きして大きな喜びを感じております。

 いま、世界の情勢を思うとき、平和の重みが一段と強く感ぜられます。この島には、まだ数多くのご遺骨が収集の手を待って眠っておられます。島全体を墓苑と信じて、この硫黄島がいつまでも緑美しい静かな島でありますようにと切に祈るばかりでございます。

 今、ここにお集まりのご英霊のみなさま、みなさまのお蔭をもちまして日本は、今や経済大国と呼ばれるまでに発展して参りました。どうか再びこの島が軍靴に踏みにじられることのないよう、日本の国が進路をあやまらぬよう、お導きくださいませ。
 ここに今、私達は、生前、父が、夫が、兄が、そして息子が好きだったふるさとの香りをそれぞれに持って参りました。尽きぬ思いを胸いっぱいに語り合いたいとこうして集まっております。愛する者たちの肩に、手にのってどうかご一緒にお帰りください。

 みたまよ、世界の大変きびしい情勢の中にあって、永遠に平和を保つかは残された私達の使命であると痛く感じております。
 どうかいつまでもいつまでも見守っていて下さい。
 みたまの永遠に安かれとひたすらに念じて追悼のことばと致します。    合掌

     昭和五十九年六月二十六日
             遺族代表    市丸晴子

        

 
 戦後も四、五十年を経過したころから、だんだんと隠れた戦争秘話が表面化してきたように思います。
 平成7年9月号の雑誌「新潮」に、(当時)東京大学名誉教授平川祐弘先生の「米国大統領への手紙―海軍中将市丸利之助の生涯」が掲載され、平成8年には単行本になり、唐津市内でも話題になりました。 中将は武人であり、同時に歌人でもありました。平成9年には出身地の唐津市柏崎に、歌碑が有志の手で建立されました。
歌碑の前に立つ市丸晴子さん


       夢遠し身は故郷の村人に酒勧められ囲まれてあり

 今、晴子さんは、おだやかな日々の中にも、平和への祈りを欠かしません。「のほほんと生きていて、いいのだろうか。父の伝えたかった平和へのメッセージをどうやって次の世代に届けたらいいのだろうか」と、模索しながら。
 
 もう少したつと、戦争の記憶が風化してしまうのでしょうか。私には、何ができるのでしょうか。もしかして、この一文を読んでくださったあなた様が、何かを起こしてくださるでしょうか。
そんな思いで、これを書きました。
 長い文章をお読みくださって、ありがとうございました。晴子さんとともに、感謝申し上げます。

追伸:洋々閣ホームページの英語版の8月号エッセイに市丸利之助の「奇跡の刀」を書いています。(和訳あり)
合わせてお読みいただければ幸いです。
「米国大統領への手紙」―市丸利之助海軍中将の生涯―  仁部四郎  

 The Miracle Sword of Rinosuke Ichimaru( 英文とその和訳)


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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